なぜ超一流のアスリートは「例外なく礼儀正しい」のか

プレジデントオンライン / 2020年4月8日 15時15分

現役引退を決め、記者会見後に平井伯昌コーチ(左)と握手する競泳男子平泳ぎの北島康介(日本コカ・コーラ)=2016年4月10日、東京辰巳国際水泳場 - 写真=時事通信フォト

子供の頃に熱中したスポーツは、人格形成に大きな影響を与えているのではないか。集団競技か、個人競技か。ポジション、プレースタイル、ライバルの有無……。ノンフィクション作家の田崎健太氏は、そんな仮説を立て、「SID(スポーツ・アイデンティティ)」という概念を提唱している。この連載では田崎氏の豊富な取材経験から、SIDの存在を考察していく。第8回は「水泳」について——。

■違うレーンの「気配を感じ」ながら泳ぐ

水泳は、個の強さが求められる競技だ。

東海大学水泳部監督の平井伯昌によると、選手たちは違うレーンにいる選手たちの「気配を感じ」ながら泳いでいるのだという。レースの間、彼ら、彼女たちは水で遮断された1人の世界にいる。水中に入れば誰の助けも借りることはできない。

「何が敵かというと、自分です。一緒に泳ぐ選手に乱されてはならない。相手がどうあろうと自分がいいタイムを出せば勝つことができる。しかし、そんなに簡単にはいかないものです。練習と同じように思い通りに泳ぐことは難しい」

2004年のアテネオリンピックを例にあげた。開会式の日、日本代表のコーチとして帯同していた平井は、自分が担当する3人の選手を集めてミーティングを行っている。その中の1人が北島康介だ。

「康介に予選から思いきりいけと言ったんです。そうしたら康介は、オリンピックっていうのは決勝が勝負じゃないんですかって聞いてきた」

平井の頭にあったのは、アメリカ人のブレンダン・ハンセンをどう破るか、だった。直前に行われたアメリカ代表選考会で、ハンセンは、北島の保持していた100メートル平泳ぎ、200メートル平泳ぎの世界記録を更新していた。

「あのとき、康介の調子は8割ぐらいだったんです。相手を崩さないと勝てない。予選、準決勝、決勝の3つで勝負するしかない。康介は分かりました、と」

100メートル平泳ぎの予選で、北島は1分0秒03を出した。これはオリンピック新記録だった。

「準決勝はブレンダン・ハンセンの方が康介よりもタイムが少し良かった。ただ、オリンピック選考会で世界新記録を出したときと比較すると、前半でワンストローク多いんです。ちょっと力んでいた。予選で記録を出した康介のことを相当意識している。綻びが出はじめている、と思ったんです」

ハンセンは揺さぶりに弱いと気がついたのは、2003年にバルセロナで行われた世界水泳選手権でのことだった。

■少しづつ煉瓦を積み上げて行けるか

前回大会福岡で200メートル平泳ぎの優勝はハンセンで、100メートルで世界記録を出した北島と一騎打ちという予想だった。150メートルまで並んでいた2人だったが北島が優勝、ハンセンは3位に終わった。

「北島は電光掲示板で世界新記録を出したことを知って喜んた。ハンセンは負けたと分かって電光掲示板を振り向きもしなかった。少し時間が経って(北島を祝福しようと)握手を求めたんですけれど、北島は気がつかなかった。それでまた落ち込んだ表情になった。そのビデオを何回も観て、彼はかなりナーバス、真面目な人間だなと思った。北島の存在を意識させれば崩れるんじゃないかと」

アテネオリンピックの決勝レース前、平井は北島とハンセンのビデオを何度も見返した。2人はまちがいなく接戦になる。ちょっとした差が勝敗を分かつことになる。タッチの際、慌ててひとかき多くならないよう躯を伸ばす。体力がなくなってもタッチミスをしないような作戦をとった。

「康介の才能は、ストロークを少しだけ遅くしろという指示に応えられること。それによって0.1、2秒のタイムを落とすことができる。トップであっても、少し抑えろっていうと1秒ぐらい落ちてしまう選手もいます。康介はミリ単位でストロークをコントロールできるんです」

決勝レースは、平井の読み通りの展開となった。そして最後まで北島がハンセンをリードして、金メダルを獲得した。

「勢いや運では勝てないんです。根拠のない自信は簡単に崩れる」

水泳とは少しずつ煉瓦(れんが)を積み上げていくようなものだと平井は表現する。それができる選手でなければ、継続して勝つことはできない。水泳選手のSIDである——。

■目を見つめて全身を耳にして聞く子供

北島との出会いについて平井は自著でこう書いている。

〈私が康介をコーチしはじめた頃は、ガリガリに痩せて体も硬かったし、泳ぎのセンスも飛び抜けていたわけではなかった。どちらかというと、泳ぎに向かない体だった。ところが、1対1のときはもちろん、練習中に私が他の選手を指導しているときでも、ジーッと私の目を見つめて全身を耳にして聞いているのがわかった。
「康介はものすごく吸収力がいいやつだな」
そう思った〉(『見抜く力―夢を叶えるコーチング』)

平井が北島に目を付ける伏線があった。それは96年3月のアトランタオリンピックの選考会である。

東京スイミングセンターにもオリンピック出場の可能性のある選手がいた。ところが、1月、2月ごろから突然、調子を崩したのだ。

「当時は選手のピークが10代とされていた。10代というのはまだ精神的に出来上がっていない年代です。ライバルがいい成績を出したりすると、ガタガタと崩れてしまう。オリンピックに出られるか、というぎりぎりになると色んなプレッシャーがある。親、親戚、あるいは学校、スイミングクラブが子どもに期待する。最後は周囲に惑わされない、芯の強い子じゃないと持たないということに気がついたんです」

東京スイミングセンターではアトランタオリンピックに向けて思ったような成績を出すことができなかった。

4年後を見据えて、芯の強い子どもを探さなければならないと考えたとき、頭に浮かんだのが、中学2年生だった北島の眼差しだった。

■両親が水泳に関して過度に熱心でない

「康介の近い年代に凄(すご)く評価の高い子どもがいたんです。ただ、練習を休みがちだった。才能はあるんですけれど、気が弱い。アトランタオリンピックの予選会で感じたことを、東京スイミングセンターの中に当てはめてみると康介しかいない」

北島の両親が水泳に関して過度に熱心でないことも都合が良かった。

北島に平井は「康介、お前、オリンピックに行きたいか」と話しかけている。すると北島は「行きたいです」と即答した。

「じゃあ、一緒に目指そうじゃないか」

平井は北島に提案をした。今後、練習に集中するため、塾通いを辞めること、東京スイミングスクールから近い高校に進学することの2つだった。そして週一度はトレーニングジムで平井と共にウエイトトレーニングを始めた。

平井はコーチとして大切なのは、選手の「感性」を磨くことだと自著で書いている。

〈私は、日頃練習のときに、
「今日はこのテクニックを直そうと思うんだけれど、今泳いでどんな感じだった?」
などと尋ねるようにしている。
選手はつねに考えながら泳いでいるわけではないが、水をつかめたか、つかめなかったかは感じている。そこを意識して泳げるかどうかで、練習の意味合いが変わってくるのだ。
最初のうちは「よくわかりません」「あまり感じませんでした」などという答えが返ってくるだけだが、なんども質問を繰り返しているうちに、
「今日はすごくお腹に力が入って、水がちゃんとかけてます」
といった返事が返ってくるようになる。
こうなると、コーチから言われたとおりに半ば強制的にやらされていた練習が、きちんと意味づけられ、何倍もの密度の濃さになってくる〉(『見抜く力―夢を叶えるコーチング』)

これは、前章の「ゴルフ」編でアンダース・エリクソンが定義する〈心的イメージを意識したフィードバック〉と重なる。

■前半いい泳ぎをするから後半がある

平井が気を遣ったのは、北島を守りながら育てることだった。中学3年生のとき、北島は、短水路(25メートルプール)の中学記録を出せるような練習をしていた。すると上司のコーチが中学記録が出るかもしれないと騒ぎ出したという。

「まずいなと思いました。それで試合前、練習を厳しくしました。うまく泳げているのに、やり直しをさせていつもよりも躯に負担をかけたんです。康介には何も話していません。心の中でごめんな、って言っていました。彼はなんでこのコーチ、練習きついのかなと首を傾げていたかもしれない。康介はストレートでオリンピックを目指さないといけない時期でした。中学記録程度で騒がれて、周囲が浮かれてしまっては困ると考えていたんです」

平井の目論見通り、北島は記録を出すことはなかった。

育成方法にも工夫をしている。北島にはレースの後半失速する傾向があった。平井はあえて得意な部分を伸ばすことにした。

「100メートル、1分5秒前後で泳いでいたときに、こう聞いたんです。“康介、1分切るにはどうしたらいいかって”。すると彼は“先生、前半27秒ではいらないと1分切れないです”と答えた。そうか、じゃあお前は前半が得意だから、まずは来年に前半29秒を目指そうと。これは当時の日本記録レベルのタイムです」

前半29秒台を出すことはできるが、後半どうなるかわかりませんと北島は言った。それでいい、前半いい泳ぎができれば後半も早く泳げるよと平井は返した。

「普通ならば100メートルで1分3秒、1分2秒に縮めようという指導をする。康介にはそうしなかった。そうしたら、本当に日本選手権で(前半)29秒に入った」

■水泳向きではないとされた躰で4つの金メダル

北島の身長は177センチと水泳選手としては小柄だ。水を掻く足、手も小さい。そして躯が硬い。それまでの水泳界の常識では、伸びしろが大きい選手とされてこなかった。

「北島みたいな躯の硬い奴が速くなるわけないと言われて、悔しく思っていた時期があったんです。でも、筋肉が硬いというのは、強い力がでやすいということなんです。逆に躯が柔らかい選手は関節を痛めやすい。(しなやかな動きができて)水を捉えるのがうまくても、ウエイトトレーニングで筋肉がつきにくいと、スピードが出ない」

周知の通り、北島は、2004年のアテネ、そして2008年の北京オリンピックの100メートルと200メートル平泳ぎで金メダルを獲得した。平井の見立てが正しかったことになる。

平井と北島の関係は、マラソンの中村清と瀬古利彦のように濃密ですねとぼくが感想を漏らした。すると中村さんと瀬古さんの関係をぼくは詳しく知りませんが、と前置きした上で、ぼくはマンツーマンの関係を避けてきました、と言った。

「東京スイミングセンターはグループでやるのが基本。マンツーマンはほとんどない。できるだけ避けていました。マンツーマンの指導は選手にとってもコーチにとっても互いにきついものです。」

早くから将来を嘱望された水泳選手は、子どもの頃から大切に育てられてきている。コーチには自分だけを見てほしいという独占欲が強い、という選手もいるという。平井はそうした選手をあえて突き放す。

■長く勝つには集団でもうまくやれるか

平井は前出の『見抜く力』で水泳選手の適性——「SID」についてこう書いている。

〈水泳という競技は、チームスポーツではないが、一緒にトレーニングしている仲間をはじめ、コーチやトレーナーがどんな人間なのか、お互いに認めあったり協力する関係が大切である。
そこでいい関係を保っていける選手のほうが、強くなれるし伸びる芽があるのだ〉

水泳選手は、地道に努力を積み上げ、プレッシャーに耐えなければならない。まさに個人競技のSIDである。平井はそれだけでは十分ではないと考えている。

「1回だけ結果を出すだけだったら、どんな性格だっていいんですよ。でも、長く勝つには集団でやっていくことも覚えなければならない。メダリストというのはそのチームの中のトップのようなもの。そのトップが他のメンバーのことを認められない、あるいはチームの中でストレスを抱えているようではお手本にならない。あいつは記録は出すけれど、性格悪いよっていう風だと誰もついていかない。そういう選手は辞めた後、人生が大変なことになる。グループでやっていける選手は引退後も社会に出ても大丈夫なんです」

平井は自分には選手の人生に対して一定の責任があると考えている。

「ぼくたちは選手の一番多感な時期を預かっているんですから」

今の手法に確信を持つようになったのは、やはり北島だった。

■自然にできた「チーム北島」

北島が高校生のときだ。カメラメーカーに勤める日本水泳連盟の人間が水中カメラで選手の映像を撮影することがあった。ある日、平井はその男から「北島は礼儀正しくていい、大したもんだ、いい教育しているね」と褒められた。

「康介はありがとうございます、非常に役に立っていますとか、言っていたんでしょう。康介からそう言われれば、また撮影してあげようという気になりますよね。康介が褒められるということは、他の選手がそんな当たり前のことをしていないということ。トレーナーたちも康介に関しては、何でもやってあげたいという風だった。ありがとうございますという感謝の言葉を伝えることで、周りを動かすことができるのも、水泳選手にとって必要なことなんです」

だからこそオリンピック前、彼の周りに「チーム北島」が自然にできるようになった。

「みんなが彼に活躍してほしいと思っていた。だから長く第一線でやることができたんです」

個人競技も究めれば、人を巻きこむという集団競技的なSIDが必要となるというのが平井の考えだ。

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田崎 健太(たざき・けんた)
ノンフィクション作家
1968年3月13日、京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。スポーツを中心に人物ノンフィクションを手掛け、各メディアで幅広く活躍する。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)など。

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(ノンフィクション作家 田崎 健太)

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