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閑古鳥の街 熱海を再生したUターン40歳の正体

プレジデントオンライン / 2020年1月27日 9時15分

machimori代表取締役 市来広一郎氏

1970年代、熱海は企業の社員旅行先として活気に溢れていた。しかし、旅行が団体から個人にシフトして観光客が減少。働く場所がなくなり、町の人口も減少の一途をたどっていった。いま、その熱海が賑わいを取り戻しつつある。一時250万人を切っていた観光客数は、300万人台に回復。その立役者の1人が、空き店舗のリノベーション事業で町おこしをする市来広一郎氏だ。地方創生の鍵はどこにあるのか。田原総一朗が熱海を訪ねた――。

■シャッター街を活気づけた秘策

【田原】市来さんは熱海のお生まれだそうですね。

【市来】はい。両親が熱海にある保養所の管理をしていたので。保養所は僕が大学2年生のときに閉鎖になりましたが、両親はいまも熱海です。

【田原】学校は東京都立大学の理学研究科。将来は物理学の研究者になりたかった?

【市来】そうですね。でも、学生のときに旅の面白さに目覚めて国内外を回っているうちに、社会にもう少しダイレクトに関われることをやっていきたいと考えるようになりました。

【田原】就活は、外資系のコンサルタント会社の内定が決まるも、その会社がIBMと合併して、IBMに入社する。

■正直、充実感はなかった

【市来】最初の半年ぐらいはプログラマーみたいな仕事をしていました。大学院のときもプログラミングはやっていたので苦ではなかったのですが、正直、充実感はなかったですね。大きな仕事の一部分をやるのは、手ごたえが感じられないというか……。

市来広一郎●1979年、静岡県生まれ、熱海育ち。東京都立大学大学院修了後、IBMビジネスコンサルティングサービス(現・日本IBM)に勤務。2007年に熱海にUターンし、地域づくりの取り組みを開始。11年、熱海の中心市街地再生を行うmachimoriを設立。

【田原】だいぶ悩まれたそうですね。

【市来】長期休暇を取ってミャンマーに旅行をしたら、みなさん本当にのどかで、ストレスなく暮らしているように見えました。僕の周りにはメンタルを病んでしまった人もいたので、ミャンマーみたいなところで暮らすのもいいなと。ただ、ミャンマーもいずれは経済発展して日本のようになるかもしれない。いまミャンマーで暮らすというのは僕の甘えだと考え直しました。

【田原】いろいろ悩んだ揚げ句、地元の熱海を何とかしたいという気持ちになったと。どういうことですか?

【市来】もともと会社に入る前から、いずれは熱海に帰って町を盛り上げたいという思いは持っていました。ミャンマーではなく、身近なところから変えていこうと考えたときに、やっぱり地元からだろうと。

【田原】ただ、すぐに熱海に戻ったわけではなかった。

【市来】IBMでワークスタイル変革プロジェクトが立ち上がって、それに手を挙げて参加しました。オフィスをフリーアドレスにしたり、ITを活用して業務効率化を進めるコンサルティングをする仕事です。その仕事は面白く、とてもやりがいを感じました。ただ、コンサルタントの仕事は、あくまでもお客様が求める方向性を実現すること。面白い仕事だったがゆえに、自分のテーマで当事者としてやりたいという思いも強くなりました。

【田原】それでどうしたの?

【市来】仕事をしながら、大前研一さんが創設した一新塾に通い始めました。大学院などではなく、より実践的に経営を学べるところに入りたいなと思って。

【田原】2007年3月、会社をお辞めになる。退職すれば収入はなくなる。躊躇しなかったんですか?

【市来】あまり損得は考えていなかったですね。とにかく熱海で何かやりたい気持ちが強くて、後先考えずに辞めて帰ってきてしまいました。

【田原】さあ、その熱海です。実は僕が最初に就職したのは日本交通公社(現・JTB)。当時は社員旅行が花盛りで、熱海は日本で一番繁盛していたんじゃないかと思う。それがどうして寂れてしまったのですか?

【市来】いまおっしゃったように、熱海は社員旅行や団体旅行など法人の需要で成り立っていました。しかし、個人旅行が中心の時代になり、海外も含めて気軽に遠くに行けるようになってきた中で、熱海が選ばれなくなっていきました。

■熱海は観光客だけじゃなくて人口も減った

【田原】たしかに東京に近いことが熱海の最大のメリットでした。ただ、熱海は観光客だけじゃなくて人口も減った。それはどうしてですか?

田原総一朗●1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所へ入社。テレビ東京を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。著書に『起業家のように考える。』ほか。

【市来】観光の需要が減るにつれて旅館やホテルがなくなり、働く場所がなくなっていったからだと思います。熱海の人口のピークは約5万4000人。住民票を移さなかった人を加えると、7万人近かったという話もあります。それがいまは3万6000人まで減っています。

【田原】そんな熱海でまずは何から始めましたか?

【市来】熱海に帰ってきてわかったのは、住んでいる人が地元の魅力をわかっていなくて、熱海をネガティブにとらえていたこと。町が衰退していったので自虐的になっていたのだと思いますが、考えてみると僕自身、故郷を長く離れていて熱海の面白さがよくわかっていなかった。そこでまず熱海で面白い活動をしている人を取材して、ネットで発信することから始めました。

【田原】それは観光客より、地元の人向け?

【市来】そうです。情報も観光以外のもの、特に新しい商売を始めた人や地域づくりの活動をしている人など、人を中心に取り上げて発信しました。

【田原】たとえばどんな人がいたの?

【市来】南熱海で日帰り温泉をやっている山本進さんは、荒れ地を開墾して棚田をつくり、地元の小学生に田植え体験をさせるという活動をやっていました。実は山本さんへの取材がきっかけで、「チーム里庭」という活動に発展。これは使われずに荒れてしまった農地を再生して、熱海に移住してきた人が別荘を持つ人に使ってもらうコミュニティです。

【田原】そもそも、どうして農地が荒れてしまったのですか? 観光とは関係ないよね。

【市来】ほとんどが兼業農家のミカン畑だったんです。ミカンは価格がどんどん下がるし、高齢化の影響もあって、農業をやめる人が多かった。

【田原】それで休耕していた農地を、新しい住民に使わせると。

【市来】はい。最初は体験イベント的でしたが、ちゃんと畑を借りてやりたいという人もけっこう出てきました。いまも活動は続いていて、会員は10~20人くらいいます。

【田原】次は「オンたま」という活動を始めた。これは何ですか?

【市来】もともと別府で「別府八湯温泉泊覧会」、略して「オンパク」という活動がありました。これは地域の資源を活用した体験ツアーを、地域の方々向けに提供する活動です。僕が東京で一新塾に通っていたころに「オンパク」の話を聞いて、いつか熱海でもやりたいと思っていました。それで09年、地元を楽しむ体験ツアーの「熱海温泉玉手箱」、略して「オンたま」を始めました。

【田原】具体的にどんなツアーを?

■昭和の雰囲気が残るスポットをガイド

【市来】たとえば昭和の雰囲気が残るスポットをガイドして回ったり、海でシーカヤック体験をしてもらったり。先ほどの農業体験もそうですね。

【田原】どうやって参加者を集めた?

【市来】狙いは、地元の人を熱海のファンにすること。なので、移住者や別荘を持っている人が多いリゾートマンションに冊子を配布しました。

【田原】でも、町の魅力といっても、ほとんどの店はシャッターが下りてるわけでしょ。

【市来】意外にお店は残っていたんです。当時、熱海駅から海にかけてのエリアで400店舗近くあった。たとえば喫茶店に限っても40店舗くらいあったので、喫茶店巡りもやりました。移住者は「町が寂れている」と思って来ないのですが、そういう人たちを案内すると気に入ってくれて、リピーターになってくれました。

【田原】「オンたま」は、いまも続けているんですか?

【市来】いえ、11年で一区切りをつけました。やっていくうちに熱海のことをネガティブに言う人が減って、新しく活動する人が増えてきたので一定の成果はあったかなと。一方で、熱海として解決すべき課題は山ほどあるので、そろそろ次に進むタイミングだと判断しました。

【田原】次のステップ?

【市来】不動産を活用した中心市街地の再生です。地域再生プロデューサーの清水義次さんが熱海にいらっしゃったときに、江戸時代に「家守」という職能があったことを教えてもらいました。江戸時代は官僚の数が少なかったのですが、民間の大きな地主は「家守」にエリアの管理を任せて発展していたのだとか。いまは大地主がいるわけではありませんが、皆がばらばらで持っているものを民間でうまく集約させてマネジメントしていけば、熱海も発展していけるかもしれない。そう考えて、現代版の家守として株式会社machimoriを立ち上げました。家だけじゃなく、道や公園など町全体を見るという意味でmachimoriです。

【田原】具体的には何をするの?

【市来】先ほど田原さんがおっしゃったように、商店街は空き店舗が多いのも事実です。そこで不動産オーナーに代わってテナントを誘致したり、不動産の管理を効率化する事業をやっています。最初は、まず自分たちが事例になろうと考えて熱海銀座にカフェをつくりました。

【田原】カフェ? 経営は順調だったんですか?

【市来】いえ、それが全然。僕は学生時代にファミレスでバイトしたものの、まったく向いてなくて、ほぼクビに近い状態で辞めた人間です。うまくサービスができないからお客さんが入らないし、そうなるとスタッフともうまくいかなくなり、余計に店の雰囲気が悪くなるという悪循環でした。イベントをやり続けたり、サービスを改善することで少しずつよくなりましたが、黒字になったのは1年だけ。あとは赤字ばかりで、17年に閉店しました。

【田原】じゃ、カフェは失敗ですか?

■店舗を貸してくれる不動産オーナーが増えてきました

【市来】カフェだけ見ればそうかもしれません。ただ、僕らが店を出したことをきっかけに、この通りで新しく店をやる人に店舗を貸してくれる不動産オーナーが増えてきました。

【田原】そのあとは?

【市来】15年から「MARUYA」という素泊まりの宿を始めました。素泊まりにしたのは、建物の中で完結させるのではなく、外でご飯を食べたり、温泉に入ってもらいたかったから。熱海の町全体が宿というコンセプトです。こちらは順調で、19年にもう一軒オープンしました。いま年間で5000人くらいの方にお泊まりいただいています。

【田原】今のメーンは宿泊業ですか?

【市来】会社の収入のうち、宿泊と飲食が6割。不動産関係が2割で、残りの2割は創業支援や企業研修です。

【田原】会社は軌道に乗った。肝心の町おこしのほうはどうですか?

【市来】僕らがやってきた成果が数字として表れ始めたのは1年前ぐらいから。熱海銀座の地価が上がったり、人口や雇用が増え始めました。熱海全体を見ると高齢者の割合が多いので人口はまだ減っているのですが、転出を転入が上回って、人口減のスピードが鈍くなっています。

【田原】観光のほうはどうですか?

【市来】観光客数の底は11年の246万人で、12年以降は反転。いま307万人にまで回復しました。サービスの悪い旅館やホテルが淘汰されて、きちんと改善を続けてきたところだけが残ったこと。もう1つ、旅館やホテルが多様化して、お手頃な価格で泊まれるところが増えて、若い人が訪れるようになったことが大きい。町自体も、00年代後半から新しい店ができたり、世代交代が起きていました。そこに僕たちの「オンたま」が重なって、リタイア後に熱海に別荘を持ち、移住してきた人たちが新しいお客さんになり、少しずついい流れができてきたのかなと。

【田原】いま日本の地方はみんな町おこしに取り組んでいます。うまくいく秘訣は何ですか?

【市来】行政が仕掛けると難しいですよね。民間主導で、行政とつながってフォローする形がうまくいきやすい。あと、民間主導でも、地域で閉じないことが大切。地元のコミュニティだけでやると新しいことが起きにくいので、外部の人を入れたり、外の視点を持っている地元の方が関わったほうがいいと思います。

【田原】熱海では、外の視点を持った1人が市来さんだったわけだ。最後に聞きたい。これから熱海をどうしていきますか?

【市来】いま一部エリアは再生しましたが、町全体ではまだまだ。取り組みを熱海市全体に広げていくと同時に、これからは長期的な視野も必要かなと考えています。たとえば景観。文献によると、100年前の熱海はとてもきれいな町だったそうです。いまはまだぐちゃぐちゃなので、50 年、100年かけて美しい景観をつくる取り組みをやってみたいですね。将来はきっとクルマ社会ではなくなっているので、クルマを気にせず歩けるリゾートにするのが方向の1つです。

市来さんへのメッセージ:地方創生のトップランナーとして走り抜けろ!

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田原 総一朗(たはら・そういちろう)
ジャーナリスト
1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所へ入社。テレビ東京を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。著書に『起業家のように考える。』ほか。

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市来 広一郎 machimori代表取締役
1979年、静岡県生まれ、熱海育ち。東京都立大学大学院修了後、IBMビジネスコンサルティングサービス(現・日本IBM)に勤務。2007年に熱海にUターンし、地域づくりの取り組みを開始。11年、熱海の中心市街地再生を行うmachimoriを設立。

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(ジャーナリスト 田原 総一朗、machimori代表取締役 市来 広一郎 構成=村上 敬 撮影=宇佐美雅浩)

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