絵本が存在しなかった中国に、絵本の市場をつくったポプラ社の大戦略
プレジデントオンライン / 2020年5月25日 11時15分
■絵本の巨大市場を作った仕掛け人
20年前の中国には「絵本」という言葉も、市場もなかった。子どもたちが読んでいたのは図画書、連環画と呼ばれる「イラスト集」で、海外の優れた絵本は中国の対外政策や外資規制などによってほとんど入ってこなかった。
それに風穴を開けたのが、日本の出版社「ポプラ社」だった。2003年に外資企業の小売・卸が解禁されると、ポプラ社は2004年に現地法人「北京蒲蒲蘭文化発展有限公司」(蒲蒲蘭(ププラン))を設立。2005年には中国初の絵本専門書店を開き、絵本の普及を進めてきた。
中国唯一の図書データ資料「中国開巻市場調査研究報告」によると、2019年度の中国の図書売り上げは894億元(約1兆3700億円)。なかでも児童書は全体の25%(3425億円)を占め、2017年ごろから出版市場の最大シェアを誇るまでに急拡大した。今や日本の約4倍の規模だ。
中国に「絵本」をいち早くもたらしたポプラ社は、その巨大な絵本市場の開拓者ともいうべき存在だ。もともと存在しなかった絵本が、なぜ中国人に受け入れられたのだろうか。
■中国に絵本が広めた「蒲蒲蘭絵本館」の効果
ポプラ社が「開拓者」になれたのは理由がある。1995年に当時の社長が北京のブックフェアに初めて参加したことを皮切りに、ポプラ社は2000年から北京に事務所を置き、版権ビジネスを行いながら事業拡大の可能性を探ってきたからだ。
外資への規制緩和を好機と捉え、絵本専門店「蒲蒲蘭絵本館」を開いた。その際、「今までにない新しい文化を提示していきたい」という想いから「絵本」という呼称を用いることに決めた。従来中国にあった図画書、連環画との差別化を図りつつ、絵本という新しいジャンルを築き上げる試みだった。
「蒲蒲蘭絵本館」自身も、絵本の普及に大きな役割を果たした。100平米の小さな店舗である北京の蒲蒲蘭絵本館のコンセプトは「虹と絨毯(じゅうたん)」。親子で店に入った瞬間、楽しく夢のような世界が広がり、「これが『絵本』か」と感じてもらえる空間デザインにした。
その空間デザインは高く評価され、2013年にはアメリカのメディアflavorwire.comで「世界で一番美しい書店20」に取り上げられたほどだ。
オープン当初から中国の国内メディアでも頻繁に紹介され、その影響力によって「絵本」という呼称が一気に普及した。蒲蒲蘭絵本館を模倣した絵本館が中国全土に数千店は生まれたといわれているほどだった。
■他社に先駆けた出版事業参入、熱心なPR活動を展開が奏功
ポプラ社は書店経営と並行して、絵本の出版にも乗り出した。
中国は政策上、現在でも外資企業や民間企業に「出版」を開放していない。「出版社」を名乗れるのは国営出版社だけだ。外資や民間企業に許可されているのは、出版物の卸・小売(流通業)、版権ビジネス、編集委託などに限られている。ただし、これは建前である。実際には2000年ごろから民営や外資が国営出版社との「提携」や「共同出版」というかたちで、実質的に出版事業に携わることが進んできた。
ポプラ社は2000年ごろ(正式には蒲蒲蘭を設立した2004年)から、国営出版社と「提携」「共同出版」を進め、出版事業に参入。日本や台湾、中国の国産絵本の出版をするようになった。ちなみに、ポプラ社は2004年に版権売買資格、2008年には世界の出版社で唯一、出版物の卸と小売資格をも取得した。
PR活動も怠らなかった。蒲蒲蘭絵本館や幼稚園、図書館などでは絵本の読み聞かせイベントを無料で開催。日本や台湾などから絵本作家を招き、講演会やサイン会も繰り返し開いた。地道ではあるものの、絵本になじみがなかった中国人に絵本の良さを伝えるには最善の取り組みだったと言える。
■ネット書店の後押しで急成長する中国絵本市場
蒲蒲蘭絵本館の設立から日の浅いうちに、中国絵本市場は急展開していく。2006年ごろからネット書店が登場し、児童書販売に力を入れたことで絵本市場は大きく発展した。
2007年から民営出版社を中心に多数の出版社が絵本事業に参入。市場を牽引するECサイト「当当ネット」と出版社が独占販売契約を結ぶことで、当当発の月間(!)100万~200万部のヒット作品も生まれた。
蒲蒲蘭は、契約条件などを鑑みて当当との独占契約は基本的には避けてきた。むしろ当当側が、蒲蒲蘭の商品力を見込んで販売に力を入れた。そのおかげもあり、『くまくんのあかちゃんえほん』シリーズは、累計販売数が約1000万冊の大ヒット作品となった。
■業績は倍々ペースで伸張、絵本のタイトル数は最多に
こののち、中国絵本市場は2010年から2015年までは「高度成長期」に突入する。このころまでに世界の著名な絵本作品はほぼ中国でも出版され尽くしたと言っていい。
国際児童図書見本市「ボローニャ・ブックフェア」や、世界最大書籍見本市「フランクフルト・ブックフェア」には中国の出版社が殺到した。出版権獲得競争が激化して契約金が高騰。2015年には投資会社が参入して海外企業の絵本出版権の「爆買い」が発生した。また、前後して上場している出版社が有力タイトルを持つ中国の絵本会社の買収に乗り出した。
蒲蒲蘭も買収提案をされるも、事業の独立性・独自性を重視してすべてのオファーを断っている。独立を保ちながら欧米のロングセラー作品やヒット作品のライツの導入、オリジナル作品の出版に取り組んだ。編集顧問として本社から人材を集め、編集者や作家の育成にも力を入れたのもこの時期だった。
正しい判断だった。2010年には自社刊行物(正確には提携出版だが)の累計は約200タイトルだったが、黒字転換を果たした2014年には同業者中最多の400に達した。2015、2016年は倍々ペースで伸ばした業績からも明らかだ。
■2017年になると状況が一変して「混迷期」へ
ところが中国絵本市場は2017年になると状況が一変して「混迷期」に入る。原因は中国政府からの指導だ。中国の伝統・歴史を学べる国産の児童書を作りなさい、「輸入と輸出を1対1にせよ」(国産絵本の権利を1作売ったら海外ものを1作出してもいい)という行政指導が出版社に行われるようになった。突然輸出を増やせるはずもなく、新刊の刊行点数は急激に減少した。
ISBN(※)規制も始まった。中国ではISBNは国から各国営出版社に割り当てられ、出版社の規模に応じて出版計画に基づき申請すればISBNが取得できた。しかし2018年以降はその数が30~40%減った。
※国際標準図書番号。取次や書店を通して本を販売しようとする場合、付けることを要求されるコード
表向きの理由は「粗製濫造の抑制」が目的だった。たとえば中国では世界文学全集、アンデルセン全集などがほぼすべての国家出版社から似たような体裁で刊行されている。また、版権無視の海賊版に加えて「山賊版」と呼ばれる人気作品に似せて作った模倣品が出回っているという問題もある。
しかし、おそらくはそれだけでなく、中国国内の政治状況と絡み合って思想や文化に対して厳しくなってきたがゆえの規制だ、というのが多くの業界関係者の見立てだ。今後、絵本市場が健康的な成熟を迎えられるかは未知数という状況だ。
■IP展開と「中国ファースト」出版という抜け道
とはいえネガティブな材料ばかりではなく、新しい動きも起こっている。
たとえば、後述する『ティラノサウルス』シリーズで大人気の宮西達也の『ぼくはパンダ!』、日本でもミリオンセラーになった『ぴょーん』の著者である松岡達英氏の新作『変成了青蛙』(かえるになった)は日本より先に中国で刊行した。これは「国営出版社発の輸出できる作品を増やす」という政策的な要請をクリアしてスムーズに出版するための試みだ。規制の厳しい中国市場への対策をひねり出したわけだ。
そして本を出すだけでなく、絵本発のIP(知的財産)展開も進めている。日本では累計200万部超の宮西達也『ティラノサウルス』シリーズは、蒲蒲蘭から刊行されて中国で累計800万部超の大ヒットとなっている。
「中国でも日本同様、泣かせるストーリー展開——特に親子の愛、友情、弱きものが強きを助ける情、乱暴者のティラノが愛や情に目覚める過程——が人気の鍵のようです。蒲蒲蘭ではこの人気に注目したショッピングモールと提携して『ティラノサウルス』の原画展や恐竜の絵コンテストを行っています。そのほか不動産会社、政府機関とも提携して、さまざまな場所で朗読コンクール、自然教育、科学探検のイベントなどを実施しており、宮西さんには毎年、中国各地での講演をお願いしています」(ポプラ社中国現地法人 北京蒲蒲蘭文化発展有限公司初代董事・総経理石川郁子氏)
■真っ先に飛び込み、辛抱し続けて得られたもの
ポプラ社は、他の出版社に先駆けて、未成熟だった中国絵本市場に飛び込んだ。そこで、何を得たのだろうか?
「長年辛抱強く市場を切り開いてきたことで、中国の各界や読者から認められる絵本ブランドとしての位置と信用を築くことができました。絵本が普及した今、多くの新規企業が参入しています。ただ、競争が激しく動きが早いこともあり、初期に参入した弊社のような企業ブランドやロングセラータイトルを生み出すのは難しい状況です」(石川氏)
“いやあ、まだまだでしょう”“全然たいしたことない”などと傍観しているうちに競争のフェーズは次々進み、どんどん参入障壁が高くなっていく。そしてしまいには指をくわえて見ているか、不利な条件をのむしかなくなるのだ。
いずれ大きくなることが見えているなら、早いうちに挑戦を開始し、志を持って粘り強くやり抜いた方が、果実は得られる。いまや中国の人口は日本の11倍、GDPは日本の約3倍だ。しかし20年前の中国のGDPは日本の約4分の1にすぎなかった。その20年前に決断できたからこそ、今日の蒲蒲蘭の成功がある。
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ライター
マーケティング的視点と批評的観点からウェブカルチャーや出版産業、子どもの本について取材&調査してわかりやすく解説・分析。単著『マンガ雑誌は死んだ。で、どうなるの? マンガアプリ以降のマンガビジネス大転換時代』(星海社新書)、『ウェブ小説の衝撃─ネット発ヒットコンテンツのしくみ』(筑摩書房)など。グロービスMBA。
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(ライター 飯田 一史)
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