「時給5000万円の陸上バカ」日本代表・大迫傑のお金の使い道
プレジデントオンライン / 2020年3月9日 17時15分
■東京五輪男子マラソン代表「内定」勝ち取るまでの知られざるドラマ
大迫傑(ナイキ)が東京五輪男子マラソン代表に内定した。
3月1日に行われた東京マラソンでの走りにしびれたという方は少なくないだろう。自らが持つ日本新記録を21秒更新する2時間5分29秒で突っ走った。30km地点では13位だったが最後は4位まで浮上し、日本人1位でゴールするという華麗なる“逆転劇”だった。代表選考最終レースである3月8日のびわ湖毎日マラソンで大迫の記録を上回る者は現れず、オリンピック出場を決めた。
大迫は昨年9月のマラソングランドチャンピオンシップ(以下、MGC)で東京五輪男子マラソン代表の内定(2位以内)を手にすることができなかった。それでもMGCファイナルチャレンジで日本陸連の設定記録を突破する選手がいなければMGC3位の大迫が代表内定となる立場にあった。
日本陸連の設定記録は大迫がその時、保持していた日本記録を1秒上回る2時間5分49秒。自ら五輪チケットを奪いにいくべきか。それとも、果報を待つべきか。大迫の動向が注目されていたが、日本記録保持者は自ら“東京決着”を選ぶ。その理由が素晴らしかった。
「東京五輪うんぬんではなく、シンプルにチャレンジしたい大会だったからです。日本記録のチャンス、優勝のチャンス、ワールドマラソンメジャーズで活躍できるチャンス。そういうものに挑戦したかった」
■2レース、4時間強で褒賞金2億円ゲットした大迫傑の本質
大迫を長年取材してきて感じるのは、2つの道があったとすると、あえて困難な道を選び、そこで苦労しながらも結果を残してきたことが彼の「凄さ」だと思う。
「目の前にチャンスがあるのに挑戦しないことの方が僕にとってリスクなんです」
そう言い切る大迫は、東京都町田市の出身。中学時代から「強くなりたい」という気持ちにあふれていた。高校は長野・佐久長聖に進学する。15歳で東京から長野へ。高校では丸刈り頭で厳しい生活を過ごした。これだけでも小さくない挑戦になるが、早稲田大学に進学して、彼の野望はさらに大きなものになっていく。
箱根駅伝1区で2年連続の区間賞を獲得するなど、学生長距離界のスターになったが、常に「世界」を見つめていた。一番驚かされたのは、大学4年時の冬に、チームを離れて単身渡米。箱根駅伝ではなく、翌シーズンに向けてトラック練習をしたことだ。
早大は超名門だけに、主将であった大迫の行動を批判するOBもいたが、チームメイトは快く送り出したという。仲間も認めざるを得ないほど、大迫の「速くなりたい」「強くなりたい」という思いは強烈だった。
大学卒業後は米国に移住。アジア人で初めてナイキが本社を置くオレゴン州に設立した長距離走選手強化目的の陸上競技チーム「オレゴン・プロジェクト」の一員となり、最先端のトレーニングを積んだ。2015年に5000mで13分08秒40の日本記録を樹立すると、2016年のリオ五輪(5000mと1万m)に出場する。大迫は目指すターゲットがあれば、常に“最短距離”を進んできた。
「米国に移住したのは、リオ五輪を考えてのことです。これまでも高いモチベーションでやってきましたし、僕自身、モチベーションを高くたもてる選手だと思っています。新しい挑戦の裏には、『負け』というものが常にありました。そういうところが一歩を踏み出すキッカケになったかもしれません」
■2012年ロンドン五輪、わずか0秒38差で出場を逃した悔しさ
大迫といえども最初から国内で“無敵”だったわけではない。日本選手権の1万mは佐藤悠基(日清食品グループ)に敗れ続けて3年連続(2012~14)の2位。2012年は0秒38差でロンドン五輪出場を逃している。その悔しさが米国への武者修行につながり、MGCでの敗北があったからこそ、今回のチャレンジがあった。
東京五輪を狙うというよりも、マラソンランナーとして次なる高みを目指すために東京マラソンに参戦。今回は初めてケニア合宿を敢行した。
「ケニアで2カ月半トレーニングをしてきました。やることは変わらないですけど、練習パートナー(現地の選手)がいますし、より標高が高いので、今まで通りいい練習が積めたと思います」
大迫は練習内容を明かさない方針だが、非常にハードなメニューをこなしているという。マラソンは1年に2回ほどの出場が一般的だけに、1レースにかける思いは強くなる。
「すべてのマラソンがそうだったんですけど、単純に半年間、厳しい練習をしてきました。それは誰かから評価されるものではありません。でも、スタートラインに立ったときに、僕はひとつの勝利をしているんです。そこがマラソンとトラックでは違うところで、マラソンの魅力だと思います」
■ナイキ厚底シューズの最新テクノロジーを駆使してきた
大迫の「速くなりたい」という気持ちは今回のシューズ選びにも表れている。東京マラソンの男子完走者107人中94人(87.8%)がナイキの厚底シューズを着用していたが、使用モデルについては大きく2つに分かれていた。
前日本記録保持者の設楽悠太(Honda)は現行モデルといえる『ズームX ヴェイパーフライ ネクスト%」をチョイス。一方、大迫が選んだのは新モデルの『エア ズーム アルファフライ ネクスト%』(以下、アルファフライ)だった。
後者のアルファフライは昨年10月にウィーンで行われた非公認レースでエリウド・キプチョゲ(ケニア)が人類初の2時間切りを果たした際に着用していたシューズの市販モデル。日本では東京マラソンが開催された3月1日に限定先行発売された。
今回、使用モデルが2分されたのは、アルファフライが発売前だったという理由が大きい。ナイキと契約している大迫ですら、同シューズを履いたのはレースの3週間ほど前だったという。
■39.5mmの超厚底を履かない選手もいた中、履く決心した理由
アルファフライは靴底の厚さが39.5mmと従来モデルよりも超厚底になっており、前足部にも反発力のあるエアパックが搭載された。そのため、慣れ親しんだモデルを使用した選手も少なくなかったのだ。しかし、大迫に迷いはなかった。
「新しいモデルなので、ナイキの新しい技術が使われている。ナイキを信用して、履いてみようと思いました」
大迫は日本人ではいち早くナイキの厚底シューズを導入。マラソンでは2017年4月のボストンから同シューズを着用してきた。他の日本人選手よりも“厚底使用歴”は長いが、アルファフライを履いたときは違和感があったという。
「足を入れた感じは、薄底から厚底を履いたときにように違ったんです。でも、実際に履き始めたら、慣れるのに時間はかかりませんでしたね。クッション性がすごく上がったと思いますし、エアが入っているので、より反発力もある。これまでのシューズよりもロスが少ないように思います」
ナイキの最新シューズともに結果を残してきた大迫は、日本記録を2度塗り替えた。しかし、大迫はマラソンで「タイム」を意識したことがないという。その真意はどこにあるのだろうか。
■マラソンで意識しているのは「タイムではなく順位」の真意
東京マラソンの2日前に行われたプレスカンファレンスで、大迫はいつも通りのコメントを残している。目標タイムを尋ねられると、前年に続いて「2:??:??」とボードに書き込んだ。
「いつもの大会と同じように、なるべく誰よりも速く走るということに集中しているので、タイムはあまり考えていないですね。気象条件が良くて、ペースが良ければいい結果(タイム)が出る。やってきたことはちゃんとやってきたので自分の力を出すだけ。なるべくトップ争いに絡む努力をしていくことを目標に頑張りたい」
ちなみに設楽悠太(Honda)は自己ベストを1秒上回る「2:06:10」で、最後までトップ集団に食らいついた井上大仁(MHPS)は日本記録を1分20秒上回る「2:04:30」と記している。
ふたりの数字はともかく、ともに頭のなかには日本陸連の設定記録であると同時に、大迫が持つ日本記録を1秒上回る「2時間5分49秒」というタイムがあったのは間違いない。それが東京五輪代表をつかむ唯一の方法だからだ。
一方で大迫はMGC3位のアドバンテージがあったとはいえ、記録を意識していなかった。そもそもマラソンはいつも「トップ争い」ができるレースを選んできた。その結果は、ボストン(2017年4月)、福岡国際(同年12月)、シカゴ(2018年10月)と3レース連続の3位。タイムも2時間10分28秒、2時間7分19秒、2時間5分50秒とステップアップした。
■東京マラソンで一時13位に沈みながら日本新記録で出せたワケ
前回の東京(2019年3月)は冷雨の影響もあり途中棄権で、MGC(2019年9月)は3位に終わったが、今回の東京でも意識したのは「順位」だった。
実際のレースでも井上は第1集団を、設楽は第2集団を瞬時に選んだのに対して、大迫はどちらでいくべきか「流れ」を感じながら、第1集団の後方に陣取った。決して井上を意識しての選択ではなかったという。
「誰かを意識してというよりも、全体の大きな枠組みでレースをとらえていました。序盤から少しペースが速いなとは感じていたので、(体力が)一杯いっぱいになってトップ集団から離れたというよりは、自分のリズムで走ることを考えました」
22km過ぎにトップ集団から後れるも、単独でレースを進めるスタイルに変更する。その結果、30km通過時は13位に沈んだ。先を行くトップ集団は自分の日本記録を上回るペースであり、ライバルの井上はその集団にいた。このままいけば男子マラソン代表が井上となる可能性があった。
しかし、大迫は35kmまでの5kmを出場選手最速の14分56秒で走破する。その間に井上も抜き去り、大きく引き離した。最後は全体の4位にまで順位を押し上げ、2時間5分29秒の日本記録を打ち立てたわけだ。
「自分が速くなっていく。それを追求することだけを考えています。今回は4番だったので、まだまだ改善点はありますが、現時点で東京五輪に近いという存在になれたので、今後も自分を信じて準備をしていきたいと思います」
■褒賞金「1億円600万円」を自分のためには使わないワケ
大迫は今回の東京マラソンで日本記録を樹立したことで、実業団マラソン強化プロジェクト「Project EXCEED」による日本記録突破の褒賞金1億円を手にした(加えて、大会4位の賞金100万円と日本新記録ボーナス500万円も獲得している)。
2018年のシカゴと今回の東京で、わずか4時間ちょっとで2億円以上を荒稼ぎしたことになる。プロのマラソンランナーの収入源は、大会の出場料(国内主要大会の目玉選手で数百万円)と賞金(東京マラソンの場合は優勝賞金が1100万円)が中心だが、大迫の場合は先述したビッグボーナスに加えて、ナイキ、マニュライフ生命などの契約金も収入源の柱だ。さらに芸能事務所のアミューズとも契約しており、帰国時にはタレントとしてテレビ番組に出演することもある。
オリンピックでメダルを獲得した高橋尚子や有森裕子のピーク時には届かないとしても、日本の男子選手では金銭的に最も成功したランナーといえるだろう。今回の約1億円の使い道については、こう答えている。
「自分自身のためにというよりも、これから育っていく選手のために使っていくこともあるのかなと考えています」
■時給5000万円の大迫の生き方に触発されるビジネスパースン
昨年10月、自身のツイッターで2021年3月をめどに自らがマラソン大会を創設する意向を表明したが、その準備は着々と進んでいる。今回の1億円は大会開催資金の一部にもなるようだ。
「まだお出しできる情報は少ないですけど、強いコンセプトとしては、日本人が世界との差を縮めるためというのが軸になっています。あとは、新しい競技の見せ方。選手ファーストでありながら、オーディエンスも盛り上がって、見ていて楽しいというか、ワクワクするようなイベントにしたいと思っています」
他にもトラックレースや、未来の選手たちに向けたスクールなども考えているようで、実業団ランナーと比べて、幅広く活動していくようだ。すでに日本マラソン界のスターになった大迫。今後の動向からも目が離せない。
大迫の歩んできた陸上バカともいうべき人生。常識にとらわれず、常に結果を残すためにどう動くべきかを考えた結果、4時間で2億円=時給5000万円の大迫の走りや生き方に触発されるビジネスパースンも多いのではないだろうか。
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スポーツライター
1977年、愛知県生まれ。箱根駅伝に出場した経験を生かして、陸上競技・ランニングを中心に取材。現在は、『月刊陸上競技』をはじめ様々なメディアに執筆中。著書に『新・箱根駅伝 5区短縮で変わる勢力図』『東京五輪マラソンで日本がメダルを取るために必要なこと』など。最新刊に『箱根駅伝ノート』(ベストセラーズ)
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(スポーツライター 酒井 政人)
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