「認知症になると死は怖くなくなるか?」91歳専門医が出した結論
プレジデントオンライン / 2020年2月12日 15時15分
※本稿は、長谷川和夫・猪熊律子『ボクはやっと認知症のことがわかった 自らも認知症になった専門医が、日本人に伝えたい遺言』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
■認知症になると、死は怖くなくなるのか
ある講演会に招かれたとき、「認知症になると何もわからなくなるから、死は怖くなくなるのですか。認知症でないときよりも、むしろ楽なのでしょうか」と尋ねられました。ボクが自分のことを認知症だと思いはじめていたころのことでした。
ボクはこんなふうに答えました。
「正直、わかりません。でも、重い認知症になっても、自分がされたら嫌なことや、自分の存在が消滅してしまうのは恐ろしいという気持ちは残るのではないかと思います」
耳から聞くことは死ぬ間際までわかっているらしい、とよくいわれます。だから、死が間近な人のそばで下手なことはいわないほうがよい、と。母親が死ぬ間際に娘が駆けつけて、大丈夫? A子よ、わかるなら手をぎゅっと握ってみて、といったら、母親が手を握ったというエピソードを聞いたことがあります。
目で見えることはわからなくなっても声を聞くことはできるし、いっていることもわかる。認知症の人も、恐らくそうなのではないかと思います。
■認知症について正しい知識をもってほしい
生きることは老いること。老いることは生きることで、死を迎えることでもあります。その準備をしようと、もう20年ほど前に遡りますが、家内と一緒に日本尊厳死協会に入りました。
ただ生かされているだけの状態になったら延命治療はしないでほしい。それを表明したカードもつくりました。いまでもその考えに変化はありません。子供たちにもそう伝えてあります。
長生きすると認知症になりやすくなるから、ボクがなったのもそう不自然なことではないと思います。ただ、生きているうちは少しでも社会や人の役に立ちたい。身体も不自由になってきたけれど、周囲の助けを借りながらその思いを果たしていきたい。
やはりいちばんの望みは、認知症についての正しい知識をみなさんにもっていただくことです。何もわからないと決めつけて置き去りにしないで。本人抜きに物事を決めないで。時間がかかることを理解して、暮らしの支えになってほしい。そうしたことをお伝えするのが、自分が生きていく道であり、死んでいく道にもなると思っています。
幸い、ボクには家族やぬくもりのある社会との絆があります。それに感謝しながら。体験というものには、温度差があると思います。たとえば、あなたが今日ここに来てくれたとしたら、それはボクにとっては「温かい」という感じです。
嬉しくて、一緒に話すのが楽しい。そして別れの時間が近づいて、「さようなら」といわれたら、がっくりです。温度が下がっていくのを感じます。人と会ったら温度が上がるし、人と別れて寂しく感じたら下がる。だからこそ、温かい体験や、温かい絆をできるだけたくさんもっていられたらと思います。
■でも、死ぬのはやはり怖い
芥川龍之介の有名な小説に『蜘蛛の糸』があります。
主人公が蜘蛛を見つけ、その命を踏みつぶそうとしたのをやめたのを見た釈迦が、地獄に落ちた彼に慈悲をかけ、長い糸を垂らした。彼は、「これは幸い」と糸につかまって地獄から地上に上りはじめたけれど、ふと後ろを見たら、たくさんの罪人が彼に続いて糸をよじ上ってくる。「だめだお前たち、そんなことしたら糸が切れちゃうじゃないか。降りろ」と彼がいった途端、自分のところからぷつんと糸が切れ、彼は元どおり、地獄に戻ってしまったという話です。
「蜘蛛の糸」は1918(大正7)年に、児童向け文芸雑誌『赤い鳥』に発表された芥川龍之介の作品。地獄に落ちたカンダタという名の泥棒の男が、かつて蜘蛛を助けたことがあったことから、釈迦がこの男に救いの手を差し伸べるという内容。
死については、昔からよく考えます。死んで戻ってきた人がいないところを見ると、よさそうな場所に思えるけれど、地獄に落ちてしまうこともあるから、こればっかりは死んでみないとわからない。天国に行くか、地獄に行くか。いずれにしても、死ぬのはやはり怖い。
ボクは心臓に病気があって、発作に備え、いつも薬を持ち歩いています。だから死について考えることも多い。そんなボクにとって、認知症は、死への恐怖を和らげてくれる存在のような気がするのです。心臓や、死のことばかりを考えなくて済むようになったという意味で。
■認知症は「神様がボクに用意してくれたもの」
語弊があるかもしれませんが、認知症は死への恐怖を和らげるために、神様がボクに用意してくれたものかもしれないとも思います。だって死はやはり怖い。死んだら終わり、それは真っ暗な闇ですから。そういうことを思えば、やはり生きているうちが花。もちろん生きていく過程では、つらいこともあります。
ボクも、これまで生きてきたなかで、戦争、肉親の死、仕事上のことなど、ほんとうにつらくて死にたくなるようなことが山ほどありました。でも、やはり生きているということが素晴らしい。つらかったり、苦しかったりすることがあっても、明けない夜はありません。夜のあとには必ず朝が来るのです。
こうやって書籍を通し、みなさんに話しかけられるのも、生きていればこそ。生きている「いま」を大切にしたい、そう深く思っています。
■まだやらなければいけないことがある
2019年9月、下の歯が三本、突然抜けてしまいました。歯茎がかなり弱っていたようです。上の右のほうの歯も一本、道路で転んだときに欠けてしまった。痛くはありませんが、食べるときに不自由だから、何とかしなくてはと思っています。
月に三度くらい、心臓がギュッと締めつけられるように痛くなったことがありました。慌てて薬を飲んだけれど、こうしてみると、だんだんお迎えが近づいてきていると思います。そろそろおいでよって。でも、いやいや、もうちょっと待ってくれって、押し返しているのです。なぜならボクには、まだやらなければいけないことがあるからです。
やりたいことの一つに、全国で認知症ケアの指導にあたっている人たちのフォローアップ研修があります。認知症介護研究・研修東京センターで、認知症ケアを現場の人たちに教える指導者養成研修をしていますが、その研修を終えて指導者になったリーダーたちが「being(ビーイング)」という会をつくっています。
■医療と介護の両面で支える必要がある
関東や九州など各地に散って、現場の介護職員の人たちに認知症ケアの基礎を教えている。それ自体はとてもよいことだけれど、指導者となった彼ら自身のアフターケアをするシステムが必要だとボクは思っています。
医者も心理士も、学会のあと、研修の講座がいくつもあって、知識の補給ができています。それに比べて、介護の世界のアフターケアは手薄なのではないか。認知症の医療、介護面の技術や知識は日進月歩です。新しい薬も出てくるでしょう。
そうした新しい技術や知識を、面と向かって教えてもらえる場所や機会がもっとあったらよいと思うのです。それをボクはやりたい。最後のボクの仕事になるかもしれないと思っています。
■明日やれることは今日手をつける
最近、以前よりも元気になった気がしています。認知症になって失ったものも、もちろんあるけれど、世界が広がりました。
自分が認知症であることをいち早くカミングアウトしたクリスティーン・ブライデンさんは、「私は最も私らしい私に戻る旅に出るのだ」といいました。いまのボクもそんな気持ちです。ブライデンさんが通ってきた道をいま、ボクも通っている気がします。
いま、心がけているのは、明日やれることは今日手をつけるということです。
たとえば、本を書きたいなと思ったら、せめてその一文のようなものを、1行でも2行でもいいから、今日書いてみる。とにかく手をつける。全部はとても無理だから、少しだけでいい。そうすると、未来に足を伸ばしたことになります。何もしないでとどまっているよりも、未来に希望がもてるし、楽しみも増えます。何よりも、自分自身が安心できます。
■死を上手に受け入れる
少し足を伸ばした未来は、やがて「いま」になります。いまがいちばん大切です。過去に起きてしまったことや、過去に自分がやったことは変えられないし、どうしようもない。でも、じつは過去というものは、ほんとうはないのです。過去とは、いま。なぜなら、昔のことを思い出したり、話したりしているのはいまなのだから。
「いま」という時間を大切に生きる。繰り返しになりますが、生きているうちが花です。そう思いながら、社会や人さまのお役に立てることを、自分ができる範囲でやっていきたい。そして最後は、一回きりの死を上手に受け入れて、旅立っていきたいと思っています。
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認知症介護研究・研修東京センター名誉センター長、聖マリアンナ医大名誉教授
1929年愛知県生まれ。53年、東京慈恵会医科大学卒業。74年、「長谷川式簡易知能評価スケール」を公表(改訂版は91年公表)。89年、日本で初の国際老年精神医学会を開催。2004年、「痴呆」から「認知症」に用語を変更した厚生労働省の検討会の委員。「パーソン・センタード・ケア」を普及し、ケアの第一人者としても知られる。現在、認知症介護研究・研修東京センター名誉センター長、聖マリアンナ医大名誉教授。認知症を描いた絵本『だいじょうぶだよ――ぼくのおばあちゃん――』(ぱーそん書房)の作者でもある。
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(認知症介護研究・研修東京センター名誉センター長、聖マリアンナ医大名誉教授 長谷川 和夫)
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