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なぜ「浦和」と付く駅がさいたま市には8つもあるのか

プレジデントオンライン / 2020年3月31日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mizoula

さいたま市には「浦和」と付く駅が8つもある。なぜこんなことになったのか。地図研究家の今尾恵介氏は「地元の複数の地名が近くにあると、特定の地名を選びにくい。地名の扱いを公平にという横並び主義(もしくは事なかれ主義)が影響しているのだろう」という――。

※本稿は、今尾恵介『駅名学入門』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

■できた順番は、北浦和→南浦和→東浦和=西浦和

全国の都道府県庁所在地の中で唯一のひらがな市であるさいたま市。平成13年(2001)に浦和・大宮・与野(よの)三市が合併して誕生したものだが、後に岩槻(いわつき)市も編入されて現在に至る。このうち県庁所在地だった旧浦和市内には浦和・東浦和・西浦和・南浦和・北浦和・中浦和・武蔵浦和・浦和美園と「浦和」の付く駅が8つもある。なぜこれほどまで揃ってしまったのかわからないが、できた順に駅の履歴をたどってみよう。

浦和駅が誕生したのは日本鉄道中仙道線(東北本線の一部・高崎線の前身)が上野~熊谷間を開通させた明治16年(1883)であるが、浦和に初めて「冠」が付いたのは約半世紀後の昭和11年(1936)のことであった。北浦和駅である。その4年前に国鉄の京浜線がそれまでの赤羽から大宮まで運転区間を延伸、「東北・京浜線」となってからである。

次の駅は戦後の高度成長期。昭和36年(1961)に南浦和駅が開業した。その12年後の同48年には首都圏の外郭環状線である武蔵野線が開通、東浦和と西浦和の両駅が設置されている。東北本線とは南浦和駅で交差したため武蔵野線は東浦和―南浦和―西浦和と続いた。

■埼玉スタジアムの最寄り駅「浦和美園」が8つ目

さらに東北新幹線に沿って建設された通勤新線こと埼京線が昭和60年(1985)に開通、武蔵野線との交差地点に武蔵浦和駅、その隣に中浦和駅を開業している。これで7つであるが、その後は東京メトロ南北線に直通する埼玉高速鉄道が北上して終着駅の浦和美園駅が平成13年(2001)に開業した。埼玉スタジアムの最寄り駅である。これで8つだが、ギリギリで旧浦和市内だった与野駅を除けば旧市内全部の駅に「浦和」が付くことになった。

ここで浦和関連駅の設置時点での住所を掲げてみよう(カッコ内は開業年。浦和駅のみは明治22年町村制施行時の所在地)。現在の住所はその後の〔 〕内であるが、これでわかるのは、駅ができた時点ではいずれも駅名とは別の地名であり、その後に駅名に合わせた町名が北浦和、南浦和、東浦和の3カ所で設定されていることだ。

浦和駅(明治16年)埼玉県北足立郡浦和町大字浦和宿〔浦和区高砂1丁目〕
北浦和駅(昭和11年)浦和市大字針ヶ谷(はりがや)〔浦和区北浦和3丁目〕
南浦和駅(昭和36年)浦和市大字大谷場(おおやば)〔南区南浦和2丁目〕
西浦和駅(昭和48年)浦和市大字田島〔桜区田島5丁目〕
東浦和駅(昭和48年)浦和市大字大牧〔緑区東浦和1丁目〕
中浦和駅(昭和60年)浦和市大字鹿手袋(しかてぶくろ)〔南区鹿手袋1丁目〕
武蔵浦和駅(昭和60年)浦和市大字別所〔南区別所7丁目〕
浦和美園駅(平成13年)浦和市大字大門〔緑区美園4丁目〕

■どれだけの人が「浦和駅東口」と「東浦和」を間違えたか

できるだけ歴史的地名を尊重すべきと考える私などは北浦和駅を針ヶ谷、南浦和駅を大谷場、西浦和駅を浦和田島、東浦和駅を大牧、中浦和駅を鹿手袋、武蔵浦和駅を浦和別所、浦和美園駅を浦和大門(他に同名駅のあるものに浦和を冠してみた)などとするのが妥当だと思うが、一般にはそのように考える人は少数派なのか、全国的な実態を見れば、既存の駅名をわざわざ都市名に東西南北を冠したものに改める例は多い。

地元の地名を採用するより「東西南北+メジャー地名」が好まれる理由を考えてみると、駅がどのあたりに位置するのか外来者にも把握しやすく、という一種の「親切心」が考えられるが、場合によっては地元の複数の地名が近くにあるため、特定の地名を選びにくい事情も考えられる。特に「民主主義」が定着していくと、良くも悪くも地名の扱いを公平にという横並び主義(もしくは事なかれ主義)は、駅名に限らず政令指定都市の区名を決める際にもたびたび目にすることだ。

しかし浦和のようにズラリと揃ってしまうと誤解の可能性も大きい。たとえば浦和、南浦和、北浦和の各駅にはそれぞれ東口と西口があるが、これが西浦和や東浦和と混同されないだろうか。余計なお節介だが、これまでどれだけの人が迷ったかと心配になる。

思えば昭和37年(1962)の住居表示法施行後に誕生した新町名には西浅草や東麻布、恵比寿南のような東西南北付きがあふれているが、うっかり東西南北を書き忘れて迷子になる郵便物は多い(私も西麻布の西を書き忘れて封書が戻ってきた経験がある)。

■東村山駅は「北多摩郡東村山村」に由来している

さて、東西南北付きの駅名がすべて浦和のようなケースというわけではない。鉄道が明治5年(1872)に走り始めて以来、東西南北を最初に付けた駅は栃木県の西那須野駅である。日本鉄道奥州線(現東北本線)が明治19年(1886)に開業した那須駅を同24年に改称したもので、その理由は開業時の那須野村が同22年の町村制で西那須野村に改称したのに合わせたものらしい。

村名が西那須野村になった2年後の改称であるが、最初に駅が設けられる場合も改称の場合も、このように村名に合わせたものが多く存在する。たとえば東京都内でも東村山駅(東村山市)は、駅が設置された時の自治体名が北多摩郡東村山村であったことによる。

この村は明治22年(1889)の町村制施行の際に野口、廻り田(めぐりた)、久米川(くめがわ)、大岱(おんた)、南秋津の五村が合併、村山地方の東に位置することからの命名だ。明治期から東西南北を名乗っていた駅を調べてみると、南和(なんわ)鉄道(現JR和歌山線)の北宇智(きたうち)駅もその類で、古代からの地名・宇智の北方に位置することから命名された北宇智村(現五條市)による。

■「同じ名前の村」を区別するための東西南北

このように明治の町村制で誕生した「行政村」の名前は地域のどこに位置するかを名乗るものが目立つが、それ以前の村(現在の大字)では、郡内に複数ある同名の村を区別するために付けられた東西南北もある。

たとえば多摩ニュータウンの西部に位置する八王子市の南大沢は南大沢村(町村制以降は由木(ゆぎ)村大字南大沢)にちなむが、江戸期は多摩郡柚木(ゆぎ)領大沢村で、明治十二年(一八七九)に郡区町村編制法による村名が設定された際、南多摩郡にもうひとつ、拝島領大沢村があったため南北を付けて北大沢村(現八王子市加住町)と南大沢村としたものだ。

西武新宿線の南大塚駅(現川越市。設置時は入間郡大田村大字南大塚)も同類で、地図で近くを探しても「北大塚」は見つからない。かつての北大塚村は同駅より10キロほども北西の坂戸市大字北大塚である。

■「今ある駅」と区別するための東西南北もある

もうひとつ、駅名の世界の特殊なケースとして、既存の駅名との混同を防ぐための東西南北がある。武蔵や摂津などの国名を付けて区別する例は本書で取り上げるが、国名によらず方角で区別する方法だ。

早期の例では明治44年(1911)に開業した東北本線の北白川駅(現宮城県白石(しろいし)市)がある。設置時は刈田(かった)郡白川村大字津田で、白川という村名は白石川に沿っていることから命名された。通常ならこの村名で白川駅とすべきところ、福島県には有力な城下町の白河駅があるため、これと区別するために北を冠したものである。

類似の駅名では大正9年(1920)に設置された信越本線の北塩尻駅(現しなの鉄道西上田駅)が挙げられる。所在地は大字上塩尻と下塩尻のちょうど境界に位置するためどちらを採用するわけにもいかず、しかも塩尻は県内の中央本線の主要駅として存在するので、塩尻駅より北東に40キロほど離れていることから「北」を付けたと思われる。

西武池袋線が武蔵野鉄道として大正4年(1915)の開業時に福岡県の鹿児島本線久留米駅との混同を避けて東久留米駅としたものも同様だ。自治体名は長らく北多摩郡久留米村(昭和31年から町)だったが、昭和45年の市制施行時に市名は既存のものを避ける行政指導(自治事務次官通達)により駅名に合わせて東久留米市としている。

北海道の千歳線でも同じ事情で命名された北広島駅(広島駅からは直線距離で約1240キロ)に合わせ、札幌郡広島町が平成8年(1996)に市制施行した際に北広島市となった。

■「東西南北」が付く駅には4つのパターンがある

類似しているが少し異なるのが常磐線の北小金(きたこがね)駅(現千葉県松戸市)だ。開業は明治44年(1911)であるが、所在地は東葛飾郡小金町大字小金で「北」を付けなければならない理由はない。ところがすでに存在していた東北本線の小金井駅(現栃木県下野市)があり、どちらも上野駅からの直通列車が走ることから、コガネとコガネイの聞き違いは目に見えている。

今尾恵介『駅名学入門』(中公新書ラクレ)
今尾恵介『駅名学入門』(中公新書ラクレ)

小金井駅から見ると北小金駅はほぼ南にあたるが、駅が水戸街道小金宿の北端に設けられたことから、南小金は不自然であることもあって北小金の駅名に落ち着いたのではないだろうか。これは私の推測だが、地元ではそのあたりの経緯を解明した方がおられるかもしれない。

まとめれば、①明治11年(1878)~12年にかけて行われた郡区町村編制法による村の再編で、同郡内の同名村が「東西南北」で区別され、それに従ったもの、②明治22年(1889)にできた「東西南北付き」の行政村名に合わせたもの、③他の同名駅との混同を避けるため、遠方ではあるが位置関係で「東西南北」を付けたもの、④著名な町の東西南北に位置することから命名したもの、の4種類に分けられそうだ。浦和のケースは④であるが、戦後に開業した駅はほとんどがこれであろう。

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今尾 恵介(いまお・けいすけ)
地図研究家
1959年横浜市生まれ。明治大学文学部ドイツ文学専攻中退。(一財)日本地図センター客員研究員、日本地図学会「地図と地名」専門部会主査を務める。『地図マニア 空想の旅』(第2回斎藤茂太賞受賞)、『今尾恵介責任編集 地図と鉄道』(第43回交通図書賞受賞)、『日本200年地図』(監修、第13回日本地図学会学会賞作品・出版賞受賞)など地図や地形、鉄道に関する著作多数。

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(地図研究家 今尾 恵介)

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