「11人抜きの大抜擢」空調事業を知らない私がダイキン社長になった理由
プレジデントオンライン / 2020年4月26日 11時15分
■心の様相が変わると見え方が180度変わる
ダイキンに入社してから60年余の過程で、いくつかのターニングポイントがありました。そのひとつでも欠けると、私がここにいることはありません。
最初の分岐点をあげるなら、入社2年目のとき。10日間ほど無断欠勤したことがあります。そのまま会社に戻ることがなかったら、ダイキンでのその後はなかったということです。
はじめての配属先は、淀川製作所の総務課庶務係でした。希望していた営業でなかったこともあって、モチベーションは上がりません。加えて仕事らしい仕事も与えられず、唯一任されたガリ版刷りの仕事も面白くない。職場の雰囲気になじめずに工場内を回ったり、守衛さんのところに行ったりして時間をつぶしていました。そして、ある朝、会社に届けも出さずに休むことにしたのです。そのときは、会社を辞めるつもりでいました。
無断欠勤して8日が経ったころ、同じ大学の1年先輩の方が心配して私を訪ねてきました。そして、「会社を辞めてどうするの? 次に働く場所は? その勇気はあるのか?」。先輩の言葉に自問自答してみると、何もない自分に気づきました。特別なスキルを持っているわけでもなく、こういう仕事がしたいという強い思いもない。ただ嫌で辞めたいと思った自分がいただけでした。
■息苦しいと感じていた職場とはまったく違う世界
無断欠勤から10日、ばつが悪いのは承知で小さな勇気をもって出社した私を待っていたのは、「そういうこともあるわな」という上司と先輩たちのニタっとした笑顔。息苦しいと感じていた職場とはまったく違う世界がそこにはありました。いや、実際は、私の心の様相が変わったことで見え方が変わっただけだったのです。
ビジネスマンとしては決して褒められた行動ではありませんが、私にとっては、人は心の状態で見え方も、取り組み方も変わるということを学ぶいい機会になりました。
次の分岐点をあげるなら、それから30年の月日が流れ、化学担当の役員になったことでしょうか。1988年は、ダイキンという企業にとっても大きな転換点となった時期でもあります。当時の主力事業だった化学部門の存続が危ぶまれる三重苦に瀕していたのです。
ひとつは、2名の逮捕者を出してしまったココム(対共産圏輸出統制委員会)規制違反事件。その前年には、モントリオール議定書が採択され主力製品のフロンが国際的な規制対象になり出荷量が減少、またダンピング提訴によって、米国へのフッ素樹脂が輸出停止に追い込まれていたのです。
私が化学担当役員の辞令を受けたのは、まさにそのときでした。山田稔社長(当時)から呼ばれた私は「ちょっと待ってください。私は事務屋一筋で、化学式はH2Oしか知りません」と言ったことを覚えています。それでも山田社長は「そんなもん知らんでええ。おまえは淀川工場にいる人たちを知っているだろう。事業部に明るさを取り戻してやってくれ」。
三重苦に見舞われた化学事業部は、ココム事件で度重なる事情聴取を受け疲弊し、暗い雰囲気が漂っていました。そこで私が取りかかったのは、化学事業部のメンバーの心の状態を前向きにすることでした。技術力はあるのですから、がむしゃらに挑戦できる環境をつくることができれば、明るさを取り戻せると考えたのです。
挑戦の舞台は、アンチダンピングでビジネスがゼロになった米国市場。アメリカに工場をつくり、そこで生産したものなら、米国で売ってもアンチダンピングの対象にはなりません。アラバマ州に土地を購入し、工場建設に着手。化学事業部から総勢100人が現地に行き、その建設や機械の試運転に携わることになりました。先が見えたことで徐々に活気を取り戻した化学事業部は、急速に回復していくことになります。海外事業に取り組んだ化学担当での7年間は、私が初めて事業部門を担当した経験でもありました。この経験がなければ、その後、私が社長になることはなかったと思います。
■社長就任時、年上役員の全員を続投させた理由
分岐点をもうひとつあげるなら、その社長就任です。化学担当役員のときもそうでしたが、社長就任も私にとっては青天の霹靂。私の上には11人の年上役員がいたからです。さらに、主力事業の空調事業には1度も携わったことがなかった。そんな状況で記者発表の日程が決まってからというもの、生まれて初めて足が地につかないくらい緊張が続きましたね。記者会見の当日、何を話したのかさえ覚えていません。
社長となった私の課題は、まさに主力事業の立て直しでした。思い切った役員陣の刷新も考えられるところではありましたが、私は逆に、先輩役員の知識と経験を活かすときで、それこそが最善の方法だと考えました。17年ぶりの赤字に危機感を持ち、役員陣が派閥争いなどの後ろ向きの考えをやめ、心の様相が変われば必ずや力を発揮してくれると信じたのです。
結果は、1年で黒字転換に成功。先輩役員の方々は、私が社長を務めた8年のうち7年、私や組織を支えてくれることになりました。グローバル企業となった今のダイキンの基礎をつくってくれたといっていいでしょう。
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ダイキン工業取締役会長
1935年、京都府生まれ。同志社大学経済学部卒。57年大阪金属工業(現ダイキン工業)入社。79年取締役。94年社長。2002年代表取締役会長兼CEO。14年より現職。現在世界約150カ国で事業展開し、従業員は約7万6000人。
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(ダイキン工業取締役会長 井上 礼之 構成=洗川俊一 撮影=福森クニヒロ)
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