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有名アスリートから絶大信頼「ケガ復活」請負医師の秘密

プレジデントオンライン / 2020年3月22日 11時15分

左からロンドン五輪出場、東京五輪への出場が決まっている競歩・鈴木雄介、アテネ五輪出場のサッカー・田中マルクス闘莉王、リオ五輪出場の女子バドミントン・奥原希望。(共同通信=写真)

サッカーでは、小野伸二、高原直泰、闘莉王ら。さらに競歩の鈴木雄介、バドミントンの奥原希望、柔道の野村忠宏……。ほかにも数々の五輪代表選手たちが、仁賀定雄医師の治療を受け復活を遂げてきた。名選手たちと寄り添った名医が、奇跡の足跡を回想する。

■世界新の樹立から一転、リハビリへ

2015年3月、鈴木雄介(当時27)は20キロ競歩で世界新を樹立した。陸上競技の日本男子では半世紀ぶりの快挙だった。だがその3カ月後、希望に満ちた競技生活は暗転していく。下腹部中央に痛みを発症し、股関節に硬い違和感を覚えた。直後には世界陸上が迫っていた。無理をしてトレーニングを続け強行出場に踏み切るも本番では途中棄権。患部の痛みは引かず、日本中で様々な治療を試みるが光は見えてこない。気がつけば大きな目標に掲げていたリオ五輪が通り過ぎていった。

鈴木にも仁賀医師の評判は届いていた。しかし飛び込んでくる高評価が、逆に受診を尻込みさせる要因になった。たぶん仁賀は最後の砦になる。もしここで治らなければ引退しかない。そんな恐怖心が足をすくませた。

「真っ暗な海で1人小舟に乗り漂っている。それほど苦しい思いだったはずです。このクリニックに来たのは発症から2年1カ月後のことでした」

様々な治療院で受診してきた経緯を聞き、仁賀は1つだけ注文をつけた。

「ここで治療をするなら、もうほかへは行かずここでのリハビリに集中してください。そうでなければ僕はキミのことを治せない」

鈴木は覚悟を決め、仁賀が命名した「グロインペイン症候群」を克服するためのリハビリが始まった。

「僕は滅多にこういうことは言わないんです。でも信じてやり抜かなければ復帰できないと思いました」

■2人の選手を救えなかった苦い経験

信頼関係の構築は仁賀の治療方針の根幹を成す。その原点は、チームドクターを務めていた浦和レッズで、2人の選手を救えなかった苦い経験にある。Jリーグが創設され、激闘が続くと「恥骨結合炎」という診断名で離脱する選手が相次いだ。レッズでも2人の選手が離脱。当時の日本は安静治療が主流だったが、欧州なら手術で治るという情報が入り、即座に両選手はドイツへ飛んだ。

信頼を得られなかった仁賀はチームドクターを辞することも考えた。だが選手たちが遠い国で治療を受けることが本当に幸せなのか疑問を覚え翻意する。近くの医師が親身になって治療に当たる。そんな環境をつくるために、本来ヒザの診断・手術が専門の仁賀が、グロインペイン症候群の治療に取り組むことになった。

「ドイツと同じ手術を100例以上行いました。しかし全員が良くなったわけではない。またこの手術に限らず、外国人と日本人では痛みの感受性が異なり術後の回復に大きな違いがあることもわかってきました。そして良くならなかった選手を治す工夫をしていく過程で、リハビリで改善できる、さらにはリハビリで手術を回避できることもわかってきたんです。

そのため、以降、私はグロインペイン症候群を1人も手術しないで治療しています。手術の最大の欠点は予防には役立たないことです。グロインペインだけではなくケガには予防が何よりも大切。レッズではリハビリを予防に取り入れてから、離脱者が3分の1に減り、離脱しても早期に復帰できるようになりました」

結局、鈴木は仁賀の指導下でリハビリに励み、2年9カ月ぶりに復帰する。最後の砦を信じ切ったことで、遂に道は開けた。そして19年9月の世界陸上では50キロ競歩に挑み、スタートから首位を譲らずに金メダルを獲得。早々と東京五輪への出場を決めた。

「鈴木選手は、今でもウチでリハビリを受けています。私は選手が復帰しても安心することない。ケガとの闘い、予防への取り組みは続いていくんです」

■選手でも小学生でも自分で判断させる理由

仁賀は老若男女、誰に対してもスタンスを変えない。トップアスリートにも一般の高齢者にも同じ姿勢で向き合い、患者が小学生でも復帰する時期を自分で決めてもらう。

一流選手に学ぶケガを克服する医者と治療への向き合い方

「もちろん診断はするし、状態や治療方針は伝えます。でも最後に決めるのは本人です。今リスクを懸けて復帰するか、将来活躍するために今は休んでしっかり治すか子供に問います。『う~ん』と悩むと、親が決めようとしますが、あくまで子供自身に決めてもらう。医者や親に決めてもらっていたら、いつまでたっても自分で判断する選手になれませんからね」

17年の世界バドミントン選手権でシングルスを制した奥原希望(当時22)も、仁賀が行った2度の手術の決断を自分で下したという。

「最初は高校3年生のときで、左ヒザの半月板損傷でした。手術のメリットとデメリットを説明し、自分で決めなさいと伝えました」

世界選手権を控えていた奥原はすぐに手術はせず、2カ月間様子を見た。

「その間に機能不全が相当深刻化し、術後の復帰に時間がかかったのですが、後にお父さんからは『あのとき、娘に判断を委ねてくれて本当に感謝しています』と言っていただきました」

手術を受けた奥原は、半年以上に及ぶリハビリを経て復帰すると、国際大会で準優勝するまで回復した。ところがその翌週に、今度は右ヒザの半月板を痛めてしまう。

「2度目はすぐに手術を決断。2カ月後には完全復帰を果たしました」

15年に世界のトップ8によるスーパーシリーズファイナルを制すと、16年3月には全英オープンでも優勝。その夏のリオ五輪では、シングルスで日本初の銅メダルを獲得した。

「彼女は計1年半もリハビリに費やしたのに、1度も不満を洩らしたことがない。奥原さんは言うんです。『先生、嬉しいのは勝った瞬間から表彰台に上るまで。もう降りるときからはプレッシャーと闘っています』と。この心境は患者さんと向き合う僕も同じです」

奥原はすべてを自分で決断したからこそ、迷いなく厳しいリハビリに取り組めた。それはおそらく一般人の医師との正しい向き合い方を示唆している。もう1つ、奥原の精神力の強さを物語る格好のエピソードがある。

「世界選手権決勝の終盤、相手にマッチポイントを握られかけたシーンで奥原さんは笑ったんです。後で聞いたら『私も上から俯瞰して笑っている自分を見て怖かった。でも勝つイメージしかなかった』そうです。そこから連続ポイントで逆転勝利。レッズでは、闘莉王が試合で追い込まれたときに『楽しまなきゃダメだ!』と言ったんですが、その意味がわかったような気がします。究極に追い込まれた局面でも緊張しているようじゃダメなんですよね」

トップアスリートほど決断力に満ちている。長くスポーツ医療に関わってきて、つくづくそう感じる。

■自分が信じてもらえる存在にならなければいけない

「闘莉王のケガが治り切らず、まだ90分間プレーするのは危ないと止めたことがあります。すると彼は『大丈夫、先生の責任じゃないから』と振り切って出場。ディフェンダーなのに前半で2ゴールを決め3-0として、ハーフタイムに自ら交代しました。『先生これでいいでしょう?』と笑っていましたよ」

仁賀は、チームスポーツのプロ選手を診るときは、必ずトレーナー、可能ならドクターにも同行してもらう。

「僕の目標は、ここで選手を治すことじゃない。それぞれの地域、チームで治し予防できるようになること。さらにはその競技全体へ浸透していくのを目指しているんです」

仁賀は8年間レッズの専任ドクターを務め、選手たちと寝食を共に過ごした。うまくいかないこともあったが、信じて復帰を目指す選手たちには、逆に何度も救われる思いもした。

「選手を救うためにも、自分が信じてもらえる存在にならなければいけない」

東京五輪では仁賀が治療し復帰した何人もの選手たちが躍動するはずだ。だが厳しい勝負の世界を目の当たりにしてきただけに、結果を出すことの難しさも知悉している。

「とにかく選手たちが無事に自分の力を出し切ってほしい」

仁賀は、それだけを願っている。

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仁賀定雄
仁賀定雄
JIN整形外科スポーツクリニック院長・浦和レッズメディカルディレクター
Jリーグ、プロ野球、柔道など、世界レベルで活躍する選手たちのケガからの復帰に貢献。「当院を受診する場合、3時間以上待つ場合もあることを、ご了解ください」(本人談)。

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(加部 究)

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