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「親が誰かわからない」教科書には載らない日本の偉人の恋愛事情

プレジデントオンライン / 2020年2月7日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Kagenmi

不倫は文化なのか。東京大学史学編纂所教授の本郷和人氏は「長らく日本は男女の性に対しては非常におおらかなお国柄でした。恋愛について、四角四面で怒るようになったのは、江戸時代の武家社会やその影響を受けた明治以降。『源氏物語』を見る限りは、長い日本の歴史において、不倫は文化のひとつだったようです」という——。

※本稿は、本郷和人『空白の日本史』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。

■日本文化の中心にあるもの、それは「恋」

平安時代は、日本の歴史を振り返ってみても、非常に平和な時代でした。戦争がなく、外圧もない。予定調和的で変化がないし、どう考えても産業革命などは起きそうにもない。でも、だからこそ、平安時代は女性が活躍できる素地が整っていた時代でもありました。

でも、平安時代は戦いがない時代なので、戦いにそれほど重きは置かれません。すると、女性がどんどん進出し、活躍します。実際、女性である紫式部が書いた『源氏物語』が当時の代表的な作品と呼ばれていたことからも、貴族社会において女性の地位は非常に高かったはずです。

平安時代当時に『源氏物語』を読むことができた人間がどれだけいたのかといえば、ほんの一握りの貴族だけだったことは確かでしょう。高貴な女性たちのサロンで生まれた作品を、この時代の代表作とするのは、一般の農民たちにしてみれば遺憾かもしれません。

でも、美というものが、どうしても一種のスノビズム、俗物性を孕んでいるなかで、それをどう磨いていくのかが肝心です。その美しさを極限まで磨いていった貴族社会において、日本文化の中心にあるものは何だったのか。

その問いに対して、小説家の丸谷才一さんは「恋だ」と指摘しています。たしかに、平安時代の貴族文化の中心にあるのは何と言っても和歌である。これに、反対する人はいないでしょう。

■「色好み」和泉式部の奔放な恋愛模様

和歌のメインテーマは「恋」です。男性だけではなく、女性も高い教養を持っているので、好きな相手に和歌を送り合うという文化が発展した。また、平安時代の日本では、恋愛をしている人ほど、尊敬される風潮さえあったのです。

恋愛が盛んな男女を指す言葉に、「色好み」という言葉があります。これは現代ではマイナスにとられがちですが、当時は「恋愛をしっかり楽しんでいる人」「気持ちに余裕がある大人っぽい人」として、プラスの評価を受けていました。

その時代、「色好み」として知られたのが、紫式部の同僚であった和泉式部という女性です。彼女は歌人としても大変有名な人で、藤原道長の娘であり、一条天皇の后だった藤原彰子(988-1074年)に仕えていました。

当時は、天皇のお后の周囲に、優秀な女性をはべらせ、サロンを開くのが一般的でした。和泉式部も紫式部も大変優秀な女性だったので、藤原道長は最愛の娘である彰子の相手役として、とびっきりの才女を選んだのです。

■恋愛が盛んな男女は、プラスの評価

さて、和泉式部はどのように色好みな女性だったのか。まず、彼女は別居中の夫がいたにもかかわらず、冷泉天皇の第三皇子であった為尊親王に求愛されます。その後、為尊親王が亡くなった後は、その弟の敦道親王からも求愛され、恋仲になります。

なんと二人の親王、しかも兄弟から求愛され、その愛を受け入れるという奔放な恋愛模様が世に知られ、彼女は「浮かれ女」と呼ばれていました。これは、今の言葉にすれば「ビッチ」などの表現が近いでしょう。

当時の価値観からすれば、これだけ恋愛が盛んなことは、非常に誇らしいことだと思うのですが、あまりにも身分違いの恋だったせいか、彼女の評判はあまり良いものではありませんでした。ただ、和泉式部の場合は例外として、当時の社会では「色好み」というのは男女ともに大変なプラス評価でした。

日本は男尊女卑社会だとして、いまだにユネスコなどに指摘されることもありますが、歴史的に見ると、女性がすごく大切にされている時代も存在したのです。おそらくそうした時代に変化が生まれたのは、武士が登場したあたりからではないかと考えられます。

■男性優位になった江戸時代、原因は儒教?

室町時代くらいまでは文化面では貴族が優位に立っていました。文化面における女性の比重は重いので、当時もまだ女性が活躍できる素地は相当にあったのではないでしょうか。

そして、戦国時代。当時の女性の肖像画を見ると、だいたい立膝をして、ゆったりとした衣服を着ています。なぜ、そうした肖像画が残っているのかというと、あれが当時の女性たちの正装だったからです。

当時の女性たちにとって、絵を書いてもらうことは一生に一度あるかないかの晴れ舞台。だから、一番良い晴れ着を着て、正装して登場します。明治時代の軍人の肖像写真を見てみると、たくさんの勲章を付けていますが、あれと同じようなもの。

逆に言えば、当時の女性の正装とは、立膝してゆったりした衣服を着るというもの。正座をしたり、身体を締め付けるような衣服を身にまとうことは、戦国時代の女性たちは求められていなかったのです。その風潮が変わり始めるのが、江戸時代です。

なぜ、ここで女性の立ち位置が変わったのかは、明確ではありません。でも、個人的には、儒学の影響が色濃いのではないかと思います。

儒学では、女性は、娘時代は父に従い、妻になれば夫に従い、夫の死後は息子に従うべきだと言う「三従の教え」にあるように、極めて男性優位な思想が強い。こうした影響により、女性の地位が下がっていったのではないかと思います。

■義母と不倫、男児誕生、即位…

先ほども紹介したように、日本では「恋」に非常に重きを置いていたため、男女の恋愛がおおらかでした。天皇の妻たちが集う宮中にしても、表向きは男子禁制ですが、例外や抜け道も多かった。たとえば、その女性の親族であれば、男性でも中に入ることは可能でした。

そもそも『源氏物語』にしても、その冒頭からしてかなり問題です。主人公である光源氏は桐壺帝という先帝の息子で、朱雀帝と呼ばれる現在の天皇の弟君であるという設定。いうなれば、今の天皇陛下と秋篠宮殿下のような関係です。

その方が臣籍降下して、皇族ではなくなった状態が源氏です。前の天皇の息子であり、今の天皇の弟なので、天皇家の血は濃い。ただ、皇族か一般人かと線を引くなら、源氏は一般人に分類されます。

物語の冒頭で、源氏は藤壺の宮という桐壺帝の妻、すなわち義理の母と不倫をします。しかも、源氏と藤壺の宮が密通した末、男の子が生まれ、将来的には、その子供が新天皇になってしまいます。これは、普通に考えたらとんでもない話です。

たとえるなら、頼朝が皇后と密通して作った子供や、清盛が密通して作った子供が、天皇になってしまったようなもの。それなのに当時の人々は誰もその大問題を指摘せず、「源氏物語は面白い」「源氏物語はすばらしい」と読んでいる。

そう考えると「天皇家の万世一系は本当に守られているのか?」と、疑問に思う人も出てくるでしょう。でも、『源氏物語』には、さらにとんでもない恋愛について、書いているくだりがあります。

■美魔女を愛した光源氏、天皇や夫のような存在がいるのに…

当時の宮中では様々な女性が仕えていましたが、天皇に仕える女官は内侍と呼ばれます。内侍のトップが尚侍(ないしのかみ)でした。宮中の役職というのは、基本的に「長官、次官、判官、主典」という四等官制になっています。たとえば当時の県知事である国司の場合も、長官のほかに、次官、判官、主典がいて、実質的に県知事は四人いた。つまり、どの役職にもナンバーワンからナンバー4までが存在したのです。

内侍の場合は、もともとナンバー4である主典は置かれない決まりだったため、ナンバー3までいて、その下に二十人くらいの内侍たちが控えていました。ただ、平安後期から長官である尚侍は置かれなくなり、次官である典ないし侍のすけが実質的なトップを占めるようになります。

天皇の一番近くにいて、お仕えの女官の中で最上位の地位にいるため、典侍(ないしのすけ)は天皇と男女の仲になることが頻繁にありました。もちろん天皇には正室である皇后のほか、中宮など呼び方や待遇が違う妻たちがいましたが、そうした「天皇の妻」とは別に、天皇に仕える女官の中にも、天皇のお手付きとなる女性たちは数多くいました。その筆頭が典侍です。

『源氏物語』の中で登場するのは、源典侍という女性です。彼女はもともと源家のお嬢さんだったようで、当時17、18歳だった光源氏と恋仲になりました。しかし、当時の典侍の年齢は、なんと57、58歳! 現代では、50代後半はまだまだ美しい女性も多いので珍しい話ではないかもしれませんが、当時はとんでもなく年上の女性だと言えるでしょう。その典侍が大層な色好みな方で、源氏と良い仲になってしまったわけです。

■『源氏物語』から考える皇統継承への懸念

ただ、冷静に考えると、これはなかなか大変な話です。天皇との関係もあるのに、弟である光源氏とも付き合う。さらに、彼女には修理大夫(すりのかみ)という夫のような存在もいます。また、歴史的にみると、典侍の中には天皇の子供を産んでいる人が非常に多い。さらに言うと典侍が産んだ子どもが天皇になることも大変多い。

中国の宮廷風に言えば、「絶対ほかの男と接点は持ってはいけない」とされる女性にも関わらず、夫のような存在もいる上、若い男と密通もしている。そうなると、改めて「本当に万世一系は保たれているのだろうか?」と思ってしまいます。

■3人の皇子に愛された女貴族のしたたかさ

でも、日本の女性たちもしたたかです。それがわかるのが、鎌倉時代、後深草院二条が書いた『とはずがたり』という作品です。これは、後深草院に勤めていた二条さんという、身分の高い貴族の家に生まれた女性が書いた日記です。

後深草院二条の母は、後深草天皇(1243-1304年)の乳母をやっていた人物でもあります。この当時の乳母というのは、天皇をお育てする一方、その延長線上として、天皇の初めて女性となって、手ほどきする存在でもありました。そこで、天皇は、二条に会ったとき、自分の最初の相手である乳母の面影を彼女の中に見つけます(もちろん、娘だから似ているのは当然なのですが)。そして、二条さんを寵愛する。

後深草天皇は政治的にはほぼ実績がないものの、男女の性には業の深い人でした。彼の父である後嵯峨天皇(1220-1272年)は、兄である後深草天皇よりも弟の亀山天皇(1249-1305年)を深く愛します。そして、兄ではなく弟こそが、自分の正統な後継者だと位置づける。それが発端になり、亀山天皇が率いる大覚寺統と後深草天皇が率いる持明院統の争いが生まれ、南北朝時代を引き起こす要因を作ります。

ただ、政治的な対立も、女性の前では何の意味もありません。ある時、亀山天皇が、後深草天皇の元で働いていた二条を見て、「兄さんのところで働いている二条という女の子は可愛(かわい)いね」と言うと、後深草天皇は「じゃあ、俺が橋渡しをしてやろう」とばかりに、亀山天皇と二条の仲を取り持ちます。

さらに、この兄弟には、性助法親王という出家して僧侶になった弟がいます。本来は仏に仕える身ゆえ、女人はご法度のはずですが、彼も二条に心惹かれる。すると、後深草天皇は、またもや親王と二条の仲を取り持ちます。和泉式部は二人の皇子に愛されて「浮かれ女」と呼ばれましたが、二条は三人の皇子に愛されることになり、浮かれ女どころの騒ぎではありません。

■自分の母親が誰なのかもわからない

また、当時の朝廷で大変な権力を持つ西園寺実兼という貴族がいたのですが、二条はこの貴族からも寵愛されています。やがて二条が妊娠するも、子供が誰の子なのかはわからない。当時の身分の高い人は、自分で子供を育てないのが当たり前だったため、二条が女の子を産んだら、西園寺の家臣たちが飛んできて、子供を引き取って、すぐに退散してしまう。その後、二条の生んだ娘は、西園寺の正妻の娘として育てられることになります。

二条は、『とはずがたり』で、当時を回想しながら「あの方(自分の娘のこと)はいまどこで何をされているのかしら」と綴(つづ)っています。この時代は、自分の母が誰なのかがわからないという事態も、よく起こっていたようです。そう考えると、ますます「万世一系は大丈夫なのか?」と考え込んでしまいます。

平安時代や鎌倉時代は、男女の恋愛に対して、いたっておおらかなものでしたし、室町時代になると、『源氏物語』は貴族の間で深く愛読されていた。

でも、江戸時代のように女性の権利がぎゅっと押さえつけられてしまった時代になると、『源氏物語』の評価は、一気に変わります。実際、当時の京都の行政機関のトップである京都所司代が、「『源氏物語』は文学としてはいいけれども、こういう風紀の乱れはどうかと思う」と言い出したとも言われています。

ただ、室町時代が仮に西暦1500年まで続いていたと想定してみても、日本は女性に対しておおらかだった時代の方が長い。現代の日本では無視されがちな「女性史の空白」を知ることで、いま議論されている男系天皇、女系天皇に対する議論も、少し変わって見えるのではないでしょうか。

■名もなき庶民も性におおらかだった

貴族の恋愛は『源氏物語』から紐解(ひもと)ける部分があります。では、石井進先生の研究のように、名もなき人たちの間では男女の関係はどのように行われていたのでしょうか。江戸時代の農村は、女性に対する圧力はあったものの、性に対しては非常におおらかな時代でした。それを表す例として、よく引き合いに出されるのが「若者小屋」の存在です。

多くの地域社会では、子供に対して通過儀礼として何らかの試練を与え、無事にその試練に耐えることができたら、一人前の若者として共同体に参加することを許します。江戸時代では、この「若者小屋」に出入りが許されるのも、「大人として認められた証し」のひとつでした。

では、若者小屋で何をしていたのかというと、簡単に言えば乱交のようなもの。その代わり、結婚をすると小屋への出入りは禁止される。それが、当時の地方における男女の恋愛の状況でした。

本郷和人『空白の日本史』(扶桑社新書)

女性は妊娠や出産を経て、身体に変化が起きる。そのため、子供ができると、多少女性側はハンデを背負うことになりますが、地域社会では男と女が1対1で家族を作るので、妊娠によって何か差別が起こっていたとは思えません。

むしろ、民俗学でよく言われるのは、家を継げない次男や三男は、家を建てるだけの余裕がないので、嫁を貰(もら)えないことが多かったという点です。そういう次男や三男は「厄介おじ」と呼ばれ、長男の息子、つまり自分の甥っ子の世話になります。彼らには伴侶がいないため、性欲を満たすために、未亡人に夜這いに行くなどの出来事が起こります。

今でも中央アジアのキルギスやカザフスタンなどでは、略奪婚などの風習も残っていますが、世界広しといえど、古今東西、人間が考えることはあまり変わらないのですね。

■歴史的に見れば、恋愛に開放的なお国柄

長らく日本は男女の性に対しては非常におおらかなお国柄でした。恋愛について、四角四面で怒るようになったのは、江戸時代の武家社会やその影響を受けた明治以降です。

「日本は奥ゆかしい文化」だと口にされますが、歴史的に見ると、男女の恋愛については、むしろ非常に開放的だったと言えるでしょう。

90年代半ばに、俳優の石田純一さんが「不倫は文化だ」と発言して話題になりましたが、『源氏物語』を見る限りは、たしかに長い日本の歴史において、不倫は文化のひとつだったようです。

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本郷 和人 東京大学史料編纂所教授
1960年、東京都生まれ。東京大学史料編纂所教授。専門は、日本中世政治史、古文書学。『大日本史料 第五編』の編纂を担当。著書に『日本史のツボ』『承久の乱』(文春新書)、『軍事の日本史』(朝日新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『考える日本史』(河出新書)。監修に『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社)など多数。

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(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人)

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