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クラシックが「アニメの題材」になる皮肉な理由

プレジデントオンライン / 2020年1月21日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Furtseff

クラシック音楽はアニメや小説の題材としてたびたび使われている。その一方で、クラシック音楽そのものはほとんど話題にならない。指揮者の大友直人氏は「クラシック音楽の当事者たちが『良い』とする価値観を観客に押し付けてきたツケではないか」と危機感を表す――。

※本稿は、大友直人『クラシックへの挑戦状』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。

■アニメや小説の題材になるのは架空の世界

まだ私が若かったころ、クラシック音楽の世界というものは、確たる輝きを持ったキラキラした世界でした。指揮者で言えば、カラヤン、バーンスタインが君臨し、ピアニストにはホロヴィッツやルービンシュタイン、歌手にはマリア・カラスがいて……。クラシックはとてつもない特別感のある世界だったのです。

ところが、いつのころからでしょうか。このキラキラした特別感がクラシック音楽の世界から消えてしまったように思うのです。世界中にその傾向があると思われるのですが、とりわけ日本のクラシック音楽はその傾向が顕著です。

アニメや小説の題材に使われて話題になるのは架空のクラシックの世界なのです。あらゆる「芸術」と呼ばれるジャンルのなかで、なぜかクラシック音楽だけが、世間から取り残され、あまり話題にもならなくなって久しいと思います。

■自分たちの価値観を押し付けてきたのではないか

もちろん、映画や文学にしても、ハリウッド作品やミステリー小説に比べれば、純粋に芸術的であるとされる作品が生み出す収益は決して多くありません。しかし、一般の人々から黙殺されているかといえばそうではありません。難解な映画が賞を取り、新聞・テレビの話題になります。文学も一時期ほどの隆盛はないかもしれませんが、それでも毎年、純文学の新人賞がお茶の間の話題になるのです。ところがここ最近、クラシック音楽は、国際コンクールでの入賞のニュース以外にはほとんど報道ベースで話題になることがなくなっています。それはなぜなのか。

いまだその答えは見つかりません。けれど、もしかしたら、クラシック音楽が、自分たちの狭い世界に閉じこもり、「外部」の評価を受け付けない、もしくは、興行であるなら当然のように意識しなければならない観客の評価よりも、自分たちが「良い」とする価値観を観客に押し付けてきたツケが溜(た)まってきたのではないか……と思ったりもするのです。

■日本の漫画はフランスの片田舎まで届く

たとえば歌舞伎。伝統芸能が持つ一種排他的な雰囲気をたたえつつも、東銀座の歌舞伎座に行けば、この世界を支えてきた常連客がかぶりつきに陣取り、幸四郎や海老蔵ら看板役者が見得(みえ)を切る。拍子木がなり、掛け声がかかり、劇場は熱気に包まれる。何百年もの歴史の重みがありながら、現代の歌舞伎の世界は輝いています。それは歌舞伎が、400年もの歴史に胡座(あぐら)をかくことなく、いまだに観客を楽しませる芝居であり続けているからではないでしょうか。興行であれば当然持つべき原点が、歌舞伎にはしっかりあると私は思うのです。

驚かれるかもしれませんが、私は小学生のころ漫画家になりたかった時期があるのです。手塚治虫や石ノ森章太郎、松本零士、永島慎二などの描きだす世界に憧れ、漫画家になることを夢見るほど漫画の世界にのめりこんだ時期がありました。その後、指揮者になる志を立て、音楽の道に進み、そんな夢があったことなどすっかり忘れていました。

ところが、以前コンサートでフランスの片田舎を訪れたとき、書店の片隅に漫画コーナーがあり、フランス語訳された日本の漫画がぎっしりと並んでいてびっくりしました。それとともに、漫画に夢中になっていた幼いころの自分を思い出したのです。

■作品の輝きを決める「受け手との一体感」

フランスの小さな町で日本の漫画を手にして私が思ったことは、異国の地に人知れず並ぶ日本の漫画本の作者たちは、きっと世界に出ようと思って作品を書いてきたわけではないだろうということです。毎週、あるいは毎月の雑誌の締め切りに追われながら、目の前にいる編集者とともに、作品の続きを待ち望む読者に向けて、ただひたすら喜んでもらえる作品を書き続けてきただけに違いありません。目の前の読者との緊張関係の中でつむぎ出された作品が、気が付いたら世界で評価されていたということなのだと思うのです。

先ほど歌舞伎の話をしましたが、興行なら必ずあるべき観客との一体感、漫画や文学作品でいえば読者との連帯感と緊張関係こそが、核となる力を蓄え続けるのではないでしょうか。それこそが、「大衆向け」といわれるポピュラーな作品世界でも、芸術と呼ばれる分野でも、作品が輝き続けられるかどうかを決める大事なカギなのかもしれません。いま、クラシックがかつてのような輝きを失ってしまった理由は、私を含めクラシック音楽界の関係者が、そうした原点を見失った、あるいは、そうした視点を軽んじてきてしまったからなのではないかとも思っているのです。

■東京ほどコンサートホールが充実した街はない

日本で音楽の分野に身を置いてここまで人生を送ってきた今、この先に光が見えないことに対して、忸怩たる想いがあります。クラシック音楽界は、1980年代初頭まで、漠然としたものではありながら、方向性のようなものをみんなが共通して感じていたのではないでしょうか。そちらに進んでいけば、向こうにすばらしい世界があるのではないかという感覚があった。それが見えなくなってきたのが、現状だと思います。

大友直人『クラシックへの挑戦状』(中央公論新社)

世界を見渡してみても、東京ほど現代的なすばらしいコンサートホールがたくさんある街は他にありません。そして、それぞれのホールが盛んな活動をしています。でも、それによってクラシック音楽が本当に市民生活に深く入り込むことになっているかというと、実際にはかなり寂しい状況だと思います。加えて、大都市集中型の構造のため、東京や大阪、名古屋のような大都市では、聴ききれないほどたくさんの演奏会が行われている一方で、地方に目を移すと、まったく状況が変わってしまいます。

それでも私個人としては、クラシック音楽が広く日本の人々に愛され、人生を豊かにする未来があるということを信じたいと思っています。

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大友 直人(おおとも・なおと)
指揮者
1958年東京生まれ。桐朋学園大学を卒業。在学中からNHK交響楽団の指揮研究員となり、22歳で楽団推薦により同団を指揮してデビュー。以来、国内の主要オーケストラに定期的に客演する。日本フィルハーモニー交響楽団正指揮者、大阪フィルハーモニー交響楽団専属指揮者、東京交響楽団常任指揮者、京都市交響楽団常任指揮者兼アーティスティック・アドバイザー、群馬交響楽団音楽監督を経て現在東京交響楽団名誉客演指揮者、京都市交響楽団桂冠指揮者、琉球交響楽団音楽監督。また、2004年から8年間にわたり、東京文化会館の初代音楽監督を務めた。大阪芸術大学教授、京都市立芸術大学客員教授、洗足学園音楽大学客員教授。

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(指揮者 大友 直人)

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