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「拙者は水戸藩の者でござる」というセリフにある大ウソ

プレジデントオンライン / 2020年3月27日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/stockstudioX

時代劇で、侍が「拙者は水戸藩の者でござる」などと名乗るシーンがある。だが、このセリフには大ウソがある。歴史研究家の河合敦氏は「当時使われていた言葉では分かってもらえない場合、あえて誤りと知りながら侍にしゃべらせることがある」という――。

※本稿は、河合敦『禁断の江戸史 教科書に載らない江戸の事件簿』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。

■時代考証で一番大変なのは言葉遣いの確認

最近、NHK時代劇の時代考証を担当することが増えた。時代小説を原作に脚本家が書いた台本をチェックするのが主な仕事だ。時代背景が間違っていないか、当時としてあり得ないような場面設定がないかなどを当時の文献や研究書などを片手に調べていく。中でも、一番大変な作業が、言葉遣いの確認である。

たとえば江戸時代のドラマなら、この時代に使われていなかった言葉をすべて拾い上げていくのである。そして、それらを江戸時代に使われており、なおかつ、いまの視聴者が耳にしても理解できる言葉に言い換えてあげるのである。この変換作業が一番の労力を要する。

とはいえ、すべてを入れ換えることは不可能である。たとえば、家臣が殿様に自分の意見を書面で述べることを台本では「建白(けんぱく)」と表記してあった。だが、この言葉の使い方は正しくない。なぜなら「建白」は明治初年になってから本格的に使われはじめた語句だからだ。とはいえ、当時使われていた「上書」という言葉だと、とても現代人には理解できないだろう。

同じように「財政」という言葉、これも明治時代になってから用いられた語だ。とはいえ、江戸時代の「勝手向き」などと言っても、わかってもらえない。そんなときは、あえて誤りだと知りながら「建白」や「財政」という言葉を侍にしゃべらせるしかない。

■江戸時代に「藩」という言葉はなかった

このように時代考証はけっこう骨が折れる仕事なのだ。ちなみにこの仕事をして気づいたのが、脚本家たちが当たり前のように台本に書き込んでくる語句があるということだ。その代表が、「~藩」、「藩士」、「藩邸」というワードだ。

おそらく読者諸氏も、「藩」という用語は、江戸時代に広く使われていたと考えているだろう。なぜなら、ふつうに教科書にも登場してくるからだ。たとえば中学校の教科書を見ると「幕藩体制の始まり」(『社会科 中学生の歴史』帝国書院)、「幕藩体制の確立と鎖国」(『中学社会 歴史~未来をひらく』教育出版)といったように、項目の一つになっている。

ちなみにこの「幕藩体制」という言葉だが、幕とは将軍を頂点とする中央政権である江戸幕府のこと。そして藩とは、藩主を頂点とする地方政権をさしている。この将軍と藩主(大名)は主従関係で結ばれ、ともに強い領主権を持って土地と領民を支配する。このシステムを幕藩体制と呼ぶのである。

しかし、江戸時代の人びとは「藩」という語を基本的に使っていないのである。これについて明記している高校日本史の教科書もある。たとえば三省堂の『日本史B』には「当時、藩という呼称はなく、国や城下町の名、藩主の姓などでよんだ」とある。

だから「長州藩」とか「土佐藩」という名称を江戸時代に人びとにいっても、その意味は理解できなかったはず。そもそも藩という語は中国由来の言葉だ。古代中国の諸侯たちが、自分の領国を藩屏(はんぺい)と称したのが始まりで、日本でも江戸時代の半ばあたりから一部の学者が使うようになったものの、一般にはまったく広がっていかなかった。

■「鎖国」はドイツ人の言葉を訳しただけ

では、いつから「藩」という語を当たり前に使うようになったのか。

じつは、明治政府が幕府から没収した土地である府や県と区別するため、大名の領地とその支配機構を「藩」と公称して以後のことなのだ。つまり明治時代になってから一般に広がり、あたかも江戸時代から使われていたように定着してしまったのである。

もちろん、「藩主」、「藩士」、「藩邸」などといった言葉も使われていない。時代劇に出てくる「拙者(せっしゃ)は水戸藩の者でござる」なんてセリフは大ウソなのだ。

さらにいえば、「鎖国」という語も、江戸時代はほとんど使われていない。これも高校日本史の教科書『詳説日本史B』(山川出版社)には、「ドイツ人医師ケンペルはその著書『日本誌』で、日本は長崎を通してオランダとのみ交渉をもち、閉ざされた状態であることを指摘した。1801(享和元)年『日本誌』を和訳した元オランダ通詞志筑忠雄(しづきただお)は、この閉ざされた状態を“鎖国”と訳した。鎖国という語は、以後、今日まで用いられることになった」とある。つまり、江戸時代後期になって誕生した言葉なのだ。

もう一つ紹介しよう。『日本史B』(実教出版)には「幕府の直轄領は俗に天領といわれるが、これは明治時代以後に一般的に使われるようになった語である。江戸時代には、御料といわれることが多かった」と記されている。

このように、江戸時代に当然存在したと思っている言葉が、じつは当時、使われていなかったというケースは少なくないのである。

■高年収、しかも世襲制の「鳥見」

鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府。時代がすすむにつれて覚えるのが面倒になるのが、政権の職制(政治組織)だ。教科書を見ると、大老、老中、若年寄、三奉行、京都所司代、大坂城代、大目付、側用人(そばようにん)など江戸幕府の多くの役職が登場する。でもこれ以外にも膨大な役職があるのだ。しかもちょっといまの常識では考えられないような珍妙な職が少なくない。

「鳥見(とりみ)」もその一つだ。名称を聞いても何を業務としているのか想像すらつかないだろう。でもこの役職、字面(じづら)のまんま「鳥を見張る」のが仕事なのである。

幕府を創設した徳川家康は生涯鷹狩りを好んだ。その影響で歴代将軍の多くが、この鷹狩りという遊び(スポーツ)に興じた。江戸近郊には将軍一人のために設けられた鷹場がいくつもある。とくに品川、目黒、中野、葛西、戸田、岩淵に置かれた鷹場を見張るのが「鳥見」の主な役割だった。

鳥見役人たちは、鷹の標的になる雀や鴨、鶴や雁(かり)の動静や飛来状況を常にチェックするとともに、密猟者の警戒にあたった。もしそうした不届き者が現れたら、これを逮捕するのも彼らの重要な役目であった。しかも鳥見は世襲制であった。組織の頂点に組頭(二名)がいて、その下で二十三名の鳥見役が仕える構造になっている。給料はそれほど悪くない。八十俵五人扶持で、そのほかに金十八両が支給される。

鳥見の業務としてはそのほかに、鳥もちを使って毎日十羽の雀をつかまえるという仕事があった。これは、将軍様が使用する鷹たちの餌を確保するためである。雀の捕獲は、鷹場にかぎらず、さまざまな場所でおこなわれた。ときには、他藩の大名屋敷の敷地まで、雀を追いかけて入り込むこともあった。

■表向きは雀の捕獲、“裏の顔”は…

「幕府の鳥見である。雀が屋敷に入り込んだので、中へ入れさせてもらうぞ」

そういえば、相手は公儀ゆえ、諸藩の役人はとても拒否できないのである。

「わざわざ大名屋敷の中に入った雀を捕まえる必要などないではないか。雀なんて、どこにだっているはず」そう思うのは、浅はかである。じつは鳥見役人にとっては、雀取りを名目にして屋敷地へ侵入することこそが、真の目的なのだ。屋敷の構造がどうなっているか、何か怪しい策謀をたくらんではいないか、そういった諸々のことを探索するために、大名屋敷にわざと入りこむのである。

いわば、現代の会社でいえば監査役、飲食店でいえば保健所の職員のようなものといえる。つまり、隠密(おんみつ)の仕事も兼務していたのである。さらに雀を取るといっては、農村や神社、仏閣へも入り込み、やはり隠密行動を展開していった。地理や地形を詳細に調査して、地図をつくったともいわれている。

いずれにしても、こうした権限を持っていたから、大名屋敷へ入るぞと脅して、屋敷の者から賄賂(わいろ)をせびったり、大きな音を出して雀を驚かせたと難癖(なんくせ)をつけては、庶民から金をせびりとったりした。だから鳥見の評判はすこぶる悪かった。

また、先に述べたように、鳥見は一日十羽の雀捕獲がノルマだったが、それ以上の収穫があったときは、雀を他藩へ売りつけて、自分の懐へおさめていたといわれる。このように鳥見はとてもおいしい役職だったのである。

■幕臣にとっては最悪の“甲府転勤”

いっぽうでおいしくなかったのが、甲府勤番への配置替えであった。

河合敦 『禁断の江戸史~教科書には載らない江戸の事件簿~』(扶桑社)
河合敦『禁断の江戸史~教科書には載らない江戸の事件簿~』(扶桑社)

甲府勤番は享保九年(一七二四)に創設された。この年、甲府城主の柳沢吉里(よしさと)が大和国郡山へ転封となり、甲府を中心に甲斐国は幕領(幕府の直轄地)になった。そのためここを管理・支配する職が必要になったのである。こうして甲府勤番という組織が誕生したのだ。勤番支配(定員二名)を頂点に、組頭(定員二名)、勤番士(定員百名)、与力(定員十名)、同心(定員五十名)で構成された。

幕臣(旗本・御家人)は物価が高い江戸に住んでいたが、そのうち百数十人を甲府勤番として物価の安い地方に飛ばせたので、幕府の経費節減対策にもなった。

江戸時代、甲斐国は難治の国とされた。米倉騒動、太桝(ふとます)騒動、郡内(ぐんない)騒動とたびたび農民たちが一揆を起こしている。郡内騒動のさいには、数千の農民が甲府城に襲来、甲府勤番は他藩に助けを求めてどうにか農民たちを鎮撫(ちんぶ)した。そのうえ荒々しい博徒たちが、農村に暗然たる力を持っていた。

さらに、土地も山がちで痩せていて、華のお江戸から百キロ以上も隔たっている。しかも一度、甲府勤番士に任命されたら、家族を伴って移住しなければならず、二度と江戸へ戻ってこられない。そんな訳で幕臣は誰もが甲府への赴任を嫌がるので、代わりの者がいないのだ。

だから、幕府から甲府勤番への打診を受けた幕臣は、あらゆるツテをたどって幕閣に嘆願運動を展開する。病気や老父母の世話などを理由にして、なんとしても甲府行きを免まぬがれようとした。そんなことから、同地へ配属される幕臣は、江戸で役職をもたない、あるいは失脚したり失態を犯した人間ばかりになってしまった。甲府勤番士になった者の中には、悲嘆のあまり自殺したり精神を病んだりする者が少なくなかったというからなんとも恐ろしい役職である。

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河合 敦(かわい・あつし)
歴史家
1965年、東京都生まれ。早稲田大学大学院卒業。高校教師として27年間、教壇に立つ。著書に『もうすぐ変わる日本史の教科書』『逆転した日本史』など。

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(歴史家 河合 敦)

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