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「武漢ウイルス」と中国を非難する人に知ってほしい日中秘史

プレジデントオンライン / 2020年3月29日 11時15分

武漢=2020年3月17日 - 写真=Avalon/時事通信フォト

■「中国語を話していると日本人が避けて通る」

新型コロナウイルスが世界を震撼させている。現在、非常事態となっているのはイタリア、スペイン、アメリカなど欧米各国だが、つい1カ月前まで、主戦場は中国だった。中国で最初に発生したのは昨年末といわれているが、中国政府が情報を隠ぺいし、初動を誤ったことが原因で世界に感染を広げた“張本人”だとして、中国は世界から非難を浴びている。

その影響もあり、欧米では中国人を含めた「アジア人」差別が広がっている。欧米人から見れば、中国人と日本人、韓国人の区別はまったくつかない。

その同じアジア人同士である日本人の間にも、中国人への差別や偏見はじわじわと広がっているように感じる。日本では欧米のような露骨な差別や事件はあまり起きていないが、知り合いの在日中国人は「こういう事態になったら中国にも帰れないし、日本にいても肩身が狭い。友だちと中国語を話しながら歩いていると、私がマスクをしているのに日本人が避けて通る」と小声で話していた。

新型コロナ問題により、実際に日本でどれくらい嫌中感情が高まっているのか、正直なところよくわからない。1月下旬に武漢が封鎖された際、日本から中国にマスクなどの支援物資が送られ、中国政府や中国人から感謝されるなど心温まる交流もあったが、ネット記事のコメント欄やSNSどには、相変わらず誹謗や中傷があふれている。中国の記事を書くことが多い筆者自身も、最近は頻繁に心ない言葉が投げかけられる。

■中国に取り残された数万人の日本人を助けた人物がいた

むろん、最初に感染者が発見され、感染が拡大したのが中国であることは確かだ(感染源について諸説あるが、現時点で真偽は分からない)。また、目に見えないウイルスへの恐怖から、根拠のないデマなども起こっているが、日本人に限らず、「中国人だから」、「○○ウイルス」といった国家や民族によるレッテル貼りをすることは、ヘイトスピーチにつながる危険性があると感じている。

加藤徹、林振江『日中戦後外交秘史 1954年の奇跡』(新潮社)
加藤徹、林振江著『日中戦後外交秘史 1954年の奇跡』(新潮社)

そんななか、筆者は『日中戦後外交秘史 1954年の奇跡』(加藤徹、林振江著、新潮新書)という一冊の本と出合った。帯には「日中がまだ『戦争状態』だったころ 一人の中国人女性が羽田空港に降り立った。」とある。即座に思い浮かぶ女性はいなかったが、ページをめくってみると、そこには「李徳全(りとくぜん)」という名前があった。

筆者は数年前にたまたまこの女性の存在を知る機会があったが、日本での知名度はほぼ皆無といっていいだろう。日本の中国関係者の間でも、知名度は高いとはいえない。読んでみると、中国でも実はあまり知られていないと書かれていた。

だが、この女性は日中戦争(1937年~1945年)からわずか9年後の1954年、まだ日中に国交がない時代、幾多の困難を乗り越えて、共産圏の国家から初めて来日し、中国に残された数万人の日本人の引き揚げに尽力した、いわば「中国のシンドラー」といえる人だという。

■無知は罪ではないが、差別につながることがある

この女性や日中双方の外交関係者の粘り強い努力がなければ、中国に取り残された日本人は、戦後、母国に帰国することはできなかった。帰国できた日本人の多くは李徳全に心から感謝したという。本書は李徳全を始め、日本人引き揚げに関わる人々を、日本側からだけでなく、中国側の観点からも描いた貴重なノンフィクションだ。

読み進めていくうちに、日中に関する歴史を自分があまりにも知らなかったと痛感した。無知は罪ではないが、誤解や偏見につながり、知らず知らずのうちに差別にもつながっていくかもしれないと思った。そして「国境」「民族」「平和」などについて考えさせられることが多い昨今、ぜひ、多くの日本人に読んでほしいと思う。

李徳全は清朝末期、牧師の家に生まれた。昔の中国では珍しく西洋式の教育を受け、英語も得意だったという。敬虔なクリスチャンで、中国の大物軍人政治家である馮玉祥(ふうぎょくしょう)と結婚した。馮玉祥についても、日本では耳なじみがない人が多いと思われるが、一時は国民党の蒋介石と中国のトップの地位を争ったほどの人物であり、中国では有名だ。

新中国建国(1949年)後、李徳全は女性として初めて中国の閣僚(衛生部長=日本の厚生労働大臣に相当)に就任。中国の赤十字社である「中国紅十字会」の会長も兼任した。その頃、日本の首相は吉田茂だった。

■「嫌中」の時代に日本人の引き揚げに尽力した

当時、日本が国交を結んでいたのは台湾の中華民国であり、中国ではなかった。戦争直後であり、「嫌中」が当たり前の時代、中国に残る日本人の帰還を望む日本では、人道主義に立つ赤十字というチャンネルを使い、日本赤十字社の社長が中心となって中国側に働きかけた。そこで登場したのが李徳全だ。背後には、毛沢東や周恩来、そして、知日派として知られる廖承志(りょうしょうし)という人物がいた。

ただの感動物語というだけではない。日中双方には外交的にさまざまな思惑があった。日本にとってはもちろん人道的な問題が第一だが、中国側には日本を突破口として、国際社会(特に西側諸国)から一人前の国家として承認してもらいたいという目的があった。温厚な女性であり、クリスチャンの李は、そんな中国側の狙いを背負うのにうってうけの人物だった。

日中双方が北京で会談を行った結果、帰国者を乗せた帰国船が次々と帰還。約2万6000人以上が、生きて再び日本の土を踏むことができた。しかし、数々のトラブルにも見舞われ、帰国船は途中で打ち切られてしまう。残った数千人の日本人の帰還をどうするか、という議論とともに、持ち上がったのが李の来日だった。

■多くの日本人に歓喜の声で迎えられた

本書の後半では、李の14日間に渡る日本訪問の舞台裏や詳しい行程がドキュメンタリー・ドラマのように展開されていて、おもしろい。本書で描写される1954年の日本は、まだテレビ放送が始まって1年しかたっておらず、東京タワーも、東海道新幹線もなかった。日中間には国際線の飛行機もなく、李の住む北京から東京にやってくるのには、陸路で香港まで行き、そこから飛行機に乗るため、なんと1週間もかかったそうだ(現在は直行便で約4時間)。わずか50年弱で、日本も中国も、ずいぶん変わったものだと驚かされる。

クライマックスは、来日の際、李が持参してきた「戦犯名簿」を読み上げ、日本人戦犯の釈放を発表するところだ。これは大ニュースであり、親族が生きているかも分からず、心配していた家族を始め、多くの日本人に歓喜の声で迎えられた。そのときのことは、2008年11月30日に放送されたNHKのドキュメンタリー番組「“認罪”~中国 撫順戦犯管理所の6年~」の中でも紹介されているという。

李の来日は、新中国が日本の戦争責任の問題に一区切りをつけるという象徴的な意義があった。

本書を読んで驚いたことは数々あるが、そのひとつは、李が日本の行く先々で大歓迎を受けたことだ。当時、日本と中国は国交がない。その意味では、今の日本と北朝鮮のようなもの、と言い換えてもいいのかもしれない。共産国家・中国からの要人来日を成功させることは、双方にとって想像を絶する苦労があった。

そんな半世紀近く前の知られざる「秘史」を読むと、外交の仕方、民間人のつき合い方として、参考になることが多くある。

■特定の国に怒りをぶつけても何も生まれない

年間1000万人近い中国人が来日し、日本全国を自由に旅行し、双方の情報を瞬時にネットでチェックできるようになった現在の日中両国は、当時とは比較できないほど変化し、前進した。しかし、交流は増えたものの、政府間の軋轢がなくなったわけではなく、相互理解が非常に進んだというわけでもない。ネットの時代になり、情報の伝達スピードは速くなった反面、正確に、誤解なく他者に伝えることはむしろ難しくなった。間違った情報を信じ、それに流されてしまうことも多い。

そんな時代に本書を読み、改めて、日中間の先人たちの苦労を思い知った。そして、未知のウイルスに立ち向かうという厳しい状況でも、必ず道は開ける、ということを改めて実感し、前向きな気持ちになれた。

新型コロナ騒動が浮上して以降、メディアに流れる情報の大半がこの問題で占められ、少し前まではそのほとんどが武漢に関する内容だった。医学的な情報に疎い自分も含め、多くの人は新型コロナウイルスのことが「よく分からない」から、不安になる。不安が増大すると、どこか特定の国や民族に怒りやストレスをぶつけようとしてしまうかもしれないが、そこから生産的なものは何も生まれない。

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中島 恵(なかじま・けい)
フリージャーナリスト
山梨県生まれ。主に中国、東アジアの社会事情、経済事情などを雑誌・ネット等に執筆。著書は『なぜ中国人は財布を持たないのか』(日経プレミアシリーズ)、『爆買い後、彼らはどこに向かうのか』(プレジデント社)、『なぜ中国人は日本のトイレの虜になるのか』(中央公論新社)、『中国人は見ている。』『日本の「中国人」社会』(ともに、日経プレミアシリーズ)など多数。

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(フリージャーナリスト 中島 恵)

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