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串カツ田中の「東京の世田谷から攻めていく」が大正解だった訳

プレジデントオンライン / 2020年2月4日 11時15分

写真=PRESIDENT Online編集部

大阪風の串カツ専門店が、関東地方で増えている。大阪名物の串カツが関東で受け入れられたのはなぜか。ライターの石田哲大氏は「串カツ田中の影響が大きい。東京・世田谷という住宅地から出店を始め、女性や家族連れが入りやすい雰囲気にすることで、客層を広げた」という――。

■2008年の1号店は「世田谷駅近く」だった

トレンドが目まぐるしく入れ替わるのが、外食業界の常だが、一方で流行の段階を経て市場にしっかり根づくものもある。近年でいえば、関東圏における「大阪スタイルの串カツ」は市場に定着した事例だろう。その立役者は「串カツ田中」だ。

串カツ田中が東急世田谷線の世田谷駅近く(住所は東京都世田谷区世田谷)に直営店1号店を出店した2008年当時は、「大阪スタイルの串カツ」といってもピンとくる向きは少なく、記事を書くときには「大阪では一般的なソースの2度づけが禁止の……」などと、くどくど説明したものだ。それがいまでは大半の人はイメージがすぐにわくはずだ。仮にわからなくても、串カツ田中の名前を出せば「あぁ、あれね!」となるだろう。

それでは、なぜ大阪スタイルの串カツが首都圏で流行し、深く根を下ろすことができたのか。その疑問を解く前に、大阪スタイルの串カツがはやる前から存在していた「東京風の串カツ」にも触れておきたい。

■東京の串カツには2つの系統があった

東京で食べられている串カツは、筆者の見立てでは大きく2系統に分類できる。ひとつは、大衆的な酒場や食堂、とんかつ店で提供している豚肉とタマネギを串打ちし、パン粉をまぶして揚げたスタイル。ソースをべっとりつけてほお張り、ビールやレモンサワーで流し込むイメージだ。

もう1系統は、「串揚げ」と呼ぶほうが一般的かもしれない。豚肉だけでなく、魚介や野菜を一口サイズにカットし、串にさして揚げたもので、ずっと上品なイメージだ。客単価が1万円を超えるような高級店もある。

いずれにしても、串カツと呼ばれる食べものはもともと東京に存在していたのだが、そこに殴り込みをかけたのが大阪スタイルだったわけだ。

■「串カツ田中」と「串かつ でんがな」が登場

実はチェーンが出店する以前にも東京には大阪スタイルの串カツ店が存在していた。代表的なのが東京・北千住に店を構える「天七」である。現在もオープンと同時にお客でごった返す人気店だ。同店の店主は大阪の串カツ店で修業し、1975年に開業したという。とはいえ、その存在は「知る人ぞ知る」というレベルで、関東圏に住む大多数の人にとって大阪スタイルの串カツは未知の食べものであった。

そこに目をつけたのが、ノート(現・串カツ田中)とフォーシーズの2社だ。前者は前述のとおり、2008年12月に東京・世田谷に串カツ田中の1号店を出店。屋号の「田中」は大阪出身で串カツに対する思い入れが強く、業態の開発を担当した同社取締役の姓から取っている。

一方で後者は、宅配ピザ「ピザーラ」や高級フランス料理店「ジョエル・ロブション」などを展開する外食企業。大衆向けの業態を開発するにあたって大阪出身の取締役が音頭を取り、2008年4月に「串かつ でんがな」の1号店を東京・渋谷にオープンした。2020年1月現在で「田中」が276店、「でんがな」が84店を出店している(各社HPより)。

■「大阪名物」になったのは2000年代になってから

なお、大阪における串カツの歴史については、新世界にある「串かつだるま」で発祥したというのが定説のようだ。菊地武顕著『あのメニューが生まれた店』(平凡社)によると、もともと串カツは肉体労働者の食べもので、現在のようにたくさんのメニューがあったわけではない。牛カツだけを提供していて、大阪でも今ほどメジャーな存在ではなかった。

それが、「大阪名物」とまでいわれるようになったのは、意外にも2000年代に入ってからだ。串かつだるまが閉店を余儀なくされそうになったとき、元プロボクサーで俳優の赤井英和氏が尽力して現在の店主にあとを継がせ、自身も串カツの魅力をテレビなどで喧伝した。こうして串カツ人気が高まり、それまで新世界にしかなかった串カツ専門店が大阪のほかのエリアにも広がっていったということだ。

■カリッとした食感も、「2度づけ禁止」も新鮮だった

この大阪スタイルの串カツが東京で受けた要因は、商品の目新しさと営業スタイルの両面から分析することができる。

まず、商品としての大阪スタイルの串カツは、前述の東京風の串カツとは似て非なるものである。東京ではほかの揚げものと同様に小麦粉をまぶしてから卵液にくぐらせ、パン粉をまぶして揚げるのが普通だ。一方、大阪のそれは卵、小麦粉、そしてヤマイモなどを合わせて仕込んだバッター液(衣)とごく細かくひいたパン粉を使用する。これによって、独特のカリッとした食感を生み出し、揚げものであるにもかかわらず、スナック感覚で気軽に何本でも食べられてしまう。

バラエティー豊かな具材も関東圏の人にとっては新鮮だった。定番商品の牛カツはそもそも関東ではなじみが薄かったし、ミニトマト、紅ショウガ、もち、チーズといった大阪らしいジャンクなメニューもものめずらしく映ったに違いない。サイドメニューにも関東では認知度が低い「どてやき」「肉すい」といった商品が並んでいた。

加えて関東人の心をとらえたのは、「2度づけ禁止」に代表される独自のルールや食べ方だ。串カツ専門店では卓上にソースが用意され、お客は運ばれてきたアツアツの串カツをこのソースにドボンとつけてほお張る。このソースは使いまわすので、一度口をつけた串カツを再投入してはいけない。キャベツはたいていお替わりが無料で、「ソースを追加でかけたいときには、このキャベツをさじ代わりに使うんだ」なんていうウンチクを語る人をよく目にした。

■住宅地に出店してから駅前一等地へ

近年、首都圏の外食市場では「大阪発」「関西発」の商材や業態が受ける傾向があり、その流れにうまくのったといえるかもしれない。10代後半~20代前半の女性を中心に、安くて敷居の低い大阪の食文化にはまる人は少なくない。近年はもともと関東にはなかった「牛カツ」も大ヒットしている。

ただ、こうした業態や商品の魅力だけでは、それこそ一過性のブームで終わってしまった可能性もあっただろう。串カツ専門店が、なかでも串カツ田中がここまで店数を増やすことができた背景には、巧みな店づくりや立地・出店戦略がある。

大阪の串カツ店は、前述のとおりもともと労働者相手の店だったので、下町の庶民的な飲み屋街が主要立地であった。一方で串カツ田中は出店当初、あえて一等立地ではなく、近くに住宅街をひかえた生活道路沿いの二等立地に出店した。そのほうが出店コストや家賃などの固定費も安く、地元の常連客をつかめば集客のための宣伝費も必要なかったからだ。そうして認知度をある程度上げてから、駅前の一等立地に出店したのである。

■清潔感にこだわり、家族連れを意識

店づくりはよくいえばシンプル、悪くいうとチープだが、そのぶんクレンリネスには気をつかっている。メーカーが重視する4S(整理、整頓、清潔、清掃)をマネジメントに導入し、現場レベルではレンジフードや冷蔵庫のフィルターといった清掃箇所とそのポイントをチェックシートによって明確化している。

店内は白を基調とし、照明も明るい。「場末の飲み屋」ではなく、女性や家族連れでも入りやすい食堂のような明るい雰囲気だ。これによって、一般的な大衆酒場がメインターゲットとする年配男性にとどまらず、幅広い客層を集客することに成功した。

創業当初から子供客にはソフトクリームをセルフで提供するサービスを実施するなどして、家族連れに対するホスピタリティを重視してきた。現在では「手作りたこやきセット」「田中のおにぎり」といった小さな子供を意識したメニューが、さらに増えている。2018年6月に全面禁煙に踏みきって話題になったことも記憶に新しい。この点から見ると、串カツ田中は「居酒屋」だけでなく、「ファミレス」に近い利用動機を吸収しており、実際に居酒屋の営業がむずかしいとされる郊外ロードサイドにも出店している。

■早くからフランチャイズ化し、店舗数を増やした

10年あまりの間に300店近くを出店したスピードに関しては、早くからフランチャイズ(FC)化に取り組んだことが大きい。2020年1月現在、276店の半数以上にあたる150店がFC店である。1号店出店から3年後の2011年には早くもFC1号店をオープンしている。

レシピの流出を防ぐために、ソース、揚げ油、衣などはプライベートブランド化して外部の工場に発注。店舗でのオペレーションは極力簡略化している。そのため従業員の負担が少なく、商品のクオリティーがブレにくいので、FC化に非常に適した業態といえる。加えて、前述のとおり、住宅街、駅前、郊外など多様な立地に出店できているのも大きい。

要するに大阪スタイルの串カツ店がいっときの流行にとどまらず、首都圏に定着することができたのは、商材や業態がもつポテンシャルだけに頼ることなく、外食企業が集客のための適切な戦略を立て、店舗数を拡大できたという点が大きい。いくら商品が魅力的でも、店づくりやサービスがおざなりならお客は足を運ばない。串カツがヒットした背景を考察すれば、外食業の基本を再確認できるのではないだろうか。

※参考文献『月刊食堂』2012年7月号、2013年9月号、2015年4月号(柴田書店)

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石田 哲大(いしだ・てつお)
ライター
1981年東京都生まれ。料理専門の出版社に約10年間勤務。カフェとスイーツ、外食、料理の各専門誌や書籍、ムックの編集を担当。インスタグラム。

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(ライター 石田 哲大)

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