4月から「退職金より未払い残業代」を請求して辞める若者が急増する理由
プレジデントオンライン / 2020年3月24日 6時15分
■賃金請求権の時効が原則5年に
政府は未払い残業代などを含む賃金請求権の消滅時効が現行の2年から原則5年、当分の間は3年に延長する労働基準法改正案を今国会に提出。今年(2020年)4月に施行される見通しとなった。
未払いの残業代を請求する場合、退職後に訴える人が多いが、消滅時効が延長されると以前より受け取る金額が増えることで注目されている。しかし、それだけではなく男女の賃金差別をめぐる争いでも、より訴えやすくなる効果も期待されている。
まず法律がどのように変わるのかを見てみよう。現行の労基法の賃金等の請求の時効は「賃金(退職手当を除く)、災害補償その他の請求権は2年間、この法律の規定による退職手当の請求権は5年間行わない場合においては、時効によって消滅する」(115条)と規定している。つまり、会社に未払い残業代の支払いを求めて裁判を起こしても認められる未払い分は過去2年分に限定されていた。
今回、消滅時効期間の見直しが行われたのは、その根拠となる民法の債権の消滅時効が2017年に改正(2020年4月施行)され、5年に延長されたからだ。法律のポイントは以下の6つ。
■法律のポイント6つ
2.付加金の請求を行うことができる期間は、違反があった時から5年に延長する
3.労働者名簿、賃金台帳および解雇、災害補償、賃金その他労働関係に関する重要な書類の保存期間は5年間に延長する
4.施行日以後に賃金支払日が到来する賃金請求権について、新たな消滅時効期間を適用
5.経過措置として、労働者名簿等の保存期間、付加金の請求を行うことができる期間、賃金(退職金を除く)の請求権の消滅時効期間は、当分の間は3年間とする
6.改正法の施行5年経過後の状況を勘案して検討し、必要があるときは措置を講じる
2の付加金とは、割増賃金などを支払わない使用者に対して違反があった時から、労働者の請求によって未払金のほかに、それと同一額の支払いを裁判所が命じることができる制裁金のことだ。4は、消滅時効の適用は施行以後の「賃金支払日」となり、すべての労働者に適用されるということだ。ただし、消滅時効期間などは民法に合わせて5年とするものの、当分の間3年とし、施行後5年経過後の2025年に検討し、5年に延長するかどうかを決めることになる。
■5年分で3000万円の請求
とはいえ消滅時効が延長されることは働く人にとっては朗報だ。現行の消滅時効の2年が多くの労働者に不利益をもたらしている現状もある。日本労働弁護団会長の徳住堅治弁護士はこう指摘する。
「会社を辞めてから未払い残業代を請求する人が圧倒的に多いのです。しかも裁判を起こすとなると準備に3~4カ月かかり、実質的に1年6カ月分しか請求できない。逆に言えば企業は現行の2年によって救われているといえます」
消滅時効期間が3年ないし5年に延長されると企業の支払額も増加する。一方残業代請求訴訟も増えている。「以前に比べて若い世代を中心に未払い残業代を請求する人が激増しています。1年間の請求額は1人おおむね300万円。消滅時効の2年だと600万円になります。加えて同額の付加金を請求できるので、2年だと1200万円になり、中小企業の若い人たちは退職金をもらうより残業代を請求したほうがよい、と考える人も増えています」(徳住弁護士)という。
3年に延長されると、3年間で900万円、付加金合計で1800万円。さらに5年になると付加金合計で3000万円になる。賃金支払日以降は遅延損害金年利6%、退職日以降は「賃金の確保等に関する法律」によって14.6%の遅延利息が上乗せされる。残業代未払いのリスクはこれまで以上に高くなる。
■男女の賃金格差訴訟への影響は
また現行の2年の消滅時効の影響は残業代請求にとどまらない。冒頭に説明したように男女の賃金格差の是正を求める社会的機運にも影響を与えてきた。徳住弁護士はこう語る。
「これまで男女の賃金差別が裁判で争われてきました。男女間の賃金格差は、入社以降の男性と女性の不合理な差別によるキャリアの違いによって長年にわたって積み重なっていくものです。本来はこの差を過去にさかのぼって是正していくべきですが、是正しようと訴えても過去2年間の差別しか是正できません。しかも申し立てても時間が経過していると得るものも少ない。そのために多くの女性たちが訴えるかどうかを悩んできた歴史があります。時効消滅の期間が男女の賃金差別の是正を困難にする大きな障害になっています」
男女の賃金格差の是正は、世界的な大きな課題にもなっている。この3月8日は国連が定める国際女性デーだった。5日にはUNウィメンが報告書を出しているが、女性の賃金が世界的に見て男性より16%低いことが指摘されている。とくに日本はフルタイム労働者の男女の賃金格差はG7の中で最も大きく(OECD、2017年)、女性は男性より24.5%も低く、なっている。19年12月に公表された世界経済フォーラムの男女格差(ジェンダーギャップ)指数で日本は過去最低の121位。これは男女の賃金を含む経済格差も影響している。
■男女の賃金差別はなぜなくならないのか
企業内の賃金構造を調査した厚生労働省の「賃金構造基本統計調査」によると、2018年の一般労働者の男性の賃金は33万7600円、女性は24万7500円。男性を100とした場合、女性は73.3と、前年から0.1ポイント格差が開いた。
賃金格差の理由として一般的には①管理職に占める女性比率が少ないこと、②男性に比べて勤続年数が短いこと――の2つが指摘されている。しかし、その背景には「女性に重要な仕事を任せられない」「子育ては女性が担うべきだ」といった偏見や先入観による差別意識も働いている。その結果、賃金差別も生まれやすい。
女性であることを理由とする賃金差別を禁じた労働基準法4条を根拠に、これまで多くの訴訟が繰り返されてきた。どの裁判も決着するまでに長期間に及ぶが、前出の徳住弁護士が言うように消滅時効が短いために賠償金が減額される判決が相次いできた。その一つの事例が「昭和シェル石油・男女賃金差別事件」(2009年1月22日、最高裁判決)だ。
■賃金差別を訴える女性が増える可能性
原告の女性は19歳で旧昭和石油に事務職として入社。和文タイムや英文タイプ業務に従事してきたが、52歳の時の1985年に昭和石油とシェル石油が合併。新たな賃金制度の下で高卒男性の22歳の資格等級に格付けされた。納得できない女性は上司に抗議し、1ランク昇格したが、その後は昇格しないまま60歳定年になった。退職後、旧昭和石油は男性だけを年功的に昇給・昇格させ、女性に賃金差別をしたこと、合併後の新制度で女性が降格されたうえに、その後も男性を優遇する運用を行ったことが男女差別であるとして労基法4条違反で訴えた。
裁判で会社側は「男女の格差は勤続年数の違いから担当職務や発揮する能力が男女で異なるためであり、男女差別ではない」と主張。9年間の審理を経て一審の東京地裁は会社の主張は「到底採用することができない」として、賃金、退職金、年金の差額など約4500万円の支払いを命じた。
しかし、会社側は二審の控訴審で「原告の請求の多くは消滅時効にかかっている」と主張。東京高裁は女性であることを理由とする賃金差別(労基法4条違反)は認定したが、提訴から3年以上前の損害は消滅時効にかかっているとして賠償金を約2051万円に減額した。最高裁でも判決が維持され、会社側は賠償金を支払って解決している。
この事例を見てもわかるように裁判所が明らかな賃金差別であると認定しても、賃金請求権の消滅時効が2年であるために多くの女性たちが不利益を被ってきた。今年4月の法改正の施行で消滅時効が当分3年になるが、それでも短い。原則の5年に延長されると、差別に苦しむ女性が勇気を奮い起こして裁判で権利を主張するケースが増える可能性もある。
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人事ジャーナリスト
1958年、鹿児島県生まれ。明治大学卒。月刊誌、週刊誌記者などを経て、独立。経営、人事、雇用、賃金、年金問題を中心テーマとして活躍。著書に『人事部はここを見ている!』など。
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(人事ジャーナリスト 溝上 憲文 写真=iStock.com)
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