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1964年東京パラリンピックでメダルを獲った卓球選手がその後ラケットを握らなかったワケ

プレジデントオンライン / 2020年5月22日 9時15分

1964年11月8日、東京パラリンピック開会式にて、参加22カ国約560人の選手役員が「上を向いて歩こう」のマーチにのって名誉総裁の皇太子さまの前を入場行進(東京・代々木) - 写真=時事通信フォト

1964年10月に東京オリンピックが閉幕した2週間後、日本で初めての障害者の国際スポーツ大会「第2回パラリンピック」が開かれた。それはどんな大会だったのか。大会関係者を取材し、『アナザー1964 パラリンピック序章』(小学館)を書いた稲泉連さんに聞いた——。(前編/全2回)

■当時の日本に「障害者がスポーツ」という発想はなかった

——1964年のパラリンピック東京大会に注目したきっかけを教えてください。

障害者スポーツに関心を持ったのは、5年ほど前のことです。知り合いを通じ、アイスレッジ(パラアイスホッケー)の選手を紹介してもらい、話を聞く機会があったんです

すでに2020年に、東京でオリンピック・パラリンピックの開催が決まっていた時期です。メディアは大会を「東京オリンピック・パラリンピック」と呼び、なかには「2020年のオリパラ」とも略されている。そうした報道などに接しながら、素朴な疑問がわきました。なぜ、パラリンピックは、オリンピックとまとめて語られるのか。そもそも、パラリンピックってなんだろう、と。

——新型コロナ拡大の影響で大会延期が決まりました。延期、あるいは中止になった場合の経済損失、運営の成否にばかりに注目が集まっていますが、パラリンピックは本来、オリンピックとは別で障害のある人たちの社会復帰という意義もあったわけですよね。

いまでこそ、障害のある人たちが、スポーツを通し、心身両面で健康を取り戻していくという考え方は一般的です。

しかし1964年当時、障害を負った人がスポーツをするなんていう発想はありませんでした。パラリンピックを東京に招致しようとした人たちに対しても「障害者にスポーツをさせるなんてとんでもない」という反発があったそうです。

——パラリンピックに出場する選手が、パラアスリートと呼ばれ、幅広いジャンルで活躍する現在とはまったく状況が違いますね。

そうなんです。インタビューしてみても、56年前の選手たちは病院や「療養所」で暮らしていた「入所者」や「患者」で、いわゆる「アスリート」と呼ばれる人たちでは全くありませんでした。

それに、現在とはパラリンピックの枠組みも異なります。現在はさまざまな障害がある人々が参加する障害者スポーツの総合大会ですが、56年前の大会は脊椎を損傷した人が中心でした。パラリンピックの「パラ」も、現在の「パラレル」の意味ではなく、下半身麻痺を表す「パラプレジア」からとられたものです。

■病院を出ても自宅に閉じこもるケースがほとんどだった

障害者に対する理解も進んでいませんでした。当時は車いすに乗った脊髄損傷患者の就労に対しても「障害者を働かせるなんて、気の毒だ」という見方がふつうで、病院や施設を出た患者は自宅に閉じこもるケースがほとんどでした。自立や社会復帰を考えられるような社会ではなかったわけです。

そうした状況を変えようとしたのが、大分県別府市の整形外科医・中村裕医師です。リハビリテーションを研究していた彼は、無力感にさいなまれていました。整形外科医として、脊椎損傷患者をどんなに手厚く治療しても社会復帰できない。医療の力だけでは自立が難しいことに日々、直面していたからです。

その彼に転機が訪れます。イギリスへの研修旅行で脊髄損傷患者を専門とする世界的な第一人者であるルートヴィッヒ・グットマンという整形外科医との出会いがそれです。中村医師は、グットマンや理学療法士らの指導で、水泳で体を鍛え、卓球でバランス感覚を養う脊髄損傷患者を目の当たりにします。

何よりもイギリスでは、障害者が社会復帰する道筋がつくられていました。中村医師の自著『太陽の仲間たちよ』によれば、当時の同国では20人以上の企業には3パーセント以上の障害者雇用が義務づけられ、1000カ所以上の障害者向け就職斡旋所があり、さらに自動三輪車や小型自動車の給付もあったそうです。

■「出るようにって言われて仕方なく出場した」

——そのくだりを読み、現在の日本の厚生労働省のホームページを見たら〈従業員を45.5人以上雇用している企業は、障害者を1人以上雇用しなければなりません〉とありました。いまの日本に比べても手厚い就業支援と言えます。

だからこそ、中村医師も大きな衝撃を受けたわけです。その経験は、彼に脊椎損傷患者たちの自立とは、医療だけではなく、社会の問題だという気づきをもたらすことになるんです。

「小医は病を癒やし、中医は人を癒やし、大医は国を癒やす」という中国の故事があります。東京大会後、中村医師は別府に障害者就労支援施設の先駆けとなる『太陽の家』を創設しました。日本で、障害者の自立を主導した彼は、まさにそんな大医だったと言えるでしょう。

——元選手たちの言葉も社会の雰囲気を象徴しています。「人前に出るのが嫌で嫌で、そんな恥ずかしいことしたくない」「みんなから、どうしても出るようにって言われて仕方なく出場した」……。

卓球でパラリンピックに出場し、ダブルスでメダルを獲得した笹原千代乃さんですね。彼女は、大会に出場するために卓球をはじめましたが、その後は一度もラケットを握っていないと語っていました。実際に練習したのは、パラリンピック開催直前の半年ほどにすぎなかった。それだけ急ごしらえの大会だったのです。

■出場選手たちの「生の声」を扱った資料はほとんどなかった

1964年のパラリンピックの意義を考えるためには、当時の脊椎損傷を負った人たちがどんな存在だったか、どんな状況に置かれていたかを想像してみる必要があります。彼らの多くは箱根療養所や各地の労災病院、あるいは自宅に閉じこもって一生を過ごすしかなかった。そんな彼らがパラリンピックに出場する。大変な勇気が必要だったと思うんです。

——当時、日本には戦地でけがを負った傷痍軍人がたくさんいました。本にはパラリンピックに出場した傷痍軍人の遺族や関係者も出てきます。高齢の元選手たちを探すのは大変だったのでは?

直接、話を聞けた元選手は5人です。当時20~30代で、いまは70代後半~80代です。取材では「あと何年早ければ、あの人も元気だった」「あの人の話も聞いてほしかった」という声を何度も聞きました。

今回、さまざまな資料を集めましたが、1964年のパラリンピックに出場した選手たちの生の声を扱ったものは多くはありませんでした。語る機会がなかったのでしょう。だからこそ、取材を進めるうちに、彼らから受け取った言葉のバトンをきちんとつなげなければ……という使命感のような気持ちが芽生えました。

■それぞれの選手が「脊髄損傷」という大けがを負った経緯

——たしかにこの本では当事者の証言が印象的に用いられていますね。これまでの稲泉さんの作品では証言は簡潔に絞り込まれていましたが、今回は証言をそのまま収めた箇所が目立ちます。なぜそうした手法を取ったのですか?

ぼくがこれまでに読んできたノンフィクションにも被取材者の語る生の声を大切に扱った素晴らしい作品がいくつもあります。たとえば、水俣病の若者たちを描いた吉田司さんの『下下戦記』。『仕事!』などスタッズ・ターケルのインタビュー・ノンフィクション、ノーベル文学賞を受賞した『チェルノブイリの祈り』もそうでしょう。当事者たちの語りを、自分なりに昇華して、ノンフィクションとして表現できれば、と思いました。

——元選手一人ひとりが「戦後復興、高度経済成長」という時代を背負っているようで、証言に引き込まれました。

そこをできるだけ生の言葉で書きたかったんです。それは脊髄損傷という大けがを負った経緯に象徴されています。

卓球に出場した笹原さんは、山梨県から丸の内の法律事務所で働くために上京しました。しかし東京駅で階段を踏み外してけがをし、車いす生活を余儀なくされました。

あるいは、アーチェリーの選手となった福岡の田川炭鉱育ちの近藤秀夫さんは、炭鉱の衰退をきっかけに一家離散を経験します。その後、石炭を運ぶ馬車屋で働き始めたものの、事故で脊髄を骨折してしまう。石炭から石油へ、とエネルギーの需要が変わっていくなか、近藤さんは子ども時代を過ごしていた。

なかには、バイク事故や工事現場の事故で、けがした人もいました。モータリゼーションが進み、多くの人がバイクに乗るようになる。都市開発が進んであちこちで工事が行われる……。社会が大きく変わっていくなかで、彼らは障害者として生きることになりました。

■パラリンピックは社会を変える当事者を生んだ大会だった

——元選手のなかには、障害を負ったあと「いつも死ぬことばかりを考えていた」「施設のなかでずっと生きていくものだと思っていた」と振り返る人もいましたが、パラリンピック後の人生は違うように感じました。パラリンピックが彼らの人生を変えたのですか?

きっと彼らにとって、パラリンピックは人生の一つのスタート地点になったと思うんです。障害者でありながらスポーツをする。日本を代表して大会に出場する……。彼らは、パラリンピックでたくさんの衝撃を受けました。

稲泉連『アナザー1964 パラリンピック序章』(小学館)
稲泉連『アナザー1964 パラリンピック序章』(小学館)

ただし、彼らの人生という長い尺度で見れば、パラリンピック後にも、乗り越えなければならないいくつもの課題に直面した。働く。結婚する。障害者スポーツの普及を行う。なかには障害者の労働条件を改善する社会運動にかかわっていった人もいました。

それぞれが、さまざまな場所で、新たな課題を乗り越えながら、日本社会を生きる障害者の先駆者となっていったのです。

インタビューを重ねるうち、ぼくは彼らに自然と敬意を払うようになっていました。一人ひとりが、モデルケースのない人生を歩み、「障害者の自立」という問題に向き合っていった人たちであったからです。その意味で日本初のパラリンピックは、社会を変える当事者を生んだ大会でもあったのです。(続く)

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稲泉 連(いないずみ・れん)
ノンフィクション作家
1979年生まれ。2002年早稲田大学第二文学部卒業。2005年『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』(中公文庫)で第36回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『こんな家に住んできた 17人の越境者たち』(文藝春秋)、『豊田章男が愛したテストドライバー』(小学館)、『ドキュメント 豪雨災害』(岩波新書)などがある。

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(ノンフィクション作家 稲泉 連 聞き手・構成=ノンフィクションライター・山川 徹)

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