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アメリカ人が理解できないイラン人と日本人の意外な共通点

プレジデントオンライン / 2020年2月24日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Grigorev_Vladimir

イランの司令官が米軍に殺害され、あわや戦争という事態になった。駿台予備学校の世界史講師の茂木誠氏は「複雑な中東問題を理解するには、日本の皇室の歴史を理解するといい。たとえば日本とイランには多くの共通点がある。西欧的な価値観でイランを理解することはできない」という――。

■中東を知るには、まず日本の歴史を知るべし

2019年は「令和」改元と天皇の代替わりにともなう一連の行事があり、天皇の存在が国の内外で大きくクローズアップされた年でした。もう一度、日本の歴史を学び、天皇の存在について考えてみようと思った方も多かったと思います。

2020年は、中東の大事件で幕が開けました。イラン革命防衛隊の対外謀略機関「コッズ部隊」を率いるスレイマニ司令官が、訪問先のイラク・バグダードで米軍の無人偵察機による爆撃で殺されたのです。イランは米国に対する報復を宣言し、トランプ政権は報復には報復で応えると牽制しました。

中東問題は複雑でよくわからない、イスラム教徒の行動が理解できない、という日本人は多いのですが、実は日本の皇室の歴史についてある程度、理解していれば、イスラム教徒、特にシーア派の論理もたやすく理解できるのです。

■「大臣」蘇我宗家を打倒し、皇統を維持した日本

皇室の歴史を振り返ると、その断絶の危機も何度かありました。その最大の危機は6世紀末から7世紀前半の飛鳥時代、「蘇我氏の専横」と呼ばれる時代です。

茂木誠『世界史とつなげて学べ 超日本史 日本人を覚醒させる教科書が教えない歴史』(KADOKAWA)
茂木誠『世界史とつなげて学べ 超日本史』(KADOKAWA)

「大臣」(財務大臣)を世襲して最大勢力を誇った豪族・蘇我氏。蘇我馬子は娘を歴代天皇に嫁がせ、意に沿わない崇峻(すしゅん)天皇を暗殺。蘇我入鹿(いるか)は聖徳太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)を一族もろとも攻め滅ぼしました。

皇統断絶の危機を感じた中大兄(なかのおおえの)皇子は中臣鎌足(なかとみのかまたり)らと謀議の末、蘇我氏打倒のクーデタを決行します。645年、朝鮮半島からの朝貢の使者を迎える式典に蘇我入鹿が出席。国書の読み上げ中に入鹿を殺害する計画でしたが、実行メンバーが緊張のあまり躊躇しているうちに入鹿が異変に気付いたため、中大兄が最初に入鹿に斬りつけます。

※編集部註:初出時、「馬子が異変に気付いた」としていましたが、正しくは「入鹿が異変に気付いた」でした。訂正します。(3月9日13時47分)

血を流しながら入鹿が天皇(皇極女帝、中大兄の実母)に向かい、「私に何の罪がありましょうや」と問うと、中大兄は「入鹿が皇位を奪おうとしたからだ」と答えます。入鹿はとどめを刺され、その遺体は大雨の降る中庭に投げ捨てられました。

もし中大兄が剣を抜くのをためらっていたら、入鹿が逆にクーデタを制圧して大粛清を行い、自らが即位礼を行い、蘇我王朝の成立となっていたかもしれません。

三種の神器も蘇我氏の手に渡り、蘇我入鹿は編纂中だった『天皇記』『国記』を都合のいいように書き換えていただろうことは、『世界史で学べ 超日本史』に記載したとおりです。しかし皇子たちは山中へ逃れ、その後も長く抵抗して「蘇我王朝」の打倒を呼びかけ、一定の支持を得ていたことでしょう。

■「軍司令官」ウマイヤ家が台頭し、カリフになった中東

これと同じことが、同じ時代の中東で起こっていました。

ムハンマドが唯一神アッラーの掲示を受け、イスラム教を開いたのが西暦622年。聖徳太子(厩戸王)が没した年でした。預言者ムハンマドは男子を失っていたため、教団指導者(カリフ)の地位は従弟で娘婿であるアリーに継承させました。ところが軍司令官のウマイヤ家が台頭し、661年にアリーが暗殺されると、カリフの地位についたのです。つまり、ウマイヤ家というのは蘇我氏です。

アリーの子のフサインはウマイヤ家打倒を掲げて挙兵しますが、カルバラーの戦い(680年)で一族とともに攻め滅ぼされました。しかし息子の一人が生き残り、アリーの「皇統」を伝えてウマイヤ朝の打倒を呼びかけたのです。激しい弾圧を受けながらもこの一族は12代続き、指導者は「イマーム」と呼ばれ、その支持者はアリーの党派(シーア)と呼ばれました。これが「シーア派」の始まりです。

シーア派最大の祭りはアシュラー祭です。これはカルバラーの戦いにおけるフセインの殉教を芝居で再現し、その死を悲しんで喪服でパレードするものです。自分の背中を鞭打ちながら、フセインの痛みを追体験する男たちもいます。1300年前の出来事を、昨日のことのように嘆くのです。

■後継者争いから生まれた「シーア派」と「スンナ派」

他方、ウマイヤ朝の側も権力の正当性を示すため、別の論理を考えました。カリフの地位は血統によるのではなく、神の啓示『コーラン』と、ムハンマド時代の慣習法(スンナ)を遵守することにあり、という主張です。これがスンナ派(スンニ派)の始まりで、アラブ世界ではイスラム教徒の多数派です。

イスラム化する前のイランには、ササン朝ペルシアという国がありました。ゾロアスター教(拝火教)を国教とし、ローマ帝国と互角に戦ってきた大国です。しかし内紛で疲弊したところでアラブ軍に攻め込まれ、崩壊しました。

最後の王ヤズデギルト3世はシルクロード経由で唐の長安に亡命し、そのまま亡くなります。この前後に多数のイラン人が唐へ亡命し、ゾロアスター教やキリスト教ネストリウス派(景教)を中国へ伝えました。彼らの一部はこちらも『世界史とつなげて学べ 超日本史』でも書いたように、日本にまで到達していた可能があります。

聖徳太子伝説に「母が観音菩薩を受胎し、太子を産んだ」、「厩(うまや)の入り口で生まれた」、など聖書のキリスト降誕と同じモチーフが語られるのは、景教の影響と考えれば説明がつきます。

■国難に爆発的なパワーを発揮するイラン人

さて、王統が途絶えたササン朝ですが、じつは唐に亡命したヤズデギルト3世の王女シャフルバヌーがアラブ軍の捕虜となり、アリーの子フサインの妃となったという伝承があります。カルバラーの戦いでウマイヤ家に殺された殉教者、イマーム・フセインです。ということは、シーア派の指導者(イマーム)たちはササン朝と血縁がつながっているということになります。

繁栄の頂点を極めながら、老木のように倒されたササン朝ペルシアの無念。その血を受け継ぎながら、イスラム世界の異端として弾圧を受け続けたシーア派のイマームたちの無念。イラン人がシーア派のイマームを礼賛するとき、その視線の向こうにはササン朝ペルシアの栄光を見ているのです。

ササン朝の国教だったゾロアスター教では、世界を光の神アフラ・マズダと闇の神アーリマンの闘争の場ととらえ、最終決戦で光の神が勝利して全人類を裁く(最後の審判)と説きます。シーア派では、このときお隠れになっている最後のイマームが再臨し、正義が実現すると考えます。

善悪二元論、殉教者の礼賛、最後の審判の待望――これらの思想はイラン人のメンタリティに深く刻み込まれ、とくに国難に際しては爆発的なパワーを発揮します。

■スレイマニ司令官の「コッズ部隊」は世界シーア派革命の推進機関

1979年のイラン革命は、時の王政が進めた新自由主義的経済政策が生み出した経済格差への不満を背景に、国王パフレヴィー2世を操る米国を「悪魔」と断じたシーア派の法学者ホメイニの呼びかけで始まりました。

ホメイニは超法規的な最高指導者、「イマームの代理人」として革命を指導し、隣国とのイラン・イラク戦争では「殉教者」を募集し、革命防衛隊を組織しました。イラン人の多くの家庭にはこの戦争で犠牲となった家族の記憶が生々しく残っています。

カシム・スレイマニも殉教者を志願した若者の一人で、サダム・フセインのイラク軍を相手に軍功を重ね、対外謀略を専門とするコッズ部隊の司令官に抜擢されました。シーア派はイランで圧倒的ですが、隣国イラクでも人口の約半数を占め、ペルシア湾岸諸国、シリア、レバノンまで広がっています。

これらの国々ではスンニ派政権のもとで、あるいは弾圧され、あるいは政治的権利を奪われてきました。スレイマニのコッズ部隊はこれらの国々に潜入し、シーア派の民兵組織を訓練し、武器を提供し、スンニ派政権の転覆を図るのが任務です。世界シーア派革命の推進機関なのです。

■日本との類似性、「水戸学」と幕末維新のエネルギー

日本では皇統は維持されましたが、中臣鎌足を祖とする藤原氏や、武家政権が天皇の政治権力を奪いとりました。そのなかで、後鳥羽上皇、後醍醐天皇のように天皇親政に戻そうとする動きが何度かありました。

日本史を、天皇を支える「忠臣」と、天皇を無力化する「逆臣」との抗争として描くのが水戸学です。徳川御三家で、「水戸黄門」とも呼ばれた水戸光圀が刊行を命じた『大日本史』に流れる歴史観です。

水戸学の完成者・藤田東湖は、「尊皇」という大義のために殉教する美しさを説き、幕末の志士たちに大きな影響を与えました。ペリー来航という国難にあたり、倒幕運動、明治維新のエネルギーを生み出したのは、まさに水戸学でした。

同時に、目的が正しければ結果は問わない、「悠久の大義」に生きよ、というファナティックな思想は、昭和恐慌期に拡大再生産され、天皇を長とする世界統一、「八紘一宇」の実現を説く日本版世界革命論に昇華し、ついに対米開戦と神風特攻、4年後の亡国に帰結したのです。

■西欧的価値観でイランを理解することはできない

スレイマニ司令官は殉教を覚悟していたでしょうし、彼の棺に付き従う喪服の群衆の姿は、カルバラーの悲劇をいたむアシュラー祭の行進そのものでした。強大な米軍に対して、決死隊が次々に送り込まれ、「殉教者」が増えていく。

誤解を恐れずにいえば、それによってイマームの再臨が早まる、と彼らは考えているかもしれません。ヒューマニズム、合理主義などの西欧的な価値観でイランを理解することはできません。70年前に石油の禁輸で日本を追い詰め、対米開戦させた教訓から、米国はほとんど何も学んでいないようです。

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茂木 誠(もぎ・まこと)
駿台予備学校講師
東京都出身。駿台予備学校、ネット配信のN予備校で大学入試世界史を担当。東大・一橋大など国公立系の講座を主に担当。世界史の受験参考書のほかに一般向けの著書として、『経済は世界史から学べ!』(ダイヤモンド社)、『世界史で学べ! 地政学』(祥伝社)、『世界史を動かした思想家たちの格闘』(大和書房)、『ニュースの"なぜ?"は世界史に学べ』シリーズ(SB新書)、『世界史とつなげて学べ 超日本史』(KADOKAWA)など多数。個人ブログ「もぎせかブログ館」で時事問題について発信中。

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(駿台予備学校講師 茂木 誠)

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