性格最悪、人望ゼロ、人間不信、神頼み……「戦国武将」で一番ダメな人間は誰か
プレジデントオンライン / 2020年5月17日 11時15分
■すべてを失う覚悟で大胆な選択をしてきた
ここ一番の状況なのに、優柔不断で物事を決めることができない。ほとんどの人が、そんな悩みを持っているだろう。一方、後世に語り継がれるようなリーダーや大物は、修羅場に立ったとき、すべてを失う覚悟で大胆な選択をしてきた。つまり、「決断力」を備えているのだ。
はたして乱世を乗り越えた戦国武将たちは、どのような決断を下して生き残ってきたのか。その出来事とスキルを、人気の歴史学者・本郷和人氏が多角的な視点で解説。決める勇気を学んで、ぜひ日常生活やビジネスシーンのなかで役立ててほしい。
■毛利元就 誰も信用しないでガッチリ稼ぐやり手のワンマン
元就は、突出して優秀な武将です。圧倒的な兵力差の戦いに何度も勝つなど、軍事的な才能が高く、用意周到に手を打って、小早川家や吉川家を乗っ取っていきました。1万石もない領地を120万石まで持っていったのは、M&Aを成功させたようなもの。ド汚い手を使いながらビジネスチャンスを掴んでガッチリ稼ぐ、ウォール街にいそうなやり手のビジネスマンタイプですね。
ただ何でも自分で全部やってしまうワンマンだから、毛利家を継承するシステムをきちんとつくりませんでした。元就の死後、毛利家はあっという間にダメになってしまったのです。
元就といえば、息子に結束の重要性を説いた「三本の矢」の話が有名です。でも古文書を読むとそんなに美しい話ではなくて、元就は、「本拠地・安芸国においてすら、『毛利家のために』なんて思っている家来は1人もいない。兄弟しか頼れないから仲良くしろ」と言いたかったんです。どこまでも人間不信なんですね。
さらによくよく読むと、元就は「ボンクラな兄ちゃんを立ててやれ」と言いたかったらしい。誰も信用しないけど、ボンクラな長男はかわいかった、という部分にかすかな人間味を感じます。
■武田信玄 名君の手痛いミスは後継者問題
信玄は非常に優秀です。名君と呼んでいいかもしれません。特に長けていたのが人材登用で、真田昌幸など、優秀な人材を数多く取り立てました。これはという者がいたら、武田に仕えていた伝統ある家に養子に入らせて、継がせる。ちゃんとワンクッション噛ませるんです。だからその後、抜擢してもみんなが納得するし、家臣から裏切られることもありませんでした。
惜しまれるのは、後継者問題です。正室とのあいだにできた義信が、びくともしない跡取りだったのにもかかわらず、武田氏と北条氏と今川氏の甲相駿三国同盟を堅持するか破棄するか意見の対立で、最終的に腹を切らせることになりました。そして四男の勝頼を諏訪家から戻して、勝頼をつなぎの後継者、その息子・信勝を真の後継者に指名します。家臣団からすれば、勝頼は昨日までの同僚だし、「かりそめの後継者って何だ?」という感情になって、まとまりませんよ。実に手痛い失敗でした。
信玄は20年かけて信濃国を制圧しました。すごいことですが、信濃国は40万石なので、時間をかけたわりに効率が悪い気がします。戦術面では優れていても、大局的な戦略観がやや弱かったようにも思えますね。
■上杉謙信 神頼みすぎる独断専行に部下はドン引き?
「義の武将」として人気を集める謙信。はっきり言って、僕の評価は高くありません。細長い形状をした越後国のなかで、謙信が居城した春日山城は土地の端っこに位置します。どうして越後国の真ん中、今の新潟市あたりに居城しなかったのでしょうか。複雑な地形の国を治めようと思ったら、本拠地を変えるぐらいの柔軟さが必要ですが、その決断力はなかった。
また、決める姿勢は独断専行型でした。毘沙門天を信仰していた謙信は、重要な案件があると毘沙門堂にこもって、出てくるとすべてが決定されていたわけです。神頼みすぎます。ドン引きです。それで部下が納得するものなのか……。
後継者選びも大失敗しています。謙信が死んだのは49歳。寿命が50歳の時代だから、後継者を決めておくべきなのに、自分の血がつながっている景勝と、北条氏康の倅である景虎のどちらにするか、決められないまま亡くなりました。結局、死後は内輪もめで上杉家は真っ二つに割れて、弱くなってしまったわけです。
戦はうまかったようですが、10万の兵で囲んだ小田原城は落とせませんでした。大きな組織のトップになる器ではなかったのでしょう。
■織田信長 唯一無二の判断をした男の正体はサイコパスか
「たいしたことない」「残酷だった」という悪評も囁かれる信長ですが、僕は単純にすごいと思っています。というのも、信長は「日本は1つであるべきだ」と考えたわけで、それは他の武将にはできない判断でした。その一点だけでも信長は認められるべき武将です。それを前提にしたうえで、「残酷だった」という指摘には頷きますけど。
信長は人材登用において実力主義を徹底していました。「他国の人間は信用できない」という風潮のなかで、才能さえあれば、誰でも取り立てたのです。だけど、そこには人を殺す使命を遂行して初めて認められるという、野蛮な評価基準がありました。しかも、実力がなければ、本当に首が飛ぶこともあった。家臣からすれば、「いつ捨てられるかわからない」というストレスに襲われて、いつまでもついていきたいとは思えないですよ。ゆえに信長は常に誰かに裏切られる人生でした。
ちなみに脳科学者の中野信子先生によると、信長をサイコパスとしてとらえると、行動や性格に説明がつくそうです。ただし、信長は天守閣をつくったり、お茶を政治に取り入れたり、サイコパスに欠けているはずの美的センスを持っていた。本当はサイコパスだったのか、気になるところです。
■豊臣秀吉 性格の悪さを隠して「気遣いの人」を演出
僕はどうも秀吉が好きになれないんです。というのも、「天性の人たらし」「気遣いの人」という陽性のイメージに共感できない。本当はすごく性格が悪かったんじゃないでしょうか。
特に天下人になるにつれ、部下に冷たくなり、イヤな部分が表出します。初期の秀吉についていた四天王のうち2人は失敗を犯して、追放されたのち、自害を申しつけられました。太閤検地に逆らった農民はなで斬りにしろと命じ、さらに年をとると、秀頼に跡を継がせたいがために、競争相手を血祭りにあげていった。それで豊臣政権は弱体化したわけですが……。
もともと秀吉は、陽気な芸人が普段は暗いように、計算ずくの明るさを演出していたように思えるんですよ。織田家にいるときは従う人格をつくり、天下人になったら朝廷に対して友好的な人格をつくる。そこを徹底できたセルフコントロールは大したものです。
決断力という点で見ると、朝鮮出兵が大きなマイナスですね。国内が飽和状態で、部下に分配する領地がなくなったから朝鮮へ行った――と言われていますが、家康を潰せば、関東地方の領地が全部手に入っていたはずです。それに関しては、力を注ぐ場所を間違えたのでは、としか思えませんね。
■徳川家康 努力家で勉強家で堅実だけどロマンも華もない
家康の比類なき決断といえば、「政権を東で維持しよう」と考えたことでしょう。関ヶ原のあと、伏見や大阪界隈に政権をつくるというのが普通の発想です。それが東北・関東も貧しかった時代、江戸に中心地を持っていった。誰にもない先見性を持っていたと言えます。
家康は努力家なんですよね。勉強家で、剣の達人でもある。そして政治家としては、非常に我慢強い。信長からひどい目にあわせられながらも、同盟を破棄しませんでした。その姿勢が信用を蓄積して、天下人へ押し上げられていったわけです。戦い方も堅実。ひたすら守りに徹して、相手の失策を待つ。コツコツとやるべきことをやり、部下にも裏切られません。
という称賛の裏返しになりますが、家康はとにかく地味で、面白味がありません。少数の兵で大逆転したような軍事の逸話もないし、女性関係も地味。熟女好きかと思いきや、子供がたくさんできたら急変して、若い側室をたくさんもらいました。身も蓋もないというか、ロマンを感じませんねえ。信長や秀吉にあるような華がないんですよ。
家康は安心して暮らせる社会をつくり、日本の国力もあがりました。ただその地味さが、堅実すぎてつまらない社会の礎を築いた感もあります。
■今川義元 「バカ殿」は誤解! 本当は先見性を持っていた
桶狭間の戦いで信長に敗れたため、義元は「バカ殿」「ボンクラ」として扱われがちです。しかし、立派な殿様だったと僕は評価しています。戦には負けるべくして負ける戦いと、何があってもおかしくない戦いの2種類があって、桶狭間は後者でした。義元はあの敗死さえなければ、信長の引き立て役では終わらなかったんじゃないでしょうか。
たとえば、甲相駿三国同盟の締結です。海が欲しくて駿河国に攻め込みたい武田信玄、駿河国の東部を奪い合っていた北条氏康。緊張関係のあるなか、同盟を結んで攻められないようにすると、西に向かって領土を拡大していきました。さらに信長の妨害を受けながらも、三河国を今川家の支配下に置き、松平元康(徳川家康)を今川の武将として位置づけてもいます。
それに父・氏親が制定した分国法「今川仮名目録」を、義元はさらに補完して、「京の権威の力を借りず、今川家独自の力で領国を治める」という“独立宣言”までしているんですよ。沼津港の船のことまで義元は指示を出していた、と書かれた古文書も残っていて、その先進性、視野の広さはあなどれません。スケールとスピード感に欠けるきらいはありますが、もう少し評価が上がってもいいように思います。
■石田三成 実務能力は高いが人望がなさすぎた……
「秀吉への忠誠心が素敵……」と歴史好き女子の間で人気の三成ですが、彼が秀でていたのは、計画立案に代表される実務能力でしょう。太閤検地をデザインしたのは三成と言われているし、秀吉の軍の兵站整備も堅実にこなしました。官僚タイプで、自身の能力をわきまえていたのでしょう。自分は戦争がヘタだと理解しているから、配下の家臣たちに武勇の士を多数抱えました。
だけど残念なことに、三成は求心力、そして豊臣政権内部での人望があまりにもなかった。ここは難しいところで、現代で言えば、経営者の決めたことを実行する副社長のような立場なんです。権力者の側にいる人は、どうしたって恨みを買います。特にかわいそうなのは朝鮮出兵で、三成の家来が現地で指示するたび、苦労している武将たちは、「秀吉め!」とは言えないから、三成に怒りの矛先が向かってしまうんですよ。この遺恨が尾を引いて、関ヶ原の戦いで豊臣の譜代大名が家康についてしまったに違いありません。
こういう立場に置かれた人は一歩引いて、おとなしくするのが得策です。だから秀吉の死後、頭を下げていればよかったのに、つい前に出てしまうのが三成の甘いところ。官僚の才能はあっても、政治家としては力不足でした。
■伊達政宗 半歩遅れ&日和見は生き残るための最適戦略
当時の東北地方は、江戸から約20年は時代が遅れていました。そこで気勢をあげていた政宗は、申し訳ないけれど、「時流を判断できない田舎者」という印象です。一歩遅れる戦国大名は潰されるなかで、半歩遅れていたおかげで首の皮一枚つながったとも言えます。
政宗は秀吉の北条征伐に遅参したことで、会津領を没収されます。その後、秀吉に呼び出されると、余計な行動に出て立場を悪くし、かつて100万石あった領地は58万石にまで減封されました。さらに関ヶ原の戦いのとき、東軍についたら領地を戻すとお墨付きをもらうのに、「どっちが勝つかな?」と日和見しているんですよ。当然、戦いが終わって、「何もやってねえじゃねえか」と家康に怒られました。戦国大名として活躍している時期は短いし、快勝した戦いの記録も少なくて、かなりダメな武将です。
政宗の頼りない決断力からは、「立場を決めて、ちゃんと実行する」という反面教師的な教訓が得られます。ただ、日和見していれば、とりあえず保身はなんとかなるわけで、生き残りという意味では正しい選択なのかもしれません。晩年、政宗は昔の武勇伝を自慢げに語っていたようです。この処世術では、給料は上がりませんけどね。
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1960年、東京都生まれ。専門は、日本中世政治史、古文書学。『大日本史料 第五編』の編纂を担当。主な著書に『日本史のツボ』(文藝春秋)、『乱と変の日本史』(祥伝社)など。
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(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人 構成=鈴木 工)
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