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スバルがメイン事業だった「軽自動車」から見事に撤退できたワケ

プレジデントオンライン / 2020年3月23日 9時15分

レガシィアウトバック - 提供=SUBARU

スバル(SUBARU)は2008年、軽自動車の生産から撤退した。赤字体質から抜け出せないためだが、それは国内販売の3分の2を占めるメイン事業を切り捨てることを意味した。異例の決断の背景には何があったのか——。

※本稿は、野地秩嘉『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■技術偏重だった企業体質を大きく変える決断

2006年、社長になった森郁夫はカムリの受託生産に続いて、アメリカマーケットに集中する決定をした。

同社は2010年までの中期経営計画で「スバルらしさの追求」「グローバル視点の販売」を掲げた。グローバル視点とはつまり、アメリカのユーザーの声を聞くということだ。

生産現場といい、経営といい、富士重工はやっと人々の声を聞く会社になった。中島知久平以来、技術偏重だった同社の体質が変わったのがこの時と言っていい。

技術にプライドを持ち、技術で結果を出してきた人間は他人の話を聞かない傾向がある。だから、名車は出すけれど、スバル360をのぞいて富士重工の車はなかなかベストセラーにならなかった。

富士重工の経営の転換とは、謙虚になって、世の中の声を聞くところからスタートしたのである。

そして、具体的にはふたつの決断をした。ひとつは軽自動車の生産から撤退することで、もうひとつはアメリカマーケットに向けた自動車開発を始めることだった。

2008年、富士重工はトヨタからの出資比率を8.7パーセントから16.5パーセントに拡大して受け入れた。

同時に、軽自動車の開発・生産から段階的に撤退し、トヨタのグループ、ダイハツからOEM供給を受けることを発表した。

ちょっと前まではスズキと提携していたのだが、軽自動車をやめてスズキのライバルのダイハツから車を供給してもらうことにしたのである。

■国内販売の6割を占める“軽”事業を捨てる

2007年当時、富士重工の国内販売台数は22万5818台。うち軽自動車は62パーセントの14万990台である。国内販売の3分の2を占める軽自動車の開発・生産から撤退するという、空前の決断だった。

しかも、その年は日本の軽自動車のヒーロー、スバル360の誕生から50周年の記念すべき年だったのである。

当時、森はこう語っている。

「国内の販売は最盛期の35万台から22万台まで減少している。一方で収益の大半は海外なんです。私たちはグローバルで生き残る道を模索しなければならない。国内のことだけを考えて、軽自動車から普通車まですべてを開発・生産するのはもう難しい。そこで決めたのです」

実際、軽自動車は10万台を売る程度ではまったく商売にならなかった。価格の安い軽自動車はダイハツ、スズキのように50万台は売らないと儲けは出てこないのである。

スバルの規模で開発、生産、販売すると赤字になるのだが、スバル360を作った会社というイメージに縛られて、なかなか撤退の決断ができなかった。

■アメリカ向けの開発に振り向けることができた

だが、このおかげで、赤字はなくなり、また、軽自動車の開発をしていた人材をアメリカ向けの車を開発する部門に振り向けることができた。開発技術者が他社に比べて少ない同社にとっては、軽自動車からの撤退は開発陣の強化にもつながったのである。

ただ、単に撤退しただけでは国内の販売網で売るタマががくんと減ってしまう。トヨタ、ダイハツとのアライアンスを生かして、OEM供給してもらうことで、販売店を納得させることができた。

ダイハツ工業からのOEM供給で販売している「シフォン」
提供=SUBARU
ダイハツ工業からのOEM供給で販売している「シフォン」 - 提供=SUBARU

「どうして、もっと早く決断しなかったのか」「こんなことは赤字が続くだろうと見通しが出た時点で決めることだった」とも言われるべき正しい判断だった。

これまで決断してこなかった方が不思議だったのである。けれどもそれは森、吉永といった危機感を持った生え抜き幹部が登用されて、初めてできたことだった。

森は撤退を発表する前、社内やOBから大きな反対があると予想したのだが、実際にそれほど激烈な反応はなかった。社内の人間も軽自動車が大赤字だとわかっていたからだろう。

■「3ナンバーの方が5よりも税金が高い」という思い込み

そして、軽自動車をやめた開発の人間たちはアメリカ向けの車の設計に携わり、早速、ひとつのアイデアを出し、それは採用された。

「車体の幅を広げる」

それがアメリカマーケット向けのひとつの解答だった。業界で販売のコンサルタントをしている人間はこう言った。

「日本の車って、ようかんみたいに細長いんです。世界の車に比べると、ヘンな形なんですね。それは車幅が1メートル70センチを超えると3ナンバーになってしまうからです。売る方としては3ナンバーよりも、5ナンバーの方が売りやすいから、そんなヘンな形の車が増えてしまったんです」

彼の話をもう少し正確に言うと、ナンバーが3になるのは車幅が1.7メートルを超えた場合、そして、排気量が2000ccを超えた場合である。いずれかひとつでも規定を上回ると3ナンバーになる。

ただし、ナンバーが3でも5でも自動車税はまったく変わらない。自動車税は排気量によって課税される。仮に、1800ccのエンジンを搭載する5ナンバー車と1400ccのエンジンを搭載する3ナンバー車があったとする。

すると、3ナンバー車の方が自動車税は安くなる。

だが、ユーザーは「3ナンバーの方が5ナンバーよりも税金が高い」と思い込んでいるのである。そこで、自動車会社は長い間、5ナンバーの車を主に開発してきた。

車幅を広げれば日本では売りにくくなるが、一方、アメリカでは座席間に余裕がある車が好まれる。それは一般的にアメリカ人の方が日本人よりも体格がいいから、車幅が広い方がウケるのである。

■「レガシィアウトバック」がアメリカで大ヒット

開発陣はレガシィアウトバックの車幅を3センチ大きくして、1.73メートルにした。ちなみに現在では1.84メートルまで大きくなっている。

ただ1.8メートルを少しでも超えると、日本ではとたんに売れなくなるという。立体駐車場に入らないし、普通のマンションの駐車場でも、はみ出してしまう。

それに狭い路地にも入っていけない。だから、高級車のクラウンでさえ、車幅はちょうど1.8メートルだ。それ以上の車幅を持つのは日本車ではレクサス以上のグレードだ。

こうして、レガシィアウトバックは車幅を大きくしたため、日本国内では人気は出なかったがアメリカでは大いに受け入れられることとなった。

乗用車をベースにした四輪駆動のSUVで、しかも幅がアメリカ車並みになったレガシィアウトバック……。

アメリカ市場ではベストセラーカーになり、リセールバリューも高くなった。他社の車とスターティングプライスは同じでも、リセールバリューが高くなれば、ユーザーは安く買ったことになる。

そして、リセールバリューが高いことが広まればレガシィアウトバックはますます売れるという好循環が生まれる。

■技術はあってもイノベーションがなかった

軽自動車からの撤退とアメリカマーケット向けの製品企画に特化することで、富士重工は長年の停滞から脱して、快進撃が始まる。

ふたつの決断は富士重工という会社が息を吹き返すためにはなくてはならないイノベーションだった。

スバル360やスバル1000、水平対向エンジン、四輪駆動、そして、アイサイトに至るまで、同社の技術開発、革新にはめざましいものがあった。専門家、自動車評論家はそうした技術革新を手放しでほめる。しかしながら、技術革新とイノベーションは違うものだ。

前者が発明だとしたら、後者は発見であり、価値の転換だ。どちらも必要なものなのだけれど、イノベーションがなければ技術革新は生きてこない。

イノベーションという意味の説明で、たとえばコンビニエンスストアのおにぎりを挙げることができる。

個別包装になっていて、パリパリした海苔を巻いて食べるのがもはや常識だ。しかし、それが当たり前になったのは古くからのことではない。1978年以降だ。それまで長い間、日本人は何の疑いもなく、最初から海苔が巻いてあるおにぎりが当たり前だと思っていたのである。

個別包装という技術革新が生まれた時、イノベーションを考えた人がいる。

「個別包装になったら、最初からおにぎりに海苔を巻くことはない。海苔は包装と一緒にすればいい。そうすればパリパリして、風味、香りを感じられる海苔を巻いたおにぎりを食べることができる」

この考えがイノベーションだ。パリパリ海苔のイノベーションは消費者の潜在的なニーズに応えたものだったから、あっという間に広がっていった。今では店で売るおにぎりといえば、パリパリ海苔のそれが当たり前になったのである。

このように、イノベーションとは思いつきだから、技術者でなくとも誰にでも思いつくチャンスがある。

■「BMW、アウディからスバルに乗り換える人たちがいる」

前身の中島飛行機以来、富士重工が求め続けてきたのは技術の革新だった。新しい技術を模索し、困難を乗り越えてモノにしてきた。

それを自社のセールスポイントとして訴えてきたから、技術を好む人たちで、俗に「スバリスト」と呼ばれる層、四輪駆動が不可欠な雪国のユーザーが同社を支えてきた。しかし、逆に言えば、技術を好む層だけが富士重工の車を買っていたのである。

それがようやく、イノベーションが起こり、アメリカでは着実にスバルが売れるようになっていった。

現在SOA(スバル・オブ・アメリカ)の社長で、すでに37年間働いている、イノベーションと変化を肌で感じてきたトム・ドールは次のように総括している。

「スバルはトヨタ、ホンダよりは知名度は落ちます。しかし、アメリカに来ている各国の車のなかで、スバルはもっともアメリカのユーザーを見ている会社になりました。ですから、毎年、成長しているのです。それにスバルはプレミアムブランドです。BMW、アウディからスバルに乗り換える人たちがいる。これは他の日本車にはない現象です」

どこの国の自動車会社でも、まず、自分の国のなかで売れる商品を作る。ところが、スバルだけは北米のユーザーが乗りたい車を作っている。自分の国よりも、アメリカを向いた車を作っている。

■中島飛行機の創業者はどう思うだろうか

かつて中島飛行機の創業者、中島知久平はアメリカを空爆するための巨大爆撃機「富嶽」を構想し、開発に着手した。

野地秩嘉『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)
野地秩嘉『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)

結局、それは実現しなかったが、彼の仕事を継いだ者たちは苦労に苦労を重ねた結果、アメリカのマーケットに受け入れられる車を開発することで傾いた会社を再生させた。

知久平だって、アメリカをうらんでいたから、巨大爆撃機を作ろうと思ったわけではない。乾坤一擲(けんこんいってき)、富嶽を作り、飛ばすことで戦争を終わらせようとした。

富嶽を通じて巨大航空機の技術を培い、その後は巨大な旅客機で日本人をアメリカへ連れて行こうとした。

富士重工の幹部が「アメリカマーケットを向いた車を作ったこと」をもっとも喜んでいる男がいるとすれば、それは知久平だったろう。

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』など多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。

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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

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