1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 経済
  4. ビジネス

戸板1枚の露店は、なぜ「ゆめタウン」になれたのか

プレジデントオンライン / 2020年4月24日 15時15分

画像=『ゆめタウンの男』

広島の総合スーパー「ゆめタウン」の創業者・山西義政氏が4月7日、老衰のため97歳で鬼籍に入った。一代で西日本最大の流通チェーンを築き上げた山西氏は、いかにして成功への道を突き進んだのか。山西氏の痛快な生涯を振り返ろう──。

※本稿は、『ゆめタウンの男 戦後ヤミ市から生まれたスーパーが年商七〇〇〇億円になるまで』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■ヤミ市は『仁義なき戦い』の世界だった

ヤミ市は熱気や活力に溢れていましたが、どこか乱暴でダーティーな雰囲気もありました。映画『仁義なき戦い』の1作目で広島駅前のヤミ市が描かれていましたが、まさにああいった世界です。進駐軍の兵隊ややくざ者たちがわがもの顔でのし歩いていました。

そうした中で、私たちのような堅気の商売人も、彼らと対峙していかなければならない。当然、度胸もつきますし、肝も据わってきます。目の前のお客さんと接する一方で、やくざ者たちと渡り合うことも多かったのです。あるときやくざ者がやってきて、ピストルを取り出し、これをかたに金を貸せと凄まれたこともありました。

「あんたたちに金なんか貸さんよ」

と追い返しましたが。毎日、はらはらどきどきしていましたが、一番楽しい時代でもありました。

しかし、駅前のヤミ市での露店は1年も経たずに、畳むことになりました。戸板の店ではなく、小さくても一軒の店を出すことにしたのです。

広島駅前の猿猴橋町に8坪ほどの店を借りました。1946(昭和21)年のことです。当初、看板は掲げませんでしたが、その翌年に2階建ての店舗に移ってからは「山西商店」の看板を出しました。

従業員を3人雇い入れ、初めは今までの延長で何でも扱いましたが、次第に衣料品専門へと切り替えていきました。メリヤスの肌着、マフラー、それに靴下は必需品です。置けばすぐに売れてしまいます。

■戦後のマーケットで商いを始めた人たち

このころは小売もしていましたが、卸問屋としての取引の方を大きくしていきました。これは、私と丁稚3人では小売をするには限界があると考えたからです。お客の相手をするには店も小さいし、店員も少ない。それよりも、小売をしている店に品物を卸した方が効率もいいし、従業員も増やさなくて済みます。そうした理由で卸問屋にシフトさせていったのです。

そうはいっても、商売できるほど大量の衣料品が簡単に手に入るわけではありません。今と違って、とにかく物不足でしたから。衣料品は、誰もが喉から手が出るほど欲しがっていました。

調べてみると、神戸の三宮に衣料品を売っている問屋があることが分かりました。そこで、三宮まで仕入れに行こうと決めました。

同じ時期に、やはり三宮で薬の安売りを始めたのが、後にダイエーを作る中内功さんです。中内さんも戦地から復員して、商売を始めた人です。

こういった人たちが、賑やかな戦後のマーケットに大勢集まり、それぞれの方法で商いを始めたのです。

■夜間急行で仕入れに向かい、帰りは寝ずの番

神戸、そして後には大阪が仕入れ先となりますが、広島からはいつも音戸号という夜間急行に乗り込みました。昼間の仕事を終えてから仕入れに向かうためです。

大阪では、真っすぐ繊維問屋街の船場に向かいました。少しでも多くの仕入れ先を回りたいので、預けておいた自転車を使って問屋巡りをします。仕入れた衣料品はその都度、荷台に積んでいきました。

いくつもの問屋を回っては、衣料品を買い込んでいきますから、どんどん荷物が増えていき、大量の衣料品を収めた鞄や風呂敷包みが20数個ほどになります。帰る頃には持ち切れないほどになっていますので、問屋の丁稚さんたちが荷物を駅まで運ぶのを手伝ってくれました。

荷物だけ別便にしてまとめて送るとなると、時間がかかり過ぎます。また、貨物便に乗せる手段もあったのですが、これも荷物を降ろして受け取る時間がもったいない。それで私がそれらを持って汽車に乗り込むのです。それが最も短時間で済む方法でした。どうも、私は若い頃から気が短かったようです。

夜行列車に乗り込み、荷物を網棚にずらーっと並べて置きます。私は、盗まれないように通路に立ったまま、一晩中寝ずの番です。

朝、広島駅に汽車が着くと、ホームでは私の店の丁稚たちが待っています。荷物を降ろすのを手伝い、用意してきたリヤカーに乗せて店へと直行するのです。

「山西には、いつも新しい品物があるなあ」

そんな声が聞こえてきました。それこそ、私が期待していた反応でした。

丁稚たちにはいつも「商売は素早くないとダメだぞ」と話していました。

これを繰り返していくことで、私の店は衣料品専門の店というイメージが作られていったのです。

■50万円、100万円でもすぐに支払った

大阪の船場へは週に2回以上、私が自ら出向きました。品物を自分の目で確かめて仕入れたかったからです。

ちなみに、仕入れるときは必ず現金決済です。手形は使いません。普通は品物が着いてからの支払いですから、手形を切るわけです。しかし、私は現金決済にこだわりました。仕入れのためにトランクいっぱいの現金を持ち歩いていました。このお金の持ち運びが面倒になったので、後には小切手を使うことを覚えて小切手の決済に変えました。

とにかく素早く小切手を切りたかったので、ズボンの左の尻ポケットに小切手帳を、右ポケットには印鑑を紐で括りつけてねじ込み、話がまとまれば

「いくら?」

とその場で小切手を切る。

50万円、100万円という額でも、ためらわずすぐに決済しました。そんなことをする人はいなかったので、大阪ですっかり評判になりました。これがその後の信用づくりに大きく貢献することになったのです。

■「価格交渉」の慣例をなくして信頼を構築

もう一つ、私が古い商習慣を疑問に感じて、実践したことがあります。それが正札商売です。

かつての卸問屋は、顧客と一対一で商売の話をし、価格を決めたものです。店先に品物はなく、話をしながら奥から出してきます。そして、価格交渉が始まるわけです。このやり方ですと、ある人には100円で売り、別の人には120円で売ることもあり得ました。もし、120円で買った人が、100円で売られていたことを知ると、そうした慣例だと分かっていても、あまりいい気持ちがしなかったでしょう。

これでは、末長く取引を続けてもらえないのではないか、そんな気がしていたのです。逆の立場ならどうだろうと考えました。交渉によって自分より安く購入した人がいるということは、自分との付き合いを軽んじられたと感じるのではないか。そうなると、いずれ顧客も離れていってしまうでしょう。

そこで、品物には正札を付け、その価格で販売することを始めました。品物も店先に陳列します。これは誰にでも同じ価格で販売しますよ、という意思表示でもありました。

これもまた信頼の向上につながったのではないかと思っています。

常に商売の原点に戻って、何が望まれているのか、何が必要とされているのかを考えつづけていました。世の中の変化を読み取り素早く対応していかなければ、取り残されていくことは明らかだったからです。

■自分を追い立てるため「7年間で4回の移転」

1950(昭和25)年、戦前から続いていた衣料統制が解除され、衣料品が自由に売買できるようになりました。これを機に仕入れも楽になりました。

ただ、自由に取引できるとなると、ライバルも増えてくることになります。むしろ、そうした追い風の時期こそ気を引き締めなくてはならないと感じていました。

1946(昭和21)年に猿猴橋町に店舗を設けてから、翌年にはその近くの20坪2階建ての店舗に移転。さらに49(昭和24)年には2度移転をして、53(昭和28)年には広島市松原町に移ります。実に、7年間に4度も店舗を変えているのです。

これは、やはり現状に安住したくないという思いからのことでした。自分で自分を追い立て、商売に邁進したかったのです。

そのため、この移転の最中、1950(昭和25)年には衣類卸問屋の株式会社山西商店を設立しました。従業員は7人、資本金は100万円でした。

4度目に移った店舗は、広島駅のすぐ近く、市場のそばで、まさに一等地にありました。そこはもともと銭湯でしたが建物は巨大で、広島で一番大きな風呂屋といわれていました。当時、内風呂のある家は少なく、たいてい銭湯に通っていました。ですから、この銭湯もかなり繁盛していたのです。それでも、どういう理由かは分かりませんが、店を売ろうとしているという話が聞こえてきました。

すぐに見に行ったところ、立地や広さは申し分なく、ぜひここに店を構えたくなりました。

■今なら3億円相当の銭湯を即決で購入

私はすぐさま銭湯の主人のところへ交渉に行きました。中村さんという方で、番台に座っていました。その頃、私はまだ20代ですから、中村さんの方がはるかに年上です。

「おっちゃん、この風呂屋売りたいって聞いたけど、ほんまかいな」
「ああ、ほんまや」
「売ってほしいんじゃが、なんぼや?」

中村さんは、私の姿をじろじろと眺めます。何しろ、仕入れや丁稚の給料にお金がかかり、自分の服装など構っていられません。汚いジャンパーに草履というスタイルで、それが当時の私のユニフォームのようなものでした。

「お前のような手合いに買える値段じゃないけ、帰れ帰れ」

けんもほろろ、というやつです。中村さんという人は、後から聞いたところによると、その界隈にたむろするやくざ者たちが風呂場で乱暴なことでもしようものなら、怒鳴りつけてつまみ出すような人だということでした。

かといって、私もそんなことぐらいでは、引き下がりません。

「おっちゃん、なんぼや。金額ぐらい教えてくれてもええじゃろ」
「しようがないな、1500万円や。どや、驚いたやろ」

鼻で笑っています。

「よっしゃ、買うた!」

「はあ?」 驚いたのは、中村さんの方です。

「お前、1500円やないで、1500『万円』やで」
「分かっとるわい。現金でええんかい」

中村さん、口が開いたまま、私の顔を見つめていました。よほどびっくりしたのでしょう。そのうち、「ははは」と大笑い。

「よっしゃ、売った」

■「決断の速さ」と「金払いの良さ」で信頼をつかみとる

1500万円は、今の貨幣価値では3億円ほどになるでしょうか。もしかすると、もっと高額かもしれません。その金額を、私が値切りもせず、言い値で買うといったことで中村さんは驚いたそうです。

山西 義政『ゆめタウンの男 戦後ヤミ市から生まれたスーパーが年商七〇〇〇億円になるまで』(プレジデント社)

もちろん、私にしても興奮しています。そのような高い買い物は生まれて初めてのことでしたから。

それから3日間は、興奮のために夜も眠れない日が続きました。

ただ、この一等地に立つ銭湯を、値切りもせずに即決で購入したということは、すぐに広島の商売人たちの間で噂になりました。この評判は、私にとってさらなる追い風にもなってくれたのです。

決断の速さ、そして金払いのよさ、これが取引相手を信頼させ、そして安心させる秘訣です。私は、性格がせっかちなこともあり、計算せずにそうした対応をしてきました。

買い取った銭湯ですが、その後に改築を重ねて、随分と長い間、私の商売の拠点となってくれました。銭湯ですから、高い煙突が立っています。ここに大きく「洋品卸 山西商店」と書き込み、広告塔としました。周りに高層の建物がなかった時代には、広島駅からはもちろん、かなり遠くからでもこの塔が見えたものです。

ここを足掛かりに社業は順調に発展を続け、その後、新たに自前ブランドの衣料品製造事業、そして当時はまだ普及していなかったセルフサービス型の小売業態──スーパーマーケット事業へとコマを進めていくこととなりました。

----------

山西 義政(やまにし・よしまさ)
イズミ名誉会長
1922(大正11)年9月1日、広島県大竹市に生まれる。20歳で海軍に入隊し、当時世界一といわれた潜水艦「伊四〇〇型」に機関兵として乗艦。オーストラリア沖ウルシー環礁への出撃途上、西太平洋上で終戦を迎える。戦後、広島駅前のヤミ市で商売の道に進む。1950(昭和25)年、衣料品卸山西商店を設立。1961(昭和36)年、いづみ(現イズミ)を創業し、代表取締役社長に就任。同年、スーパーいづみ1号店をオープン。1993(平成5)年、代表取締役会長。2002(平成14)年、取締役会長。2019(令和元)年5月より名誉会長。西日本各地に「ゆめタウン」などを展開し、一大流通チェーンを築く。2020(令和2)年4月1日、老衰のため逝去。

----------

(イズミ名誉会長 山西 義政)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください