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なぜ「高輪ゲートウェイ」という駅名が誕生してしまったのか

プレジデントオンライン / 2020年4月3日 9時15分

山手線の新駅名「高輪ゲートウェイ」を発表したJR東日本の深沢祐二社長=2018年12月4日、東京都渋谷区 - 写真=時事通信フォト

3月14日に開業した山手線の新駅は、事前に駅名の公募が行われた。「高輪ゲートウェイ」は130位で、1位は「高輪」だった。なぜ「ゲートウェイ」が付いてしまったのか。地図研究家の今尾恵介氏は「国鉄時代にあった『駅名はこうあるべし』という思想が、今はなくなってしまった」という――。

※本稿は、今尾恵介『駅名学入門』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

■公募1位は「高輪」だったのに…

令和2年(2020)3月14日。山手線の駅(線路の戸籍上は東海道線)としては久々の新顔が誕生した。駅名の決定にあたってJR東日本は一般から公募を行った。開業の2年前の平成30年(2018)6月5日~30日の募集期間中に集まった駅名案は6万4052件(1万3228種類)にものぼっている。駅の建設地は広大な車両基地の跡地で、ここをJRは「グローバルゲートウェイ品川」と名づけて再開発を行っている。駅はその中心として位置付けられた。

駅舎は東京オリンピックのメインスタジアムである新国立競技場を設計した隈研吾(くまけんご)氏が手がけたが、障子の桟を思わせる枠組みに自然光が入る明るい空間で、これにより照明費を抑えるなどして環境に配慮したという。使用する木材は福島県古殿(ふるどの)町、宮城県石巻市などを産地とする国産を用いたそうで、東北地方の復興への貢献もアピールしている。

公募の締切から半年後の平成30年12月4日、駅名は「高輪(たかなわ)ゲートウェイ」に決定したことが発表された。ちなみに公募でダントツの1位だったのは「高輪駅」の8398件で、2位「芝浦駅」の4265件におよそ2倍の大差をつけている。件数では以下「芝浜」「新品川」「泉岳寺」「新高輪」「港南」などが続いたが、選ばれた「高輪ゲートウェイ」は130位のわずか36件であった。

■候補1位の「高輪」が「正統」な根拠

130位という下位の候補が選ばれたことが注目されて不満の声も目立ったが、当然ながら「命名する権利」を持っているのは、この駅を建設するJR東日本である。それに最初から最大票数を得た候補に決めるなどとは表明しておらず、公募はあくまで参考に過ぎない。この公募をもとに「選考委員会」で決めたというが、もちろん会社の事業なのでJR東日本が人選したものであろう。

JR東日本が発表したプレスリリースには次のような選定理由が掲げられた。

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この地域は、古来より街道が通じ江戸の玄関口として賑わいをみせた地であり、明治時代には地域をつなぐ鉄道が開通した由緒あるエリアという歴史的背景を持っています。

新しい街は、世界中から先進的な企業と人材が集う国際交流拠点の形成を目指しており、新駅はこの地域の歴史を受け継ぎ、今後も交流拠点としての機能を担うことになります。

新しい駅が、過去と未来、日本と世界、そして多くの人々をつなぐ結節点として、街全体の発展に寄与するよう選定しました。

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新駅の予定地は港区港南2丁目(「港南」は公募7位)で、この町名は昭和40年(1965)に命名された新しいものである。新駅エリアの以前の町名は芝高浜町(旧芝区高浜町)。かつては海面であったが、そこを昭和4年(1929)に「3号埋立地」として造成、同8年に新たに命名したものだ。そこから最も近い陸地は現在では高輪2丁目で、昭和42年(1967)までは高輪北町(きたまち)と車町(くるまちょう)にまたがったエリアだった。両町はいずれも江戸時代からの歴史がある。車町に高輪の文字は冠されていないが、運送業者にちなむこの町名が江戸時代に命名される以前は高輪の一部であった。候補第1位の「高輪」という駅名はこれだけ遡っても「正統」ということになる。

■田町駅の「田町」は消滅してしまった

ここで一休みして、高輪ゲートウェイの隣に位置する田町駅に注目してみよう。この駅は明治42年(1909)12月16日に開業した。ちょうど山手線の電車が烏森(からすもり)(現新橋)~品川~池袋~上野間および池袋~赤羽間の運転を始めた日で、電車専用の旅客駅として隣の浜松町駅と同日に開業している。蒸気機関車の牽引する旅客列車に比べて電車は加速性能が高く小回りが利くので、ここに限らず電車化した路線には沿線の利便性を高めるために新駅が多く設置された。

田町駅が開業した頃の所在地は東京市芝区田町1丁目で、田町は上高輪村から寛文2年(1662)に町奉行支配になったという古い町だ。駅名も自然に所在地名を採用している。東海道に沿った細長いエリアに田町1丁目から9丁目までが並んでいた。ところが昭和42年(1967)に住居表示法による住居表示で芝5丁目と三田3丁目の各一部に統合、消滅してしまったのである。

■今はなき「地名」を残した田町、原宿、御徒町

さて、山手線の駅である原宿駅は東京府豊多摩郡千駄ヶ谷村大字原宿に明治39年(1906)に設置された。東京市内になってからは渋谷区穏田(おんでん)3丁目で、ホームの一部は竹下町にかかっていたが、大正期に駅が移転する前の旧位置は原宿3丁目だ。ところが住居表示の「魔の手」はここにも及び、原宿駅の所在地は昭和40年(1965)に神宮前1丁目となった。この新町名は原宿と同様に歴史的地名である穏田と竹下町も含めた広いもので、とにかく「町を統廃合して丁目で分ける」という、まるで手段が目的化したような、歴史を顧みずに「合理的」であることを最優先する(実態はまったく合理的ではないが)地名政策のために、原宿という地名はいとも簡単に葬られた。

やはり「山手線の駅」である御徒町(おかちまち)駅の所在地も仲御徒町3丁目(そのすぐ東に御徒町3丁目が隣接)であったのが、やはり住居表示法後の昭和39年(1964)に御徒町が東上野と台東の各一部、仲御徒町が上野の一部となったために「御徒町」の地名は消滅している。

これほど住居表示法による町名の大改変が都心部で行われていたにもかかわらず、山手線の電車が走る路線の駅名は、この時期に1カ所も改められていない。特に山手線の駅名ともなれば影響力が大きく、長年にわたって定着しているという理由もあっただろうが、当時の国鉄当局の要路の役職にある人が、住居表示法による行き過ぎた町名変更を苦々しく思っていたと想像しても、それほど的外れではないだろう。いずれにせよ結果的に田町、原宿、御徒町の地名の「事実上の存続」に昔ながらの駅名が大きな役割を果たしたことは間違いない。

■「国鉄の駅名はこうあるべし」という強い思想

戦時中には軍需輸送にとって重要な私鉄路線が選ばれ、ほぼ強制的に買収されて国鉄の路線となった。その際に駅名をいくつも改めているが、たとえば昭和18年(1943)に買収されて富山港線となった富山地方鉄道富岩(ふがん)線(現富山地方鉄道富山ライトレール線)は高等学校前を蓮町(はすまち)、日満工場前を大広田(おおひろた)、日曹(にっそう)工場前を奥田と改め、同19年に買収で南武線となった南武鉄道では日本電気前を向河原(むかいがわら)、日本ヒューム管前を津田山、久地(くじ)梅林を久地に、同年に阪和線となった南海鉄道山手線(旧阪和電気鉄道)は臨南寺(りんなんじ)前を長居、我孫子観音前を我孫子町、百舌鳥(もず)御陵前を百舌鳥、葛葉(くずのは)稲荷を北信太(きたしのだ)、砂川園を和泉砂川にそれぞれ改称している。

概観すれば会社や工場の名称、神社仏閣名などから地元の地名(通称も含む)への変更であった。強制的な買収が戦時公債で行われたために戦後はそれが紙切れ同然となり、被買収会社にとっては結果的に「召し上げられただけ」となったが、その評価は措くとしても、人手も足りない非常時にもかかわらず駅名をこのように改めた背景には、「国鉄の駅名はこうあるべし」という強い思想もしくは何らかの規定があったことは間違いないだろう。すでに述べたように、少しでも乗客を確保するための駅名を求める私鉄の考え方とは根本的に違うのである。

■「私鉄」になって激変した命名センス

その国鉄も戦後42年を過ぎ、分割民営化されて「私鉄」になった。JRになって初の改称は民営化翌年の昭和63年(1988)3月13日のダイヤ改正時で、JR東日本管内では二枚橋が花巻空港(東北本線)、面白山(おもしろやま)が面白山高原(仙山線)、岩手松尾が松尾八幡平(はちまんたい)(花輪線)、龍ケ森が安比(あっぴ)高原(同)、JR九州では大坂間(おおさかま)が球泉洞(きゅうせんどう)、JR北海道では川湯が川湯温泉(釧網(せんもう)本線)にそれぞれ改称したのが最初である。北海道では「旭川」関連駅の読みを「あさひがわ」から「あさひかわ」に市名に合わせて変更したのも同日であった。ついでながら同時期に第三セクター会社に移管された路線では、より盛んに改称が行われている。

今尾恵介『駅名学入門』(中公新書ラクレ)
今尾恵介『駅名学入門』(中公新書ラクレ)

この改称から読み取れる傾向は「観光推進色」を前面に出したことだ。もちろん地元の意向もあるだろうが、これまで守り続けてきた旧国鉄の「駅名観」はその後着実に変化している。特にJR西日本は平成6年(1994)9月4日に全国で初めて「JR」を冠した駅を誕生させて話題になった。

その嚆矢となったのは関西本線の終点・湊町(みなとまち)駅の改称で、新駅名は「JR難波」である。駅の所在地は今も大阪市浪速(なにわ)区湊町で、難波は隣の中央区だ。地下鉄御堂筋線のなんば駅からは約450メートル、南海電鉄の難波駅からは650メートルほども離れているが、知名度が圧倒的に高い難波を名乗ることにより、この年に開通した関西空港線からのアクセス線としての優位性を南海電鉄(難波)と競う姿勢を鮮明にしたのである。かつての国鉄では考えられない発想だ。

■「稼げる会社」に変貌を遂げたJRだが…

JR付きの駅は今のところJR西日本に限られているが、奈良線のJR藤森駅が京阪本線の藤森駅近くに平成9年(1997)に新設、片町線では上田辺(かみたなべ)駅を改称してJR三山木(みやまき)駅となった。平成13年(2001)に近鉄京都線小倉駅に近い場所に奈良線のJR小倉駅が新設され、その後は同16年のJR五位堂(ごいどう)駅(近鉄大阪線五位堂駅近く)が続く。同20年にはおおさか東線の部分開業でJR河内永和、JR俊徳道(しゅんとくみち)(それぞれ近鉄奈良線・大阪線と連絡)、JR長瀬(近鉄大阪線長瀬駅の近く)の3駅が連続して設けられて一気に増え、東海道本線にJR総持寺(そうじじ)駅が平成30年(2018)に新設、さらにおおさか東線が新大阪まで延伸された同31年3月にはJR淡路(あわじ)駅(阪急淡路駅近く)、JR野江(のえ)駅(京阪本線近く)が加わって全部で11駅である。

新駅を他の私鉄の既設駅近くに新設することで沿線の利便性の向上が図られたのも確かであるが、これまでその私鉄を利用していた乗客を横取りしようとする私企業らしい戦略も見える。特に関西圏の旧国鉄ローカル線は、私鉄と並行しながら競争の気配も見えない「やる気のない」状態であったが、民営化後はそれらにも投資して複線化や駅の新設、利便性の高い運行系統の新設などで見違えるように変身させ、着実に既存私鉄の客を奪っているようだ。「稼げる会社」への見事な変貌であるが、その積極的な経営姿勢が平成17年(2005)4月の悲惨な福知山線の脱線事故(死者107人、負傷562人)の遠因になったとも指摘されている。

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今尾 恵介(いまお・けいすけ)
地図研究家
1959年横浜市生まれ。明治大学文学部ドイツ文学専攻中退。(一財)日本地図センター客員研究員、日本地図学会「地図と地名」専門部会主査を務める。『地図マニア 空想の旅』(第2回斎藤茂太賞受賞)、『今尾恵介責任編集 地図と鉄道』(第43回交通図書賞受賞)、『日本200年地図』(監修、第13回日本地図学会学会賞作品・出版賞受賞)など地図や地形、鉄道に関する著作多数。

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(地図研究家 今尾 恵介)

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