あのN響が世界的指揮者に笑い飛ばされたワケ
プレジデントオンライン / 2020年1月24日 15時15分
※本稿は、大友直人『クラシックへの挑戦状』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
■憧れの指揮者と話をした夜
私が大学を卒業した年、小澤征爾先生に推薦していただき、アメリカ、マサチューセッツ州のタングルウッドで開催される、タングルウッド音楽センターに参加したときのことでした。これは、名門ボストン交響楽団が開催するタングルウッド音楽祭の一環として毎年行われる夏季講習会ですが、ここに参加したことが、私の指揮者人生にとって一つの大きな分岐点となるのでした。
この夏季講習会は、1940年、当時ボストン交響楽団の音楽監督だったセルゲイ・クーセヴィツキーによって、バークシャー音楽センターという名前で創設されました。1970年には、小澤征爾さんが所長に就任。20世紀を代表するアメリカの大人気指揮者、レナード・バーンスタインを総合アドバイザーとして招くなどしながら、精力的に若者の指導にあたっていました。
バーンスタインは、当時、私にとって憧れの指揮者の一人でした。彼はバークシャー音楽センターに参加したことをきっかけにクーセヴィツキーから才能を見出され、指揮者としての道を拓いていきました。そのため、彼にとってこの音楽祭は出発点というべき重要な場所でした。
私がタングルウッド音楽センターに参加したのは、1981年のことでした。受講生はみんな、夏休みで使われていない近くの女学校のドミトリーに宿泊します。講習会が始まって間もないある夜、その1階のリビングにバーンスタインが来て、受講生を相手にいろいろな話をしてくれたことがありました。
■「世界のバーンスタイン」が笑ったN響
若者たちが車座になって彼を囲み、彼がおもしろおかしく語るさまざまなエピソードを聞いていました。そのときパッと、バーンスタインと私の目が合った。そして「君はどこから来た? 名前は? 何をしている?」と尋ねられました。ドキドキしながら、ナオト・オオトモと答えると、フィンランド人かと聞かれました。なにか、オットーモのような、フィンランド風の響きに聞こえたのかもしれません。そこで、自分は日本から来た、今はN響の指揮研究員をしていると答えたところ、バーンスタインはこう言ったのです。
「Oh, I know that orchestra. Horrible orchestra!(ああ、そのオーケストラは知っているよ。ひどいオーケストラだ!)」
そして彼は、学生たちを前にこんなふうに説明しました。
「このオーケストラのことは、セイジから聞いて私は知っているんだ。たとえば指揮者がフルート奏者にイントネーションが少し違うと伝えたくても、気軽に指摘することは許されない。だからこのように言わないといけないそうだよ。”あの……演奏者さま。申し訳ないのですが、あなたの演奏はイントネーションがちょっと高いようなので、できればもう少し下げて演奏してみてもらえないでしょうか?”」
バーンスタインを囲んでいる受講生たちは、その話を聞いて皆大笑いです。
■プロフィールに書かれない「日本」での実績
N響は、そんなふうに言われるようなオーケストラではない。悔しくて反論しようとしましたが、私が何も言えずにいるうちにその話題は終わり、すでに彼は次の学生との会話を始めていました。
おそらくバーンスタインは、N響と小澤先生のトラブルを耳にしていて、それをもとに、大げさにおもしろおかしく話をしたのだと思います。若き日の小澤先生は、ニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者をつとめたのち、1962年にN響と指揮者契約を結ぶも、関係がうまくいかず、指揮をボイコットされるという事態を経験していました。
私はあのとき、バーンスタインと話をしているだけで舞い上がっていたと同時に、その発言に相当ショックを受け、悔しさに震えました。まず、彼が日本のオーケストラに対してそういう認識を持っていたということ、そしてこの話が、日本を知らない外国の若者たちから一笑に付されてしまったということも、ショックでした。
そんなとき、私はあることに気がつきました。
タングルウッド音楽センターには、当時東ドイツでライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者を務めていたクルト・マズアもゲストで参加し、学生の指導やコンサートを行っていました。
彼はよく日本に来て日本のオーケストラと何度も共演し、1979年には読売日本交響楽団の名誉指揮者に就任していました。しかし彼のプロフィールを改めて見てみると、日本や読響という言葉が、一切書かれていないのです。
■驚くほど低かった「日本のステイタス」
他にも注意して見ると、たとえば当時のヴォルフガング・サヴァリッシュの英語のプロフィールには、最後に一言、「His activity includes Far East(彼の活動には、極東も含まれる)」と書かれているだけでした。彼は1960年代からほぼ毎年来日し、1ヵ月間日本に滞在してN響と共演し、1967年にはN響の名誉指揮者に就任しているにもかかわらずです。
これが世界における日本のクラシック音楽界のポジションなのだ。私はそう認識せざるをえませんでした。
日本におけるクラシック音楽の歴史を一口に語ることはできませんが、それでも明治以来、すでに長い歴史を刻み、特に戦後の音楽界の発展には目を見張るものがあったと思います。そして、1970年の大阪万国博覧会を境に、日本社会は大きく変わり、海外のオーケストラやアーティストが大挙してやってくるようになっていました。私が学生時代を過ごした1970年代後半になると、すでに東京にいながらにして、世界中のオーケストラの演奏を日常的に聴くことができる環境となっていました。日本のオーケストラも、N響をはじめとする数々のオーケストラが活動するようになっていましたし、世界の一流指揮者やソリストが常に共演していました。
それなのに、世界の音楽界における日本のステイタスが、理不尽なほど低い状況に置かれているのは一体なぜなのだろう。そんななかで、私は指揮者としてどんな道を辿(たど)るべきなのだろう。そんな問題意識が強く芽生えました。
■留学をすれば成長できるのか
どの分野でも同じだと思いますが、勉強する、自分を磨くということは、究極的には自分自身との闘いです。音楽についていえば、自分の部屋で、目の前にある譜面と向き合うということが、音楽づくりの本質です。そうやって自分を深く掘り下げていく作業を行ううえでは、ウィーンにいても東京にいても変わりません。
もちろん、環境は大切です。外国の歴史、言語、町並みなど生活環境に刺激を受けながらそれを咀嚼し、糧にしていくことも重要です。しかし、単に海外に留学すれば何か起きて自分が成長できるとは限りません。
高校を卒業して大学に入るとき、留学を考えた時期もあります。当時お世話になっていた岡部守弘先生が、ヨーロッパの音楽学校めぐりをするから一緒に来てみないかと誘ってくださり、春休みに2週間ほどヨーロッパを旅行しました。良い先生や学校に出会えたら留学を考えてみようと思って見てまわりましたが、そのときにはここだという場所を見つけることはできませんでした。
また、定期的にお目にかかっていた渡邉暁雄先生に、留学することに興味があるとご相談したことがありました。渡邉先生がおっしゃるには、常時学校で教えている先生には一流の指揮者はなかなかいない。現場が忙しい演奏家はあまり学校には行けないのだということでした。それで、留学といっても、行けば必ず何かを学んで大きく変わることができるという単純な話ではないのだと知りました。
■「東京は捨てたものではない」日本を主戦場に決めた
日本人がクラシックの音楽家を目指すというと、日本で基本的な勉強をしたあと、欧米に留学し、キャリアを積んで、その実績をもって日本に凱旋する、または日本と海外をまたにかけて活動するというのが、いつの間にか王道のパターンとなっていました。そこにあるのは、クラシックにおいては欧米が一流の現場で、そこで勉強し、活動して認められることこそが最高だという価値観です。これが未来永劫続いていくならば、日本という国や日本の音楽界は、常に二流、三流ということになってしまいます。
しかし、当時の私は多少生意気だったこともあって、日本の音楽界は本当にそれでいいのだろうか、変えていかなくてはならないのではないかと強く思ったのです。
東京は音楽的な環境としては豊かで、演奏会に好きなだけ足を運ぶことができました。さらに、N響の指揮研究員としてあらゆるリハーサルに立ち会うことができる私にとっては、とても恵まれた環境でした。そう考えると、音楽的な刺激を受ける場として、東京は捨てたものではないというのが、そのときの私の認識でした。
■「すぐに振れ!」小澤征爾さんに胸ぐらをつかまれる
タングルウッド音楽センターでは、もう一つ印象深い出来事がありました。
講習会の期間中は、毎日、指揮科の授業がありました。ところが私は指揮科の先生との折り合いが悪かったこともあって、だんだんとクラスに出なくなり、1日中、タングルウッドの芝生の上に寝っ転がっているようになっていました。あわせて、前述のような想いがだんだん強くなっていったものですから、さまざまなことに想いを巡らせながら、日本に帰ってがんばるしかないと考えるようになっていました。
あるとき、指揮科の生徒を対象に、翌年の講習会の参加者を決めるオーディションが開催されることになり、私もこれを受けるようにと言われていました。しかし当日、私は大胆不敵にもオーディションをボイコットして、やはり芝生の上で寝っ転がっていた。すると友人があわてて呼びに来て、小澤征爾さんがものすごい剣幕で怒っているから、いますぐ戻ってこいと言うのです。
仕方ないと思って会場に戻ってみると、舞台の下に、他の学生が指揮している様子を見ている小澤先生の姿がありました。近づいていくと、小澤先生に胸ぐらをつかまれました。
「お前、何やっているんだ! すぐに振れ!」
しかし私も意固地になっていたので、絶対にやらないと抵抗したのです。あまりに私が頑ななので先生もあきらめて、もういい、今夜、家に来るようにと言われました。
■使命は「日本の音楽界を変えること」
こうなったら、ここまで溜め込んできた想いのたけをすべて小澤先生に話してみよう。そう思い、その夜、私は意を決して先生のお宅に出かけました。
小澤先生の家では、その晩ホームパーティーが行われているところでした。思いつめている私の気持ちなどつゆ知らず、先生はどうやら、私があのような態度をとるのは、ホームシックにかかっているからだろうとお考えになったようで、「うちに寅さんの映画があるから、観ていきなさい」とおっしゃいました。
私はそうしてその夜、小澤先生の部屋で、特に観たいわけでもない寅さんの映画を、延々観るハメになったのでした(寅さん映画は大好きですが)。
小澤先生がそのときおっしゃったことを、私は今でも覚えています。
「君、こんなビッグチャンスをつぶすなんて、どういうことなのかわかっているのか。僕はチャンスをつぶしたことも、そこで失敗したことも、一度もないぞ!」
音楽家として、チャンスをつぶしたことは一度もない。そう思えるのは、本当にすごいことだとつくづく思います。もっとも、「ああ、結婚は一度失敗したけれどネ」なんて冗談もおっしゃっていましたが。
そのとき、いくら小澤先生から厳しい言葉をかけられても、自分にとっての使命は世界を舞台に活躍することより、日本の音楽界を変えていくことだという考えは変わりませんでした。
それから数年後、小澤先生にお会いしたとき、いくつになったのかと聞かれたので30歳だと答えると、「君、まだ日本にいるのか。もう手遅れだな」と言われました。これにはショックを受けたところもありましたが、私はすでに我が道を行くことを心に決めていたので、自分はこれでいいのだとすぐに思い直しました。
その後、小澤先生とは何度かお会いする機会がありましたが、現在に至るまで私が自分の心情を吐露したことは、結局一度もありませんでした。
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指揮者
1958年東京生まれ。桐朋学園大学を卒業。在学中からNHK交響楽団の指揮研究員となり、22歳で楽団推薦により同団を指揮してデビュー。以来、国内の主要オーケストラに定期的に客演する。日本フィルハーモニー交響楽団正指揮者、大阪フィルハーモニー交響楽団専属指揮者、東京交響楽団常任指揮者、京都市交響楽団常任指揮者兼アーティスティック・アドバイザー、群馬交響楽団音楽監督を経て現在東京交響楽団名誉客演指揮者、京都市交響楽団桂冠指揮者、琉球交響楽団音楽監督。また、2004年から8年間にわたり、東京文化会館の初代音楽監督を務めた。大阪芸術大学教授、京都市立芸術大学客員教授、洗足学園音楽大学客員教授。
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(指揮者 大友 直人)
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