野村克也の遺言「克則よ、辛い思いをさせてしまったこと、許してくれるか」
プレジデントオンライン / 2020年3月13日 15時15分
■貧乏だった幼少期劣等感の塊だった
小さいころから、劣等感の塊だった。戦争で父親を亡くして。そのことを周りと比べてしまってな。
それに、いじめられもした。
父親がいないということもそうだが、小学校のときに担任の先生にすごく可愛がってもらえて、それを周囲がすごくうらやましがったんだ。
当時、男はみんな戦争へ行ってしまったものだから、先生は女ばかりだった。それはそれはきれいな先生がいたのよ。その人によくしてもらえたんだよな。それでほかの生徒にやきもちばかり妬かれて、よくいじめられた。
■新聞配達の仕事をしてから学校に通っていた
小学校3年生のころかな。おれは新聞配達の仕事をしてから学校に通っていたんだ。
当時は何万と新聞配達をしている小学生がいたな。1区域しか配らないともらえるお金が安いから、おれは2区域配っていた。お金は全部、母親に渡したよ。ほかにも夏休みはアイスキャンディーを売って歩いた。冬休みは子守りをした。おれは子どもを寝かせるの、うまいよ。寝かせておくと子守りは楽じゃない。でも結局お母さんに怒られるの。夜、寝なくて困るのよって。
さて、新聞配達をしてたものだから、いつも学校には始業時間ぎりぎりに行っていた。そうすると、正門の前で4~5人、不良グループが待っているんだよ。
そいつらにかばんをひっくり返されたり、教科書を投げられたり、くだらないことされてな。不良グループの中にミヤタくんっていう子がいたんだ。彼は、学年は一緒だけど年齢は4つくらい上。ある日、体育の授業で海へ行って、相撲大会をした。そうしたら最後、おれとミヤタくんだけが残ったんだ。最後の決戦になって、おれは負けたのよ。そりゃ負けるわな。年上のミヤタくんは体が違うもんな。
そうしたら、おれを可愛がってくれていた担任の先生が「じゃあミヤタくん、今度は私と相撲をとろう」て言ってね。ミヤタくんは先生に投げられた。そしたらみんなは大笑い。それから、ミヤタくんはおとなしくなって、おれもいじめられなくなった。そういう先生、今はいないだろう。
遊びはメンコとかビー玉ばかりやっていた。何も持たずに行って、いっぱい(メンコやビー玉を)持ち帰るのね。そうすると、おふくろに怒られた。「どうしたの。ほかから盗んだの!?」ってな。「いや、勝ったんだよ」と弁明したよ。そんな家庭環境だった。
野球を始めたのは中学3年生から。バッティングをしてみるとな、みんなに褒められるの。ポンポン打てたから。友達が「おまえうまいな。隠れてやっていたやろう」と言うから「やっていないよ」と言っても「うそつけ」って信用してもらえない。野球ってこんな簡単なのかよって当時は思ったな。
でも、家が貧乏でユニフォームが買えなかった。悔しかったな。集合写真にはおれだけ、ランニングと短パンで写っているわけ。試合に行くときは後輩にユニフォームを貸してもらっていた。
高校には行きたかったが、実はそれも難しかった。ある晩、夕飯を兄貴、おふくろと3人で食べているとき、おふくろにこう言われたんだ。「おまえは勉強ができん。中学の義務教育で終わりにしてくれ。兄ちゃんも高校卒業して、あんたも中学卒業して2人で働いて、おかあちゃんを助けてくれなんだら、どうにもならん」って。
そうしたら、兄貴が助けてくれた。
「男の子だから高校ぐらいはやっといてやんないと、こいつが社会に出てから苦労するよ」と。
3つ上の兄貴はすごい勉強できたんや。勉強一筋。あんな勉強好きな人は珍しいと思う。母親にも「勉強ばかりしていたら体を壊す」って心配をされていた。一方でおれには「勉強せぇ、勉強せぇ、遊んでばかりいないで勉強せぇ」と真逆ですわ。
■野球をさせてくれたふたりの大恩人
兄貴は大学に行くつもりだったらしいが「大学行くの諦めて、2人分働くから」とおれを高校に行かせようとした。その一言で高校に行けたんだ。
兄貴と一緒の峰山高校に進学した。地元にも高校はあったんだけど、あまり評判のいい高校じゃなかった。兄貴は「おまえ、野球やりたいんなら、峰山高校の工業科に行け」と言ってな。「学校入って、そうしたら鐘紡淀川(社会人野球の名門カネボウ)につながっている。先輩がもう何人か行っているから、その道を選べ」って。そこまで見据えていた兄貴には参る。一回聞いたことがあるんだ。「兄貴、おれの野球の素質、見抜いていたのか」って。そしたら「プロの選手になるとは思っていなかったが、いい素質だとは思っていた」だってよ。
兄貴は高校を卒業して就職したんだけど、おれが高校出たら夜学の大学に行ったのよ。兄貴に「そんなに勉強楽しいの?」って聞いたことがあるんだけど、兄貴、「楽しいよ」って言うんだよね。おれは思わず「ええー……」と言葉を失ったよ。
そんな兄貴のあとに同じ高校に行くのは大変だった。兄貴は勉強一筋。暇さえありゃ机に向かうんだけど、おれは暇さえありゃ外で遊んでいた。高校ではずっと兄貴と比較された。「お兄さんはようできたのに」「野村くんも頑張りゃできるんだよ、クスッ」っと。頭くるわ。
さて、晴れて高校には行けたんだが、野球をやるのは大変だった。母親に反対されてな。今度は野球部の部長に助けられた。
部長は実家まできてくれて。「私が父親代わりをします。野村くんには野球の素質があるから、やらせてあげてください。もし3年やってダメなら、私が責任を持って就職のお世話をします」。そうやって母親を説得してくれた。「そこまで言ってもらえるなら先生にお任せします」って。それで野球ができた。ただ、野球部の部長、野球のヤの字も知らない人だったんだよなぁ……。
■一升瓶に土をつめて素振りをしていた
でも相変わらず貧乏で、道具は払い下げ。ユニフォームも先輩から譲ってもらった。1日4本くらいの汽車に乗って通学していたから、アルバイトをする時間もないですよ。一升瓶に土をつめて素振りをしていた。
高校を卒業しても野球を続けようとは思っていた。おれは小さいときから巨人ファンだったんだが、一コ上の藤尾茂さんという強肩強打の俊足が巨人に入ってね。藤尾さんに勝てるわけないと思って巨人を諦めた。そのうえで全プロ球団から20代がレギュラーのキャッチャーをやっていないところを探した。それが南海と広島だった。その2球団の新人テストを受けて駄目だったら、社会人野球で、という方針をたてていた。
そんなある日、新聞に南海のテストに関する広告が載っていたんだ。ただ、大阪まで行く汽車賃がなかった。それで野球部の部長に「先生、新聞にこんなの載っているんですよ……」と相談したんだ。そうしたら「行ってこい、行ってこい、おれが汽車賃を出してやるよ」って背中を押してくれた。
汽車賃借りて、テスト受けに行って、それで合格できた。
びっくりしかないんだよ。兄貴といい、野球部の部長といい、こう考えると、俺の野球人生はいつも首の皮一枚でつながっていたんだな。「合格することもあるんだなぁ」なんて思っていたんだが、これには後日談があった。
テストで合格したのは7人。うち2人がピッチャー。キャッチャーは4人。明らかにポジションのバランスがおかしい。
プロになって、あまりにも試合で使ってもらえないものだから、ある日2軍のキャプテンの部屋に行って「われわれの筋ってどうなんでしょうか」って聞いた。そうしたらキャプテンにこう言われたんだ。
「がっかりするなよ。あとは自分で決めろ。テスト生で1軍に上がったやつなんて1人もいないよ。プロはピッチャーがたくさんおるやろ。その絶対数、キャッチャーが必要なんだ。おまえら、ブルペンキャッチャーとして採用されたんだ」
もうショックもショック。よく見たらキャッチャーは4人とも田舎出身。和歌山やら熊本やら……、どうやら、擦れている都会の子と違って、田舎者のほうが純粋で、真面目に頑張ってくれるだろうと。球団にはそんな固定観念と先入観があったようだ。ちなみに2人のピッチャーもバッティングピッチャーとしての採用だったそう。
■地道な下積み時代ハワイのチャンス
そのときはもう帰ろうと考えたよ。でも、どうせクビになるなら、納得してクビになろうと思い留まった。
だから、とにかく素振りをした。みんなプロになると、契約金をもらえるし、給料も一般の人よりもいいし、そうなると、もう覚えるのは酒と女だ。夜中、合宿所に残っているのはおれとマネジャーだけ。みんな遊びに行っちゃって。お金というのは駄目だよ。人間を変えちゃう。お金の魔力。
おれは給料安くて、遊ぶ金なんてなかった。背広を買えなくて、2年も学生服を着ていた。それにおれは酒も飲めない。
しかし今思えばそれがよかった。もうバットを振るしかない。静まり返った合宿所の庭で、ひたすらバットに耳を傾け続けたんだ。
いいスイングをすると「ブッ」と短い音がする。「ブウッ」っていう長い弱い音じゃ駄目。それを耳で確認しながら素振りをしていると、あっという間に1時間、2時間もたってしまう。
先輩にはよく冷やかされた。
「バット振って1軍になれるなら、みんな1軍になっているよ。この世界はな、才能だよ。素質だよ。着替えてこい。きれいなねえちゃんがおるぞ」
そんなこと言われたら、グラグラってくるよ。男だもの。でもやっぱり銭がねぇ。バット振るしかないわね。
だから手にマメをつくって、寝るんだ。そうしたらある日、2軍監督が「全員手を出せ」と言ってマメの検査があったんだよ。みんな「なんだこの手は」って怒られている中で、俺の番になったときに「おお野村、いいマメつくってるな。みんな見ろ、これがプロの手だ」って褒めてもらったんだよ。
そう言って褒めてもらったらうれしいじゃん。だから、また素振りをして、マメをつくったんだ。
キャッチャーとしても頑張った。おれは肩が弱かったんだよ。毎日練習後に遠投をしていたけど、「肩が強い」「足が速い」は天性だから、もう強くはならなかった。だからその分、速く投げようと、そんな練習ばかりしていたのだよ。
というか、恥ずかしながら自分はボールの握り方すら知らなかったんだ。いまでいうツーシームの握り方でボールをほうっていたもので、ボールがスライドしたり、シュートしたり。ある日1軍の先輩に「どないにボール握っているんや」って言われて握り方を見せたら「ばかたれ。プロのくせに握り方も知らんのか」って。先輩の言うとおりにフォーシームで投げたら、まっすぐいった。峰山高校には野球を教えてくれる人なんて1人もいなかったからな。
プロ3年目になると、もうそのときにはテスト合格者はおれ以外全員クビになっていた。なぜだろうな。2軍の監督に気に入られていたのかな。こいつはモノになる、と。
そして転機はその年にきた。2年目に1軍が優勝して、そのご褒美で「ハワイでキャンプ」という企画があったんだ。それでブルペンキャッチャーを1人連れていくことになって、おれが選ばれた。
そのころは海外なんて一般社会でもあまり行かなかった。まだプロペラ機しか飛んでいない時代で、ホノルルでもウェーク島に一回降りて、給油してからハワイに入るという時代。もうみんなうれしくてしょうがないわけだ。
ハワイでの練習が終わって、いよいよオープン戦となった。その日、レギュラーの松井淳さんが「肩が痛い」と休んだので当然、2番手の小辻英雄さんがオーダーに入ると思っていた。そしたらこの2番手、男前でね、ハワイで遊びほうけちゃって。それを監督が知ってな。
「おまえは分をわきまえないで、遊びほうけやがって、日本帰ったらクビだ」と怒られていた。そしてヤケクソ気味に「もういい、野村、おまえ行け」と仰せつかった。
■王、長嶋、サッチー、そして息子・克則へ
そしたら、相手のハワイのチームがただの地元の寄せ集めでね。レベルが低かったもので大活躍できたんだ。それで日本に帰ってな、監督が記者会見で「ハワイキャンプは大失敗だった。ただ、ひとつ収穫があった。野村に使えるめどがついた」と発言したんだ。これはうれしかったね。
でも日本に帰ってきて、オープン戦で使ってもらえたんだが、なかなか打てないんだよ。日本とハワイじゃレベルが違うから。二十何打席ノーヒット。でも二十何打席目でやっと初ヒット。ヒット1本出るとほっとするんだわ。そうすると1シーズン、リラックスできた。監督はほんま懲りずによう使ってくれた。何を見込んで使っていたのかは定かではないが。
それで4年目でレギュラーをとった。でもそれでお金が入って、気が緩んでしまった。5年目、6年目は駄目だったよ。やっぱりお金は人を変えるね。
そこから苦労して、苦労して、10年目で52本の本塁打を打って新記録を作っちゃった。あぁ、これであと10年ぐらいは持つなと思ったんだが。それなのに次の年、王に簡単に抜かれちゃった。このやろう、おれの価値を下げやがって。王さえいなければ、全部おれが一番だったのに。
でも面白い記録がある。意外に王が悪い記録だ。オールスター戦でおれがキャッチャーとして王と戦った数十打席、1度も王にヒットを打たせなかった。オールスターしか仕返しする場がないので、「王はこう抑えるんだ」って気概でやったが誰も評価してくれない。
長嶋は、あれはもう天才。おれも攻略法を見つけられず。それ以外言うことなし。彼のことは、別にライバルとは思っていなかったよ。
■おれから野球をとったら何もない
振り返れば、おれ引く野球はゼロ。おれから野球をとったら何もない。なぜここまで野球ができたか。それはおふくろを楽にしてやりたいという一心を持ち続けたから。小さな町で5回も引っ越したんだ。家賃が高くなりゃかわって、かわって、よその2階住まいもしたことがあった。
プロ野球で活躍できて、やっと母が楽になったと思ったころに病気だわね。あんな不幸な人生ってないと思うんだよね。短い人生だったんだよ。
そしておれも、3年前に最愛のサッチーを亡くして、寂しくなってしまった。生まれ変わっても、もう1度サッチーと結婚したい。でもな、子どもに野球はさせないかな。
3人子どもがいるけど、3人とも足が遅い。半端じゃなく遅い。運動神経なし。間違いなく男の子は母親に似る。克則、おまえもサッチーに似てしまって、どんそくだな。
克則には本当に辛い思いをさせてしまったと思う。何をやっても父親と比べられてしまって。おれはどうにかして克則を助けたかったけど、どうしたらいいかわからなかった。許してくれるだろうか。
でも、選手として克則は駄目だったかもしれないが、コーチとしてはいい。克則がコーチになるってとき、おれは最初反対したんだよ。おまえには無理だと。母親にそっくりで鈍いし。
でも克則はおれと違って、人柄がいいから。その性格はサッチーから譲り受けたのだろうか……。リーダーシップがとれているように見える。
おれは、克則を突き放したんだ。高校、大学の7年間。克則は寮生活をした。それがよかったのだろうか。学生野球は規則、規則でうるさいから。そういう規則で雁字搦めの世界に入り、人に育ててもらった。人間的に好かれる人物になった。
もし監督経験者として克則にアドバイスするなら、目だ。目だよな。目を養ってほしい。選手のどこを見るかだよ。いいコーチになってくれ。
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野球評論家
1935年、京都府生まれ。54年、プロ野球の南海に入団。70年からは選手兼任監督。その後、選手としてロッテ、西武に移籍し45歳で現役引退。ヤクルト、阪神、楽天で監督を歴任。野球評論家としても活躍。
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(野球評論家 野村 克也 聞き手、構成=プレジデント編集部(鈴木聖也) 撮影=村上庄吾 写真=朝日新聞社/時事通信フォト)
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