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なぜ昔の人は「疫病除け」という呪術を熱心に信じていたのか

プレジデントオンライン / 2020年3月31日 11時15分

素戔嗚神社 天王祭=2016年6月4日 - 写真=AP/アフロ

新型コロナウイルスの流行をうけ、江戸時代に熊本に現れたという妖怪アマビエをはじめ、疫病に関わる寺社や伝承が話題になっている。宗教社会学者の岡本亮輔氏は「日本の各地には疫病除けにまつわる伝承が受け継がれている。それは私たちの社会が最終的に疫病を乗り越えてきた証拠だ」という――。

■「新型コロナウイルス感染症流行鎮静祈願祭執行の件」

新型コロナウイルスの流行をうけ、江戸時代に熊本に現れたという妖怪アマビエをはじめ、疫病に関わる寺社や伝承が話題になっている。3月4日には、全国の多くの神社を包括する神社本庁が「新型コロナウイルス感染症流行鎮静祈願祭執行の件」という通知を出し、各地の神社で新型コロナ鎮静祈願の神事が行われている。

都農(つの)神社のある宮崎県では、2010年に口蹄疫が発生し、29万頭以上の家畜の命が奪われた。その惨禍を念頭に起きつつ、2月18日以来、同社では毎朝新型コロナ終息が祈願されている。京都市の上賀茂神社でも、3月3日の桃花神事の際に合わせて祈願が行われた。

同じく京都市の八坂神社や埼玉県の秩父神社では、通常は夏に置かれる茅(ち)の輪が登場している。八坂神社は、創建時から疫病と深い関わりがあると伝えられる。伝承では、9世紀に流行した疫病を鎮めたことで知られるようになったという。同社が祭神とするのが素戔嗚尊(すさのをのみこと)であり、境内には疫(えき)神社も祀られている。

■疫病除けの伝承と神事は各地に存在する

疫神社の祭神は、各地で信仰される蘇民将来(そみんしょうらい)である。伝承によると、素戔嗚が旅の途中、兄の蘇民将来と弟の巨旦(こたん)将来に宿を求めた。巨旦は裕福であるにもかかわらず断ったが、貧しい兄はできる限りの歓待をした。素戔嗚は、その礼として茅の輪をつけていれば厄病を免れることを教えた。そしてまもなく、疫病が流行し、蘇民将来の一家だけが助かったというのである。

地域によって違いもあるが、この伝承に基づいて各地で御守りや家の門扉に「蘇民将来之子孫也」と書く習慣が生まれた。伊勢神宮前の土産店でも、蘇民将来の関連グッズが好評だという。茅の輪のほうは、神社の夏の風物詩として見かけたことがある人も多いだろう。かつては夏に伝染病が多く発生したため、6月30日に各地の神社で疫病除けのために茅の輪くぐりが行われるようになったという。八坂神社の場合、祇園祭の最後の神事として、7月31日に疫神社の夏越祭(なごしさい)が行われる。

東京にも疫病除けの神社がある。かつての江戸の町の北東端、千住大橋の近くにある素盞雄神社である。江戸時代から、コレラが流行すると参詣者が激増したという。同社でもっとも重要なのが6月に行われる天王祭だ。この祭りでは、神輿振りという珍しい渡御が行われる。担ぎ手が神輿を左右交互に90度近く倒すのだ。神輿をあえて乱暴に扱うことで、神威力をさらに高めようというのである。

■疫病に関する伝承が受け継がれている理由

筆者が強調したいのは、どこの寺社が疫病除けに効くのかではない。茅の輪くぐりも蘇民将来の護符も非科学的な呪術だ。仮にこれらを目的にした人で寺社に行列ができるようなことがあれば、逆効果でしかない。注目したいのは、疫病除けの寺社が全国各地にあり、さまざまな伝承が受け継がれているという事実そのものだ。

雨乞いや疫病除けといった呪術は必ず成功する。なぜなら、呪術に頼らざるをえないほど科学が未発達な社会においては、雨乞いであれ疫病除けであれ、それに失敗したコミュニティは滅びてしまうからだ。そのコミュニティの記憶は受け継がれず、呪術ごとなかったことになってしまう。言い換えれば、疫病除けの神社や伝承が各地に存在するのは、これまで何度も疫病を克服してきたからなのである。

■明治期にも同じような事態は起きている

今回、八坂神社には期間外に茅の輪が設置されたが、これは143年ぶりのことだという。それくらい異常な事態が生じているということだが、しかし、以前にも同じような事態が起きたということでもある。前回は1877年9月末、コレラの流行時である。明治維新以降、江戸時代よりも人の移動がはるかに活発になり、日本はたびたびコレラに苦しんだ。そうした中で、現在と似たような出来事も起きている。

1877年の読売新聞は、数カ月前から清国で猛威をふるうコレラを不安げに報じている。特に7月にアモイで感染者が大量発生すると、横浜では早くも警戒態勢が敷かれ、感染者が入国した時のための隔離病舎の建設が始まっている。8月には、神戸に入港した英国船にコレラに感染した清国人が多数乗っており、一部は密かに日本に上陸したという噂が広がった。

■外出制限で自殺未遂を起こした兵士

その2年後の1879年には、活動自粛のストレスが近衛兵の自殺未遂事件を引き起こした。近衛部隊では、不潔な飲食を介したコレラ感染を防ぐため、外出が厳しく規制された。兵士が休日に出かけられるのは神田神社と靖国神社のほか1カ所に制限され、しかも外出時には、監視として下士官が同行しなければならなかったのだ。この不自由な状態に耐えきれなくなった兵士の1人が、外出中、監視の隙をついて飯田橋の井戸に飛び込んだというのである。

また、飲食を介して感染するコレラは祭りをきっかけに感染者が増加することが多く、コレラ流行のたびに寺社の祭礼が中止されている。1886年には、コレラ流行による空前の不景気を吹き飛ばすために、久しぶりに神田神社の祭礼を行おうということになった。山車の準備も始められたのだが、祭りの許可を当局に求めたところ、不景気のために税金の未納が多く、「祭りの前に税金を払え」と言われてしまったというオチがついている。

■第一次世界大戦の戦死者を上回るスペイン風邪の猛威

20世紀初頭には世界的にスペイン風邪が流行した(1918~20年)。その惨状を伝える新聞記事は次のように始まる。

学校を襲い、寄宿舎を襲い工場を襲い、家庭を襲い、今や東京市中を始め各府県にわたりて大猖獗を極めつつある悪性感冒は単に日本のみならず実に世界的に蔓延しつつある大々的流行病にしてその病勢の猛烈なる実にいまだかつて見ざるところなり(読売新聞1918年10月25日朝刊、一部現代仮名遣いに改めた)

女子学習院やお茶の水の東京女子高等師範附属高等女学校でも多くの学生が感染し、小学部・幼稚園も含めて休校措置がとられた。特に感染率が高かったのが八王子市だ。市内の高等小学校の生徒と教員の半数が感染し、市内すべてが休校になった。新聞は「教育会恐慌」という見出しで、このことを報じている。

その数日後には北海道札幌市の学校でも感染が広がっている。経済への打撃も深刻だった。特に被害が大きかったのが銭湯で、通常であれば毎日平均600人客が来ていた店でも200人まで落ち込んでしまったという。

1918年12月24日の記事の見出しは「死者六百万人 12週間に流行感冒と肺炎で戦死者の数の5倍に達す」である。この1カ月ほど前に第1次世界大戦が終結し、全世界で1600万人という人類が経験したことのない規模の死者が出ている。だが、スペイン風邪の死者のペースはそれをはるかに上回るというのだ。実際、WHOによれば、スペイン風邪は4000~5000万人の死者を出しており、例外的なパンデミックとして、人類史の中で最悪のものとして位置づけられている。

■現在の苦しい状況も初めてのものではない

新型コロナウイルスの流行により、これまでの日常だった社会生活の多くに制限が課されるようになった。まだまだ終息は見えず、不安な状態がしばらく続くだろう。

疫病は古くから人間の命を脅かす主要因であり、現代でも容易には克服できないことをあらためて実感させられる。そして科学が未発達だった時代には、疫病はさらに恐ろしく、ただただやり過ごすしかなかっただろう。そのような時に、神仏に祈るのはごく自然な心の働きに思われる。

しかし、現在も各地に残る疫病除けの寺社や伝承は、これまでも疫病は至るところで繰り返し流行したが、私たちの社会は最終的にはそれらを乗り越えてきた証拠ではないだろうか。八坂神社や素盞雄神社は、現在の苦しい状況も初めてのものではなく、いつか克服したものであることを伝えてくれるのである。

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岡本 亮輔(おかもと・りょうすけ)
北海道大学大学院 准教授
1979年、東京生まれ。筑波大学大学院修了。博士(文学)。専攻は宗教学と観光社会学。著書に『聖地と祈りの宗教社会学』(春風社)、『聖地巡礼―世界遺産からアニメの舞台まで』(中公新書)、『江戸東京の聖地を歩く』(ちくま新書)、『宗教と社会のフロンティア』(共編著、勁草書房)、『聖地巡礼ツーリズム』(共編著、弘文堂)、『東アジア観光学』(共編著、亜紀書房)など。

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(北海道大学大学院 准教授 岡本 亮輔)

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