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ラグビーを「紳士のスポーツ」と呼ぶのは間違いである

プレジデントオンライン / 2020年2月26日 15時15分

3位決定戦・ニュージーランド対ウェールズ。健闘をたたえ合うウェールズ(赤いユニホーム)とニュージーランドの選手=2019年11月1日、東京スタジアム - 写真=時事通信フォト

子供の頃に熱中したスポーツは、人格形成に大きな影響を与えているのではないか。集団競技か、個人競技か。ポジション、プレースタイル、ライバルの有無……。ノンフィクション作家の田崎健太氏は、そんな仮説を立て、「SID(スポーツ・アイデンティティ)」という概念を提唱している。この連載では田崎氏の豊富な取材経験から、SIDの存在を考察していく。第6回は「ラグビー」について——。

■練習を離れても、誰かが落ち込んでいるのを察する

ラグビーは、組織と最も親和性の高いスポーツの一つである。

ラグビー日本代表だった平尾剛は、思想家である内田樹との対談本『ぼくらの身体修行論』(朝日新聞出版)の中で、ラグビーのポジションを二つに分類している。

〈身体の大きさを前面に押し出してがつがつひとにぶち当たるのがフォワードと呼ばれるポジションで、いわゆるスクラムを組む人たちのこと。バックスは、パスを交えながら相手をステップでかわしたりして、ぶつかるよりも走ることを得意とする人たちです〉

それぞれが躯を近づけてスクラムを組むためか、フォワードは結束力が固いのだと平尾は指摘する。彼の所属していた神戸製鋼ラグビー部には「フォワード会」という集まりがあり、彼らはシーズン中でも集まって酒を飲んでいたという。

さらに——。

〈スクラムの最前列で直接相手と組み合うポジションを称してフロントローと呼ぶのですが、そのひとたちだけで飲み食いする「フロントロー会」というのもありす。相手チームと直接身体をぶつけ合う同士がまとまっていなければ試合にはなりませんよね。他のチームも似たようなことをしていると聞いたことがあり、フォワードという特性を表しているよなあと、遠巻きに感心して見ていました〉

バックスである平尾はフォワード会に対抗して「バックス会」を結成したのだが、集まりの頻度は高くなかった。それはやはりポジションの特性——SIDが違うからだろう。

〈もろに身体を密着させて8人が組んで、押して押されて、どこか押されるとだれかにちょっとずつグッと負担がかかってくるから、みんなが一致団結することによって、その重圧を分散しながら受けとめているんだと思うんです。そういう日々のやりとりのなかで、お互いの調子とか体調がヴィヴィッドにわかるんでしょうね。だから、練習を離れても、だれかが落ち込んでいるのを察して、「おい、飲みに行こう」となる〉

■フルバックは変人が多い

他人と力を合わせて、チームのために貢献することを意気に感じるようでなければ、運動能力を持っていたとしても、フォワードは務まらない。

一方、平尾はバックスは〈気ままなひと〉が多く、最終ラインに位置するフルバックは特に〈変人が多い〉とも語っている。平尾もフルバックの選手である。

ぼくは週刊誌の編集者時代に今泉清に取材したことがある。彼は、早稲田大学、サントリー、そして日本代表のフルバックでもあった。彼の話は脱線しがちで、ついつい超常現象に向かった。取材後の神保町の焼肉屋でも同じだった。ぼくは面白くて耳を傾けたが、インタビュアーだった中村裕は、完全に聞き流す、あるいはその手の話題を冷淡に断ちきって、話の筋をラグビーに戻した。早稲田大学ラグビー部で今泉の先輩にあたる中村はその辺りの事情を熟知していたのだろう。

『ぼくらの身体修行論』(朝日新聞出版)では平尾の対談相手の内田が、ラグビーの成り立ちから、このスポーツの競技の本質を看破している。

〈ラグビーの発祥は、ラグビー校というイギリスのパブリックスクールから始まったわけですよね。サッカーもそうですが、長いこと貴族の子弟というか名家の子どもたちというか、将来的にイギリスの支配階級になる子どもたちが習得すべきものとして、いくつかのスポーツがパブリックスクールでは必修化されていた。(中略)言わず語らず、無言のうちに「せーの」で瞬間的に全員の細胞の並びが揃(そろ)うみたいな、そういう共同的な身体運用の能力を、こういうスポーツでは開発していたんじゃないでしょうか〉

■ノーサイドの精神「本質は世界をどう支配するか」

ラグビーの目的は、組織のための身体運用の能力、肉体の鍛錬であって、試合の勝敗ではないと内田は読み解いている。

その発露が“ノーサイドの精神”である。

これらパブリックスクール同士の交流試合では、試合後、両チームが入り交じり、パーティが催される。試合が終われば、敵味方、肩を組んで仲良くすべきだというのが、ノーサイドの精神である。これを“イギリスらしい紳士”の証明であると考えるのは間違いだと内田は指摘する。

〈紳士どころか、あのひとたちは要するに帝国主義者ですから。帝国主義者のゲームだから、グラウンドでの試合なんかでいちいち勝った負けたと騒ぐなよ、ということだと思うんです。彼らにとって喫緊の問題は「世界をどう支配するか」ということなんですから、そのための基礎的な能力をラグビーやサッカーを通じて訓練しているわけです。
これから世界を支配しようというのに、イギリス人同士で勝った負けた、何点差だったなんて、がたがた言っている場合じゃないだろう、と。とにかく、今日のラグビーの試合でわれわれはまた一段と帝国主義者としての統治能力が向上したわけであるから、これをさらに植民地統治に生かしていこうではないか、というような、よく言えば「スケールの大きい」動機でラグビーをやっていたはずなんです〉

■「スクラムハーフ」らしき動きを仕事に反映

ラグビーと組織の親和性を取り上げる上で外せないのは、宿沢広朗である。

宿沢は1950年に東京都日野市で生まれた。最初のスポーツは野球だった。富士電機の準硬式野球部の監督を務めていた父親の影響である。中学校まで野球部、埼玉県立熊谷高校に進学してからラグビーを始めた。小柄な宿沢は野球選手としての将来を見限っていたのだ。

そこで宿沢は「スクラムハーフ」というポジションに出会うことになった。スクラムハーフの役割は、常にホールのいる位置をとり、ボールを奪取した後、攻撃に繋(つな)げる。ボールをバックスに展開するのか、フォワードに渡して突進させるのか、自分で運ぶのか、蹴るのか、状況を判断して最適な攻撃方法を選択しなければならない。判断力、俊敏性が要求され、小柄な選手が多い。

宿沢を主人公としたノンフィクション『宿澤広朗 運を支配した男』(講談社)で加藤仁はこう書いている。

〈高校生の宿澤が「スクラムハーフ」に活路を見いだしたことは、その人生を左右するほどの重要な選択であった。それは生まれついての資質であり、「ラガー」としての習い性でもあったと思うが、銀行員になってからも「スクラムハーフ」らしき動きが仕事におおいに反映され、仕事哲学にまで高められたのではないのか。ビジネスの局面はつぎつぎと進展していく、ぼんやりしていると手遅れになりかねない。どのようなときでもボールを前へすすめなければ、得点するチャンスは生まれないというラグビーの鉄則は、銀行という職場においても宿澤に時間の無駄づかいをさせることなく、「いま、なにをすべきか」を考えさせ、つねに「スクラムハーフ」のように動くよう仕向けた。瞬発的な判断によって立ちむかわなければ勝機は訪れないという「スクラムハーフ」経験が全身に染みこんだ〉

スクラムハーフのSIDである。

宿沢は熊谷高校から早稲田大学政治経済学部に進学、ラグビー部に入る。早稲田大学2年、3年時、それぞれ新日鐵釜石、三菱自動車京都を破り、2年連続日本選手権優勝を成し遂げた。

73年、住友銀行に入行、新橋支店に配属された。

宿沢が入行したとき、住友銀行にラグビー部は存在しなかった。しかし、日本代表に選ばれていた宿沢の所属に名前を入れるため、急遽(きゅうきょ)、ラグビー部が創部されている。入行から半年後の秋に日本代表としてイギリスとフランス遠征に参加。2年目にもニュージーランド遠征に選ばれている。しかし、現役生活は長く続かなかった。彼は銀行員としての出世階段を軽やかに駆け上がっていったのだ。

■銀行員をしながら、日本代表監督に就任

77年、ロンドンへ赴任。金融の本場で為替ディーラーとして結果を残した。そして日本に帰国後の89年、宿沢は銀行員としての業務をこなしながら、日本代表監督に就任した。異例の抜擢(ばってき)だった。宿沢の指導歴は新橋支店時代、早稲田大学のコーチをしただけだ。

この年の5月、宿沢の率いる日本代表は強豪である、スコットランドとのテストマッチに勝利した。1971年の初対戦から初めての勝利だった。番狂わせ、である。しかし、試合後、宿沢は「お約束どおり勝ちました」と口を開いた。彼はスコットランドを徹底的に分析し、勝てるという確信を持っていたのだ。宿沢は91年にイギリスで行われた、第2回のラグビーワールドカップを最後に監督を退いた。この大会で日本代表はジンバブエ戦で1勝を挙げ、ワールドカップ初勝利を記録している。

89年、41歳のとき大塚駅前支店の支店長に就任。その後、同期に先駆けて役員に昇進している。

しかし、輝かしい栄光と勝利に包まれた彼の人生は突然、幕を下ろすことになる。2006年6月、登山中に心筋梗塞を発症し急逝。まだ55歳だった。

■無心になるために山を一人で歩き続けた

興味深いのは彼の早すぎる晩年、集団競技ではなく、また勝敗という判断基準のない登山に熱中していたことだ。前出の『宿澤広朗 運を支配した男』(講談社)によると、最初は仲間と出かけたが、しばらくすると単独で山に出かけていたという。

登山を始めたのは彼が三井住友銀行の常務執行役員、大阪本店営業本部長時代である。この時期、三井住友銀行は不良債権の処理という問題を抱えていた。その一つが「松下案件」と呼ばれるものだった。

松下グループの「松下興産」は、創業者である松下幸之助が興した不動産会社だった。松下の後、彼の血筋に連なる人間が社長を務めてきた、松下グループの「聖域」だった。この松下興産が、8000億円近い有利子負債を抱えていたのだ。この巨額の負債は本体である松下電器産業にも影響を及ぼす可能性があった。三井住友銀行は松下興産に1830億円の融資を行っていた。これらは銀行にとっては不良債権となっていた。金融庁は不良債権処理を各銀行に急がせていた。創業家の絡んだ松下興産の不良債権処理は、三井住友銀行にとって逼迫(ひっぱく)した問題だった。

松下興産は、新会社を設立し一部事業を移した後、残りは売却、解体された。メインバンクである三井住友銀行は半分に近い融資残高を放棄したといわれている。銀行内でも極秘扱いされた重要案件を抱え込んだ、宿沢は無心になるために山を一人で歩き続けたことだろう。

人間には多面性がある。本来の彼は一人になったときに安らぎを感じる種類の男だったのかもしれない。銀行員という仕事とラグビーを両立した彼の突出した「個」の強さは、集団競技であるラグビーのSIDでは片付けられない。ラグビーと出会わなければ、どんな人生を歩んでいたのだろう。大学ラグビーのスター選手であった彼が、山で亡くなったという事実には長い余韻がある。

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田崎 健太(たざき・けんた)
ノンフィクション作家
1968年3月13日、京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。スポーツを中心に人物ノンフィクションを手掛け、各メディアで幅広く活躍する。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)など。

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(ノンフィクション作家 田崎 健太)

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