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野村克也はなぜ「明智光秀のように死にたい」と話していたか

プレジデントオンライン / 2020年3月7日 15時15分

ヤクルト球団設立50周年を記念して行われたOB戦。試合後、取材に応じるGOLDEN 90’sの監督を務めた野村克也氏=2019年7月11日、神宮球場 - 写真=時事通信フォト

プロ野球の名監督・野村克也氏は生前、戦国武将の明智光秀の生き様に共感していたという。ID野球の生みの親が、“謀反人”の光秀に見出した共通点とは――。

※本稿は、野村克也『野村克也、明智光秀を語る』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■知らないうちに人生の晩年を迎えていた

平成29(2017)年12月に、妻の沙知代が亡くなった後、私は心身ともに一気に老け込んだ。それ以来、歩行が次第にしんどくなり、車いすに乗って移動することが多くなった。球場へ取材に出向くときも車いすである。

現役時代から私をよく取材し、30年来の同志とも言えるベテラン記者に出くわした私は思わず、「いかに楽して死ぬかしか考えとらんわ」と心にもないブラックジョークを言ってしまった。知らず知らずのうちに、私は人生の晩年を迎えていた。「死」というものは季節の移ろい以上に細やかに音もなく近づいてくるものなのかもしれない。

明智光秀の「死」もまた音もなく近づき、しかし私とは違い、豪然と光秀に襲いかかった。天正10年(1582年)6月2日の「本能寺の変」の11日後。6月13日に光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた。その夜、坂本城を目指し、わずかな家臣に守られて逃走した。

■なぜ「楽して死にたい」と考えたか

その逃走途中、京都伏見の小栗栖(おぐるす)で落武者狩りに討たれたのである。竹槍で脇腹を刺されたと言われている。普通、槍で刺されると、当時の人は熱した鉄の棒でえぐられた気になったものだが、竹槍で刺されるのはもっと悲痛である。熱した鉄の塊を脇腹に強く押し当てられた激痛が走る。突然繰り出された竹槍に光秀は脇腹を刺され、落馬。致命傷と悟った光秀は、自刃したと言われている。

敗走中に、いきなり竹槍で刺さられて、その直後、自刃した光秀。その死は無念の一言に尽きる。しかし、光秀を倒し、天下人になったものの幼子・秀頼を遺して死んでいく秀吉の死に比べて、無念ではあったが後悔のない死に様ではなかったかと、私は思っている。

私が戯言で、「楽して死にたい」と話したのは、秀吉のように「頼む、頼む」と頭を垂れて死ぬのではなく、光秀のように後腐れのない死に様を望んだからだろう。

■朝夕の食事にも事欠くほど貧しかった

英傑ではあったが、英雄にはなれなかった男、それが明智光秀である。

光秀の前半生は資料で伺い知ることができず、その多くは謎に包まれている。歴史の表舞台に登場するのは、信長の家臣となる永禄11(1568)年で、光秀41歳のときだった。

若き日の光秀は流浪の日々を過ごし、貧困にあえいでいた時期もあったと聞く。出自は美濃国の守護・土岐氏の一族と言われる明智氏のもとに生まれたとされているが、それさえも定かではない。とはいえ、明智氏のもとに生まれたとすれば、光秀29歳の頃に明智城が美濃国守護代・斎藤義龍の侵攻により陥落し、美濃を逃れた。

美濃国では名門と言われている土岐氏の末裔として高い教養を身につけた光秀は、室町幕府13代将軍・足利義輝に仕えたが、将軍・義輝は松永久秀に攻められ闘死してしまう。主君を失った光秀は浪人となり、各地を転々とした。朝夕の食事にも事欠く貧しい生活を送っていたと言われている。

貧しさと隣り合わせの生活を、私もまた送った。私が3歳のときに父親は日中戦争で戦死し、母親が女手一つで兄と私を育ててくれたのである。貧しい暮らしだった。父親がいないこと、貧乏なこと、10代の私はずっとその劣等感を持って生きていた。

■野村克也と光秀にある「2つの共通点」とは

武将もまた勝負師に近いものがある。基本的に勝ち負けの世界で生きる者は何事につけても慎重である。その典型は私なのだが、それでも「これだ」と思ったら、時には他人の言葉に耳を貸さず、我が道を行くことも必要だ。

武将たちもその点は同じで、信長の「桶狭間の戦い」、光秀にとっての「敵は本能寺にあり」、秀吉の「中国大返し」がそれである。

光秀の人生を見ていて、もう一つ私と共通する点は、〈想像して、実践して、反省する〉という思考の回路である。反省をしっかりとすることで、成功を確実に勝ち取るという考え方である。光秀も、私も元来は慎重な人間なのである。王貞治もそうかもしれない。

しかし、長嶋茂雄は天才だから感性が無意識に、「想像して、実践して、反省する」を行っていたに違いない。上杉謙信も似たようなものだ。毘沙門天を崇めた彼は祈りながら、信心の中でそれを行っていたはずである。

光秀と対等になった気分で、私は話しているが、光秀は歴史に名を遺す武将であり、私はイチ野球人でしかない。しかも、日陰のポジションであるキャッチャーだ。キャッチャーはつくづく因果な商売だと思う。毎日飽きることなく、野球の筋書きばかりを書いているからだ。

■「キャッチャーは1試合で3回分試合している」

私がよく話す話に、「キャッチャーは1試合で3試合分の試合をしている」というのがある。試合前の想像野球、実際の試合における実践野球、そして試合後の反省野球である。試合前には、相手打線の並びや打者のタイプを見極めて、どう攻めるか具体的に考えることが大切だ。そのシミュレーションをもとに試合でピッチャーをリードする。

しかし、想像の通りに行かないのが現実なので、試合後一球一球の配球と結果を思い出し、反省野球をするのだ。私の場合、この反省野球をしないとキャッチャーとして翌日戦えない。面倒だがこの繰り返しが、野球選手としての成長を促すのである。野球というスポーツは考えるスポーツなのだ。

武将の場合も同じだと思っている。当時の戦国武将たちの中には、文字もろくに書けず、「論語」など読んだことがないという武将がざらにいたようだ。しかし、彼らは戦話をすることで、戦のシミュレーションや反省会をしていたのだ。まさに、耳学問である。

光秀は教養のある武将だったので、戦いの前後には私の場合と似たような思考を繰り返していたはずである。

■ターニングポイントとなった「天正3年」

光秀は15年、信長に仕えたことになる。その中で、天正3年(1575年)から天正7年(1579年)にかけての丹波平定の5年間こそ、光秀が一番輝いていた時期であった。

その意味で、天正3年(1575年)という年は、光秀にとっても、信長にとってもターニングポイントになった一年である。信長にとってみると、5月に三河で長篠の戦いがあり、宿敵武田信玄の子、勝頼を破った。武田の騎馬軍団を3000丁の鉄砲隊を活用し、完膚なきまでに打ち倒した。この戦いにおいて、武田は信玄以来の功臣は多数失われ、東方の脅威はひとまず消えた。

岐阜に凱旋した信長は、丹波攻めについてさっそく考えた。ようやく西および北に目を向ける余裕が生まれたのである。京都を押さえてはいたが、中国地方、北陸地方のほとんどが手つかずだった。

信長は長篠の戦いの前から丹波攻めの総大将は光秀と決めていた。同年6月に入ると、光秀に丹波攻めの総大将を命じて、すぐにでも丹波への出陣となるはずだった。しかし、越前での一向一揆の討伐があり、信長自らが出陣し、光秀も動員を余儀なくされた。そのため、丹波攻めはひとまず後回しになった。

■力攻めを極力避け、5年がかりで丹波を平定

総大将になった光秀は、信長から京都奉行職を解かれた。丹波攻めの総大将となった光秀は、丹波の地形を見ながら、どういう戦術で攻略したらよいかを考えていた。丹波という国は山岳の小さな盆地ごとに、豪族たちが砦を築いていた。それぞれの砦、城の守りが堅く、力ずくで攻略しようとすると、味方の損害も著しいものになると考えられた。

そこで、光秀は力攻めの戦いは極力避けて、交渉を繰り返し、調略をもって豪族たちを味方に引き入れる作戦をとった。しかし、そう簡単にはいかず、苦杯を喫することもあったが、5年目の天正7年(1579年)に丹波平定を果たし、光秀は同年10月に信長に報告をするため安土城に向かうことになった。

信長から激賞され、恩賞として丹波一国を与えられた。近世石高で換算すると29万石である。それまでの知行地である近江国滋賀郡の5万石を加えて、34万石の大名になった。

まさに、光秀の栄光、50代の栄華であった。

■「感謝、感謝」の文言で謀反の「む」の字もない

天正9年(1581年)6月2日、光秀は織田家にはこれまでなかった軍法を『明智家法』として制定した。光秀はこの軍法を家法として定めた。この軍法の「後書き」には、「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という信長への感謝を書き残していた。

この感謝の言葉を記した天正9年6月2日とは、「本能寺の変」のちょうど1年前である。「信長様に感謝、感謝」の文言で、謀反の「む」の字もない。

光秀は信長に仕える前まで恵まれない境遇にいた。光秀は乱世の世に大志を持っていた。大志とは、己ならばこうしたいという志である。しかし、誰も自分を取り立ててくれない。こうした不遇の中で信長と出会った。

信長は門地を問わず、前歴も問わない。その人物が持つ能力のみを評価する、当時としては珍しい武将だった。光秀を見て、すべてを気に入ってしまった。信長にとって光秀は最初に城を与えた家臣だった。しかも、光秀は今でいうところの中途採用。中途採用でありながら、いきなり厚遇をもって対処されたのである。

■なぜ裏切ってしまったのか

しかし、この1年の間に、光秀の心に何が生まれたのだろうか。信長に対する疑心暗鬼の思いが芽生えたのはなぜなのだろうか。

野村克也『野村克也、明智光秀を語る』(プレジデント社)
野村克也『野村克也、明智光秀を語る』(プレジデント社)

織田軍が武田勝頼を天目山の戦いで滅ぼしたことで天下統一へ大きく前進した、その勝利の宴が開かれた。

その宴で光秀は、「上様、我らも年来骨を折り、ご奉公した甲斐がござった」と言った。普通であれば、「光秀の申す通りじゃ」と信長が答えて終わりというところだが、信長は「何、光秀。こやつ、いつどこで骨を折ったと申すのじゃ」と激しく怒り、厳しい折檻を与えた。この出来事が光秀の信長に対する心境を大きく変えるきっかけになったと言われる。

最後には、誰もが知るところの「本能寺の変」を起こして謀反、敗北という形で己の生命を終えた。その心の有り様から考えると、私たちもまた、光秀になる可能性を持ち合わせている。そんな思いから、「人は皆、明智光秀である」と、私は書いたのである。

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野村 克也(のむら・かつや)
野球評論家
1935年、京都府生まれ。54年、プロ野球の南海に入団。70年からは選手兼任監督。その後、選手としてロッテ、西武に移籍し45歳で現役引退。ヤクルト、阪神、楽天で監督を歴任。野球評論家としても活躍。

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(野球評論家 野村 克也)

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