野村克也の遺言「克則よ、辛い思いをさせてしまったこと、許してくれるか」

プレジデントオンライン / 2020年3月13日 15時15分

野村克也氏

プレジデントは前号から野村克也さまの新連載「考えて野球せぃ」を始めました。その号の印刷を始めた矢先の2020年2月11日、野村さまはご逝去されました。プレジデント編集部一同、心より野村さまのご冥福をお祈りいたします。
20年1月下旬、東京都内のホテルの一室にて、野村さまと最後にお話をさせていただきました。力強く野球界の未来を語る野村さまのそのお姿がとても印象的でした。
取材後、部屋から出られる際、野村さまは「次の取材からは、(場所は)こんな高い部屋じゃなくて(ホテルの)下のカフェでいいからな」とおっしゃっていました。その日がもう来ないことを編集部も受け止めきれません。このたびの連載開始に向けた取材のほか、これまで編集部が生前の野村さまから聞いていた話をここにまとめます。
 

■貧乏だった幼少期劣等感の塊だった

小さいころから、劣等感の塊だった。戦争で父親を亡くして。そのことを周りと比べてしまってな。

それに、いじめられもした。

父親がいないということもそうだが、小学校のときに担任の先生にすごく可愛がってもらえて、それを周囲がすごくうらやましがったんだ。

当時、男はみんな戦争へ行ってしまったものだから、先生は女ばかりだった。それはそれはきれいな先生がいたのよ。その人によくしてもらえたんだよな。それでほかの生徒にやきもちばかり妬かれて、よくいじめられた。

■新聞配達の仕事をしてから学校に通っていた

小学校3年生のころかな。おれは新聞配達の仕事をしてから学校に通っていたんだ。

当時は何万と新聞配達をしている小学生がいたな。1区域しか配らないともらえるお金が安いから、おれは2区域配っていた。お金は全部、母親に渡したよ。ほかにも夏休みはアイスキャンディーを売って歩いた。冬休みは子守りをした。おれは子どもを寝かせるの、うまいよ。寝かせておくと子守りは楽じゃない。でも結局お母さんに怒られるの。夜、寝なくて困るのよって。

さて、新聞配達をしてたものだから、いつも学校には始業時間ぎりぎりに行っていた。そうすると、正門の前で4~5人、不良グループが待っているんだよ。

そいつらにかばんをひっくり返されたり、教科書を投げられたり、くだらないことされてな。不良グループの中にミヤタくんっていう子がいたんだ。彼は、学年は一緒だけど年齢は4つくらい上。ある日、体育の授業で海へ行って、相撲大会をした。そうしたら最後、おれとミヤタくんだけが残ったんだ。最後の決戦になって、おれは負けたのよ。そりゃ負けるわな。年上のミヤタくんは体が違うもんな。

そうしたら、おれを可愛がってくれていた担任の先生が「じゃあミヤタくん、今度は私と相撲をとろう」て言ってね。ミヤタくんは先生に投げられた。そしたらみんなは大笑い。それから、ミヤタくんはおとなしくなって、おれもいじめられなくなった。そういう先生、今はいないだろう。

遊びはメンコとかビー玉ばかりやっていた。何も持たずに行って、いっぱい(メンコやビー玉を)持ち帰るのね。そうすると、おふくろに怒られた。「どうしたの。ほかから盗んだの!?」ってな。「いや、勝ったんだよ」と弁明したよ。そんな家庭環境だった。

野球を始めたのは中学3年生から。バッティングをしてみるとな、みんなに褒められるの。ポンポン打てたから。友達が「おまえうまいな。隠れてやっていたやろう」と言うから「やっていないよ」と言っても「うそつけ」って信用してもらえない。野球ってこんな簡単なのかよって当時は思ったな。

でも、家が貧乏でユニフォームが買えなかった。悔しかったな。集合写真にはおれだけ、ランニングと短パンで写っているわけ。試合に行くときは後輩にユニフォームを貸してもらっていた。

高校には行きたかったが、実はそれも難しかった。ある晩、夕飯を兄貴、おふくろと3人で食べているとき、おふくろにこう言われたんだ。「おまえは勉強ができん。中学の義務教育で終わりにしてくれ。兄ちゃんも高校卒業して、あんたも中学卒業して2人で働いて、おかあちゃんを助けてくれなんだら、どうにもならん」って。

そうしたら、兄貴が助けてくれた。

「男の子だから高校ぐらいはやっといてやんないと、こいつが社会に出てから苦労するよ」と。

3つ上の兄貴はすごい勉強できたんや。勉強一筋。あんな勉強好きな人は珍しいと思う。母親にも「勉強ばかりしていたら体を壊す」って心配をされていた。一方でおれには「勉強せぇ、勉強せぇ、遊んでばかりいないで勉強せぇ」と真逆ですわ。

■野球をさせてくれたふたりの大恩人

兄貴は大学に行くつもりだったらしいが「大学行くの諦めて、2人分働くから」とおれを高校に行かせようとした。その一言で高校に行けたんだ。

兄貴と一緒の峰山高校に進学した。地元にも高校はあったんだけど、あまり評判のいい高校じゃなかった。兄貴は「おまえ、野球やりたいんなら、峰山高校の工業科に行け」と言ってな。「学校入って、そうしたら鐘紡淀川(社会人野球の名門カネボウ)につながっている。先輩がもう何人か行っているから、その道を選べ」って。そこまで見据えていた兄貴には参る。一回聞いたことがあるんだ。「兄貴、おれの野球の素質、見抜いていたのか」って。そしたら「プロの選手になるとは思っていなかったが、いい素質だとは思っていた」だってよ。

兄貴は高校を卒業して就職したんだけど、おれが高校出たら夜学の大学に行ったのよ。兄貴に「そんなに勉強楽しいの?」って聞いたことがあるんだけど、兄貴、「楽しいよ」って言うんだよね。おれは思わず「ええー……」と言葉を失ったよ。

そんな兄貴のあとに同じ高校に行くのは大変だった。兄貴は勉強一筋。暇さえありゃ机に向かうんだけど、おれは暇さえありゃ外で遊んでいた。高校ではずっと兄貴と比較された。「お兄さんはようできたのに」「野村くんも頑張りゃできるんだよ、クスッ」っと。頭くるわ。

さて、晴れて高校には行けたんだが、野球をやるのは大変だった。母親に反対されてな。今度は野球部の部長に助けられた。

部長は実家まできてくれて。「私が父親代わりをします。野村くんには野球の素質があるから、やらせてあげてください。もし3年やってダメなら、私が責任を持って就職のお世話をします」。そうやって母親を説得してくれた。「そこまで言ってもらえるなら先生にお任せします」って。それで野球ができた。ただ、野球部の部長、野球のヤの字も知らない人だったんだよなぁ……。

■一升瓶に土をつめて素振りをしていた

でも相変わらず貧乏で、道具は払い下げ。ユニフォームも先輩から譲ってもらった。1日4本くらいの汽車に乗って通学していたから、アルバイトをする時間もないですよ。一升瓶に土をつめて素振りをしていた。

高校を卒業しても野球を続けようとは思っていた。おれは小さいときから巨人ファンだったんだが、一コ上の藤尾茂さんという強肩強打の俊足が巨人に入ってね。藤尾さんに勝てるわけないと思って巨人を諦めた。そのうえで全プロ球団から20代がレギュラーのキャッチャーをやっていないところを探した。それが南海と広島だった。その2球団の新人テストを受けて駄目だったら、社会人野球で、という方針をたてていた。

そんなある日、新聞に南海のテストに関する広告が載っていたんだ。ただ、大阪まで行く汽車賃がなかった。それで野球部の部長に「先生、新聞にこんなの載っているんですよ……」と相談したんだ。そうしたら「行ってこい、行ってこい、おれが汽車賃を出してやるよ」って背中を押してくれた。

汽車賃借りて、テスト受けに行って、それで合格できた。

びっくりしかないんだよ。兄貴といい、野球部の部長といい、こう考えると、俺の野球人生はいつも首の皮一枚でつながっていたんだな。「合格することもあるんだなぁ」なんて思っていたんだが、これには後日談があった。

テストで合格したのは7人。うち2人がピッチャー。キャッチャーは4人。明らかにポジションのバランスがおかしい。

プロになって、あまりにも試合で使ってもらえないものだから、ある日2軍のキャプテンの部屋に行って「われわれの筋ってどうなんでしょうか」って聞いた。そうしたらキャプテンにこう言われたんだ。

「がっかりするなよ。あとは自分で決めろ。テスト生で1軍に上がったやつなんて1人もいないよ。プロはピッチャーがたくさんおるやろ。その絶対数、キャッチャーが必要なんだ。おまえら、ブルペンキャッチャーとして採用されたんだ」

もうショックもショック。よく見たらキャッチャーは4人とも田舎出身。和歌山やら熊本やら……、どうやら、擦れている都会の子と違って、田舎者のほうが純粋で、真面目に頑張ってくれるだろうと。球団にはそんな固定観念と先入観があったようだ。ちなみに2人のピッチャーもバッティングピッチャーとしての採用だったそう。

■地道な下積み時代ハワイのチャンス

そのときはもう帰ろうと考えたよ。でも、どうせクビになるなら、納得してクビになろうと思い留まった。

だから、とにかく素振りをした。みんなプロになると、契約金をもらえるし、給料も一般の人よりもいいし、そうなると、もう覚えるのは酒と女だ。夜中、合宿所に残っているのはおれとマネジャーだけ。みんな遊びに行っちゃって。お金というのは駄目だよ。人間を変えちゃう。お金の魔力。

おれは給料安くて、遊ぶ金なんてなかった。背広を買えなくて、2年も学生服を着ていた。それにおれは酒も飲めない。

しかし今思えばそれがよかった。もうバットを振るしかない。静まり返った合宿所の庭で、ひたすらバットに耳を傾け続けたんだ。

いいスイングをすると「ブッ」と短い音がする。「ブウッ」っていう長い弱い音じゃ駄目。それを耳で確認しながら素振りをしていると、あっという間に1時間、2時間もたってしまう。

先輩にはよく冷やかされた。

「バット振って1軍になれるなら、みんな1軍になっているよ。この世界はな、才能だよ。素質だよ。着替えてこい。きれいなねえちゃんがおるぞ」

そんなこと言われたら、グラグラってくるよ。男だもの。でもやっぱり銭がねぇ。バット振るしかないわね。

だから手にマメをつくって、寝るんだ。そうしたらある日、2軍監督が「全員手を出せ」と言ってマメの検査があったんだよ。みんな「なんだこの手は」って怒られている中で、俺の番になったときに「おお野村、いいマメつくってるな。みんな見ろ、これがプロの手だ」って褒めてもらったんだよ。

そう言って褒めてもらったらうれしいじゃん。だから、また素振りをして、マメをつくったんだ。

キャッチャーとしても頑張った。おれは肩が弱かったんだよ。毎日練習後に遠投をしていたけど、「肩が強い」「足が速い」は天性だから、もう強くはならなかった。だからその分、速く投げようと、そんな練習ばかりしていたのだよ。

というか、恥ずかしながら自分はボールの握り方すら知らなかったんだ。いまでいうツーシームの握り方でボールをほうっていたもので、ボールがスライドしたり、シュートしたり。ある日1軍の先輩に「どないにボール握っているんや」って言われて握り方を見せたら「ばかたれ。プロのくせに握り方も知らんのか」って。先輩の言うとおりにフォーシームで投げたら、まっすぐいった。峰山高校には野球を教えてくれる人なんて1人もいなかったからな。

プロ3年目になると、もうそのときにはテスト合格者はおれ以外全員クビになっていた。なぜだろうな。2軍の監督に気に入られていたのかな。こいつはモノになる、と。

そして転機はその年にきた。2年目に1軍が優勝して、そのご褒美で「ハワイでキャンプ」という企画があったんだ。それでブルペンキャッチャーを1人連れていくことになって、おれが選ばれた。

そのころは海外なんて一般社会でもあまり行かなかった。まだプロペラ機しか飛んでいない時代で、ホノルルでもウェーク島に一回降りて、給油してからハワイに入るという時代。もうみんなうれしくてしょうがないわけだ。

ハワイでの練習が終わって、いよいよオープン戦となった。その日、レギュラーの松井淳さんが「肩が痛い」と休んだので当然、2番手の小辻英雄さんがオーダーに入ると思っていた。そしたらこの2番手、男前でね、ハワイで遊びほうけちゃって。それを監督が知ってな。

「おまえは分をわきまえないで、遊びほうけやがって、日本帰ったらクビだ」と怒られていた。そしてヤケクソ気味に「もういい、野村、おまえ行け」と仰せつかった。

■王、長嶋、サッチー、そして息子・克則へ

そしたら、相手のハワイのチームがただの地元の寄せ集めでね。レベルが低かったもので大活躍できたんだ。それで日本に帰ってな、監督が記者会見で「ハワイキャンプは大失敗だった。ただ、ひとつ収穫があった。野村に使えるめどがついた」と発言したんだ。これはうれしかったね。

でも日本に帰ってきて、オープン戦で使ってもらえたんだが、なかなか打てないんだよ。日本とハワイじゃレベルが違うから。二十何打席ノーヒット。でも二十何打席目でやっと初ヒット。ヒット1本出るとほっとするんだわ。そうすると1シーズン、リラックスできた。監督はほんま懲りずによう使ってくれた。何を見込んで使っていたのかは定かではないが。

それで4年目でレギュラーをとった。でもそれでお金が入って、気が緩んでしまった。5年目、6年目は駄目だったよ。やっぱりお金は人を変えるね。

そこから苦労して、苦労して、10年目で52本の本塁打を打って新記録を作っちゃった。あぁ、これであと10年ぐらいは持つなと思ったんだが。それなのに次の年、王に簡単に抜かれちゃった。このやろう、おれの価値を下げやがって。王さえいなければ、全部おれが一番だったのに。

でも面白い記録がある。意外に王が悪い記録だ。オールスター戦でおれがキャッチャーとして王と戦った数十打席、1度も王にヒットを打たせなかった。オールスターしか仕返しする場がないので、「王はこう抑えるんだ」って気概でやったが誰も評価してくれない。

長嶋は、あれはもう天才。おれも攻略法を見つけられず。それ以外言うことなし。彼のことは、別にライバルとは思っていなかったよ。

■おれから野球をとったら何もない

振り返れば、おれ引く野球はゼロ。おれから野球をとったら何もない。なぜここまで野球ができたか。それはおふくろを楽にしてやりたいという一心を持ち続けたから。小さな町で5回も引っ越したんだ。家賃が高くなりゃかわって、かわって、よその2階住まいもしたことがあった。

プロ野球で活躍できて、やっと母が楽になったと思ったころに病気だわね。あんな不幸な人生ってないと思うんだよね。短い人生だったんだよ。

そしておれも、3年前に最愛のサッチーを亡くして、寂しくなってしまった。生まれ変わっても、もう1度サッチーと結婚したい。でもな、子どもに野球はさせないかな。

3人子どもがいるけど、3人とも足が遅い。半端じゃなく遅い。運動神経なし。間違いなく男の子は母親に似る。克則、おまえもサッチーに似てしまって、どんそくだな。

克則には本当に辛い思いをさせてしまったと思う。何をやっても父親と比べられてしまって。おれはどうにかして克則を助けたかったけど、どうしたらいいかわからなかった。許してくれるだろうか。

でも、選手として克則は駄目だったかもしれないが、コーチとしてはいい。克則がコーチになるってとき、おれは最初反対したんだよ。おまえには無理だと。母親にそっくりで鈍いし。

でも克則はおれと違って、人柄がいいから。その性格はサッチーから譲り受けたのだろうか……。リーダーシップがとれているように見える。

いいコーチになってくれ。
朝日新聞社/時事通信フォト=写真

おれは、克則を突き放したんだ。高校、大学の7年間。克則は寮生活をした。それがよかったのだろうか。学生野球は規則、規則でうるさいから。そういう規則で雁字搦めの世界に入り、人に育ててもらった。人間的に好かれる人物になった。

もし監督経験者として克則にアドバイスするなら、目だ。目だよな。目を養ってほしい。選手のどこを見るかだよ。いいコーチになってくれ。

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野村 克也(のむら・かつや)
野球評論家
1935年、京都府生まれ。54年、プロ野球の南海に入団。70年からは選手兼任監督。その後、選手としてロッテ、西武に移籍し45歳で現役引退。ヤクルト、阪神、楽天で監督を歴任。野球評論家としても活躍。

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(野球評論家 野村 克也 聞き手、構成=プレジデント編集部(鈴木聖也) 撮影=村上庄吾 写真=朝日新聞社/時事通信フォト)

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