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100万人を追い詰めたのに「ダンケルクの奇跡」を許したドイツ軍の事情

プレジデントオンライン / 2020年3月31日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/MarkRubens

英仏軍をダンケルクの港まで追いつめたナチスドイツ。しかし、絶好の攻撃目標を前にヒトラーは停止命令を下す。現代史家の大木毅氏は「英仏軍にとっては、奇跡というしかない事態だった」という――。

※本稿は、大木毅『戦車将軍 グデーリアン』(角川新書)の一部を再編集したものです。

■ナチス・ドイツに翻弄される連合国軍

5月15日、ムーズ川沿いのフランス軍戦線は崩壊した。フランス軍は、時々刻々と変化する戦況についていくことができず、ドイツ装甲師団を押しとどめられなかったのだ。

グデーリアンは、「自ら機動を続け、かつ敵にも流動的な状況を強いているかぎり、安定した戦線を築くことを妨害し得る」と発言したことがある。そのグデーリアンの言葉のままに、連合軍は翻弄されていた。

撃破されたフランス戦車隊
撃破されたフランス戦車隊(出典は末尾に記載)

そうした連合軍の混乱を象徴しているのは、機甲部隊の運用だった。当時、フランス軍は味方戦線が突破された際に反撃に出るための兵力として、「機甲予備師団」4個を保有していた。

今こそ、この機甲予備師団を投入して、ドイツ装甲部隊に痛打を与える時機のはずであったが、結局のところ、これらは五月雨式の運用をされてしまったのである。

まず、5月14日、フランス第2軍は、予備の第21軍団に第3機甲予備師団を加えて、反撃に出ようとした。ところが、ドイツ軍の攻撃を受けた前線の将兵が敗走してくるのをみた第2軍は、攻撃を中止させる。

第3機甲予備師団は、集中打撃を加えるのではなく、防御線支援に分散配置されてしまった。

■機甲戦力の対独優位を活用できなかった

同日夜、仏第9軍も第1予備機甲師団を先頭に立てて反撃に出ようとしたものの、失敗に終わった。

第1予備機甲師団は、翌朝、燃料補給中のところを、ドイツ第15自動車化軍団麾下の第7装甲師団(エルヴィン・ロンメル少将指揮)に捕捉され、大損害を被ったのだ。

また、第2機甲予備師団に至っては、総司令部が場当たり的な指示を出したために、各地に分散投入され、威力を発揮できなかった。

今日ではよく知られているように、実は、連合軍の機甲戦力はドイツ軍に優っていた。

1940年5月10日の「黄号」作戦発動時におけるドイツ軍の保有戦車数は2439両だったのに対し、フランス軍だけで3254両の戦車を運用できたのである。

質的にも、たとえばフランス軍のソミュアS35戦車は重装甲を誇り、ドイツ軍の対戦車兵器でこれを撃破することは困難だった。にもかかわらず、フランス軍は機動戦一般に関して後れを取っていたから、ひとたび戦闘が流動的になると対応できず、質と量における機甲戦力の優位を活用できなかったのだ。

当時、53歳の年齢を押して従軍していたフランスの歴史家マルク・ブロックは断じている。「戦争の最初から最後まで、フランス軍のメトロノームは、常に数テンポ遅れていた」。

■命令違反、単独行動を叱責される戦車将軍・グデーリアン

グデーリアンと麾下第19自動車化軍団は、かかる彼我の能力の格差に乗じて、ひたすら前進していた。だが、5月17日早朝、クライスト装甲集団司令官とのあいだに、またしても摩擦が生じる。

モンコルネの野戦飛行場に到着したクライストは、出迎えたグデーリアンを、命令違反と単独行動のかどで激しく叱責した。

装甲集団はその前日に、第19自動車化軍団は停止し、オワーズ川にかかる橋を占拠するための威力偵察部隊のみを先行させよとの命令を発していた。

ところが、それが到着した17日午前0時45分には、第19自動車化軍団は指定された停止線より30キロも西に進出していたのである。

従って、クライストの命令は、状況にそぐわぬものでしかないと思われた。けれども、彼の背後にいたのはヒトラーであったから、ことは深刻だった。

5月16日、クライスト装甲集団が西に突出していることを知ったヒトラーは、連合軍が南から側面攻撃してくることを恐れ、装甲部隊を停止させて、態勢を整えよと命じたのだ。

この総統の指示が、A軍集団からクライスト装甲集団を経て、第19自動車化軍団に下達されたのである。

■戦車将軍・グデーリアン、指揮権を奪われる

しかし、クライストに叱責されたグデーリアンは黙っていなかった。

「最初の嵐が過ぎたのち、一息置いてから、自分を解任してくれるように願い出た。フォン・クライスト将軍はたじろいだものの、うなずくと、指揮系統上で次席の将軍に指揮権を委譲するよう指示した」(『電撃戦』)。

これによって、第2装甲師団長ルドルフ・ファイエル中将が、第19自動車化軍団の指揮を執ることになったのだ。

一種の「統帥危機」ともいうべき事態であった。マンシュタインの構想通りに、装甲部隊を作戦的に運用し、決勝を得ようとするグデーリアンと、旧来の軍事常識に囚われ、側面掩護を案じるヒトラー以下の上層部との深い亀裂が露呈したのである。

さりながら、アルデンヌ突破とスダン攻略の立役者であるグデーリアンを、表舞台から外しておくわけにはいかない。

■「威力偵察」の前進継続案に飛びつく

17日の午後、A軍集団司令官ルントシュテット上級大将の委託を受けて、グデーリアンのもとにやってきた第12軍司令官ヴィルヘルム・リスト上級大将は(5月15日正午を以て、クライスト装甲集団は、A軍集団直属から第12軍麾下に移されていた)、慰留に努め、従来通りに第19自動車化軍団の指揮を執るように説得した。

このとき、リストはもう一つ、譲歩を示した。このまま、軍団の司令所を動かさずにおくのなら、「威力偵察」というかたちで前進を継続してもよいとしたのである。グデーリアンは、リストの提案に飛びついた。

ちなみに、同じ17日、フランス軍が持っていた最後の機甲予備師団が、第1装甲師団を攻撃、ドイツ軍を窮地に追いやるという事態が生起した。

この第四機甲予備師団は、1930年代初頭から、軍隊の機械化こそ重要であると唱えてきた大佐に指揮されていたのだ。彼の名はシャルル・ド・ゴール、のちにフランス大統領となる人物である。

しかし、この、ついに機甲予備師団の威力を発揮したかと思われた攻撃も、呼び寄せられたドイツ空軍の地上攻撃を受け、決定打となるには至らなかった。

■ハルダー陸軍参謀総長、ヒトラーを説得し西方突進へ

5月17日、ハルダー陸軍参謀総長は、クルーゲ上級大将率いる第4軍のもとにすべての快速部隊を集中し、ヒトラーの承認がありしだい、可及的速やかに西方に突進させると決断した。

連合軍をソンム川の線で南北に分断し、北部ベルギーに身を乗り出したかたちになっている敵主力を英仏海峡沿岸部で包囲撃滅するのである。

この決定に従い、B軍集団の麾下にあって、オランダや北部ベルギー方面で連合軍を牽制していた第16ならびに第39自動車化軍団も、5月18日にA軍集団指揮下に移ることになった。

これら、2個自動車化軍団は、翌19日に、第15自動車化軍団長ヘルマン・ホート歩兵大将の麾下に入り、「ホート装甲集団」を形成した。

5月19日、ヒトラーを説得したハルダーは、ついに西方への突進を命じる。同日、第1装甲師団は、たちまちアミアンを占領した。第2装甲師団も、1日で90キロを走破、5月21日午前2時には、ソンム河口の町アブヴィルで英仏海峡に到達した。

鋼鉄の楔が敵戦線に打ち込まれ、連合軍は分断されたのだ。マンシュタインの構想が実現された。これによって、ベルギー軍、イギリス遠征軍、フランス第一・第7軍、さらに撃破された第9軍の残存部隊が、巨大な包囲網のなかに閉じ込められたのである。

■ドイツ装甲部隊の側面に迫る脅威、英軍の反撃

先陣を切ったグデーリアンは、包囲された連合軍の補給源にして、最後の脱出口となっている英仏海峡の諸港を22日に攻撃すると決定し、麾下にあった3個装甲師団それぞれに目標を割り当てた。第1装甲師団はカレー、第2装甲師団はブーローニュ――そして、第10装甲師団がダンケルクを攻略するのだ。

このまま、グデーリアンの攻撃が発動されていたなら、連合軍は退路を失い、潰滅の憂き目に遭うはずであった。

ところが、5月21日、ドイツ装甲部隊の側面に脅威が生じる。イギリス軍が、ドイツ軍の対戦車砲では歯が立たない重装甲のマチルダⅡ型歩兵戦車を先頭にして、反撃に転じたのである。

矢おもてに立たされた第7装甲師団と武装SS「髑髏」自動車化歩兵師団は、一時潰走しかけたものの、陣頭に立ったロンメル第7装甲師団長は、有名な88ミリ高射砲(ドイツ軍では、口径表示にセンチを使用するため、正確には「八・八センチ高射砲」であるけれども、この兵器は世界的に「八八ミリ」で通称されている)を対戦車攻撃に使用し、英軍を撃退した。

■英軍を撃退してもヒトラーは敏感に反応

かくのごとく、側背の危険は排除されたが、このアラス反撃は、ドイツ軍首脳部を動揺させた。かねて危惧されていた通り、装甲部隊がつくりあげた回廊の側面が強力な攻撃にさらされているものと判断したのだ。

ヒトラーは敏感に反応し、5月22日午前1時30分にA軍集団司令部に電話連絡を入れさせた上で、OKW長官ヴィルヘルム・カイテル上級大将(1938年11月1日進級)を派遣し、アラスの南北および西方を「投入可能なすべての快速部隊」で固めるように命じさせた。

グデーリアン麾下の諸師団も、この命令のあおりを食って、海峡諸港攻撃を24時間延期させられることになった。

続いて、攻撃部隊を半分の兵力に削減し、ダンケルクをめざしていた第10装甲師団を装甲集団予備として控置せよとの命令が下達させる。

グデーリアンとしては、絶好の攻撃目標を眼の前にして、切歯扼腕するばかりだった。

■ダンケルク目前での停止命令

結果として、ブーローニュとカレーの奪取には、よりいっそうの時間と努力が必要とされることになる。

大木毅『戦車将軍グデーリアン 「電撃戦」を演出した男』(KADOKAWA)
大木毅『戦車将軍グデーリアン 「電撃戦」を演出した男』(KADOKAWA)

5月22日の正午になって、第19自動車化軍団はようやく攻撃を実行したが、第2装甲師団がブーローニュを占領できたのは、3日後の25日だった。第1装甲師団のカレー攻略も26日まで長びく。この間に連合軍は、最後の港であるダンケルクの防備を固めていた。

それでも、5月24日には、グデーリアン軍団の先鋒は、ダンケルクまであと15キロの地点まで迫っていたのである。

この強力な装甲部隊がダンケルクに突入すれば、弱体な敵守備隊はひとたまりもなく粉砕されてしまうだろう。包囲された100万の連合軍は退路を失い、降伏するほかなくなる。

だが、連合軍にとっては、奇跡というしかない事態が訪れた。第19自動車化軍団ほかの海峡沿岸部にいたドイツ装甲部隊は、停止を命じられたのである。

【出典】
・Heinz Guderian(Hrsg.), Mit den Panzern in Ost und West. Erlebnisberichte von Mitkampfen aus den Feldzugen in Polen und Frankreich 1939/40, Berlin et al., 1942.

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大木 毅(おおき・たけし)
現代史家
1961年生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学(専門はドイツ現代史、国際政治史)。千葉大学ほかの非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師などを経て、著述業。著書に、『「砂漠の狐」ロンメル』(角川新書、2019)、『ドイツ軍事史』(作品社、2016)ほか。訳書にエヴァンズ『第三帝国の歴史』(監修。白水社、2018─)、ネーリング『ドイツ装甲部隊史 1916-1945』(作品社、2018)、フリーザー『「電撃戦」という幻』(共訳。中央公論新社、2003)ほかがある。

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(現代史家 大木 毅)

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