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越後長岡藩「最後のサムライ」が守り通したこと

プレジデントオンライン / 2020年5月4日 11時15分

2020年秋公開の映画『峠 最後のサムライ』では、俳優・役所広司が河井継之助を演じる。Ⓒ2020『峠 最後のサムライ』製作委員会

■世界情勢に通じ「武士の世の終わり」を早くから見抜いていたが

幕末期に越後長岡藩家老を務めた河井継之助は、世界情勢に通じていたうえ、近代思想に基づく独自の構想を実践できる卓抜した行動力の持ち主でした。もし生まれた場所が違っていたら、彼が坂本龍馬のような役割を演じていたかもしれません。しかし河井は、「譜代大名の家老」という立場を生き切ります。幕末の動乱のなか、徳川幕府を「賊」呼ばわりする薩長の新政府とは距離を置き、東西間の武装中立を画策。それが叶わぬとみるや新政府軍と戦い、武士としての義に殉じました。

河井は長岡藩の中級藩士の家の生まれ。若年から度々遊学し、31歳で家督を継いだ後も、備中松山藩の財政を立て直した儒家・陽明学者の山田方谷に学びました。帰藩した後は藩主・牧野忠恭の信頼を得て、藩政改革と西洋式の兵制改革を進めます。河井は「民を安んじる」ため、近代兵器による武装中立という路線を選んだのです。そして慶応4年、戊辰戦争が起こったその年に家老になり、最後は軍事総督として佐幕派・奥羽越同盟軍を率います。

同年5月、会津藩“討伐”を目指す新政府軍が長岡に近い小千谷に陣取ると、河井は会津との和睦を勧めるため、ほとんど身一つで新政府軍の本営に出向きます。しかし、新政府軍には嘆願を受け容れる余裕というか、器量がありません。河井は決断を迫られます。降伏して会津討伐の尖兵となるか、それとも譜代藩の意気地を見せるのか。

河井と同時代を生きた福沢諭吉は、旧幕臣でありながら明治政府の要職についた勝海舟らを批判した「瘠我慢の説」で、「殺人散財は一時の禍にして、士風の維持は万世の要なり」と断じます。いくさは悲惨だが、いくさを避けてサムライの精神を失うことのほうが国にとってダメージが大きいというのです。これこそが河井の考えでした。

河井から見れば「不義」である新政府におもねることは、武士の道として到底できない。「後の世の人間に対し、武士とはどうゆうものか知らしめる」(映画『峠 最後のサムライ』台本より)ため新政府との戦いを選びます。

■新政府と戦っても勝ち目がないことはわかっていた

河井という人物は、早くから「武士の世の終わり」を見抜き、汽船を購入して藩士の次・三男に商売を学ばせ貿易をさせようと口にする現実感覚の持ち主。新政府と戦っても勝ち目がないことはわかっていたでしょう。しかし、目先の利ではなく長岡藩の士気を示す道を突き進みます。長岡藩士などわずか数千の同盟軍が5万といわれる新政府軍と対峙した北越戊辰戦争は凄惨を極め、長岡城下は焼け野原になりました。このことで河井は批判を浴びますが、長岡再興のために尽くしたのは、彼と志を共にした盟友たちです。河井の評価もそれにつれて回復しました。

司馬遼太郎は河井を主人公とした小説『峠』のあとがきに、「幕末期に完成した武士という人間像は、(略)その結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえる」と書きました。司馬さんの言う「人間の芸術品」河井にぜひ会ってみたい。そう念じて私は映画『峠 最後のサムライ』を撮りました。河井の美しい生き方が、少しでも画面に映り込んでいればと思います。

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小泉 堯史(こいずみ・たかし)
映画監督
水戸市出身。黒澤明監督の助監督を長く務め、デビュー作の『雨あがる』(黒澤明脚本)でヴェネチア国際映画祭緑の獅子賞を受賞。2020年秋に『峠 最後のサムライ』の公開を控える。

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(映画監督 小泉 堯史 構成=井手ゆきえ)

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