「沙知代とケンカしたから家に帰りたくない」講演でそう話す野村克也の流儀
プレジデントオンライン / 2020年5月25日 9時15分
■講演が終わっても帰ろうとしない野村氏
「今日、家に帰りたくない」
新型コロナウイルスの影響が少し気になり始めた今年2月11日。私たちは朝から野村克也さんの訃報を知らされて無念の溜息をもらしました。私どもの日本経営合理化協会においてもつながりが深く、野村さんに講演していただいたことがありました。また、2017(平成28)年に亡くなられた野村沙知代夫人にも講演していただいたことがありました。
野村さんには、忘れられないエピソードがあります。パレスホテルで講演された野村さんですが、壇上に上がってこのように話されました。
「今日、沙知代とケンカをしてきたんだ。だから、家に帰りたくない」
出席されていた経営者の方たちはみな笑っていました。講演を終えて降壇され、控室に帰られたのですが、そこから待てど暮らせど全然帰ろうとしませんでした。控室を占領されていました。本当にケンカをされたようです。その後、どうなったかと言いますと、3時間後、沙知代夫人が迎えに現れて、二人で控室を後にされました。
■甲子園に一度も出場せずにどうやって入団したか
なぜ、野村さんの話をしているのかというと、その経歴が波乱万丈だからです。野村さんは三歳のときに、お父さんが日中戦争で戦死されて、その後はお母さんが女手一つで兄と野村さんを育てました。
貧乏家族でした。野村さんは小学校4年生の頃から新聞配達のアルバイトをしていました。学校の始業時間ぎりぎりに学校に着いていました。そのアルバイト料はもちろん自分の懐に入れず、お金の工面で苦労していたお母さんに渡したそうです。
中学3年生から野球部に入部し、高校3年間は野球漬けの毎日でした。しかし、甲子園には一度も出場していません。それでは、どのようにしてプロ選手になったのか。何と「南海ホークス・選手募集」の新聞求人広告欄を見て入団テストを受けての入団でした。1953(昭和28)年11月の頃でした。
体力には自信があった野村さんの、唯一の欠点は遠投ができなかったことです。80メートルが合格ラインでしたが、その5メートル前でボールが落ちてしまうのです。ところが、幸運でした。その日手伝っていた2軍選手が、「5メートル先から投げろ」と言ったらしいのです。そして、野村さんはブルペンキャッチャーとして合格しました。
■「この世界は才能だよ」と冷やかされても……
しかし、入団早々にコーチから言われたのは、「2軍のブルペンキャッチャーから1軍選手となり、活躍した選手はいない」。その言葉がショックで、野村さんは練習の虫になりました。
毎晩、練習後に宿泊所の裏庭で、素振りの練習をしていました。いいスイングの時は、ブッという音がしたそうです。スイングの音を耳で確かめながら素振りをしていると、1時間、2時間がアッという間に過ぎました。素振りごとに、「ダメだ」「よし」と自分で判定しながら、素振りをしたそうです。
チームの先輩たちからはよく冷やかされたそうです。宿泊所の裏庭で素振りをしていると、「野村、バットを振って1軍選手になれるなら、みんな1軍選手になっているよ。この世界は、才能だよ、素質だよ。きれいなお姉ちゃんのとこに行こう!」と誘ってきました。
その甘い誘惑にふらふらと乗りかけもしましたが、金がありませでした。だから、もっともな理由を言って断り、素振りを続けました。
■ファンからもらったアメリカの本が転機に
野村さんはバットをずっと振り続けて、マメを作って寝る毎日でした。そんな姿を、2軍監督がじっと見ていました。2軍監督は選手として褒めるところがないので、「よう頑張るな、おまえ」と声がけしたそうです。
2軍暮らしが長いこと続きましたが、そのうちチャンスが巡ってきました。入団2年目の1軍キャンプに2軍監督の推薦で参加できました。チャンスは次第に増えていきました。しかし、バッティングに欠点があり、カーブが打てなかったのです。
ところが、ある日、ファンから1冊の本を渡されました。『バッティングの科学』。アメリカで刊行された書籍で本文は英文でした。翻訳されたのは、1978(昭和53)年でした。野村さんがこの本を手にしたのは、1955(昭和30)年頃でした。驚いたことに、献本されたファンが英文を自ら翻訳して、野村さんに手渡したのでした。
野村さんはこの翻訳文を熟読して、ピッチャー一人ひとりに癖があることをつかみ、研究して打てるようになりました。これが後年、野村さんの代名詞になった「野村ID野球」の魁(さきがけ)でした。
野村さんは、80メートルの遠投を運のよさでクリアされました。この運のよさもまた奇跡です。つまり、野村さんには2回も奇跡があったのです。
■「先を見込んでの努力」を続けた川崎市の社長
野村さんの2回の奇跡について触れました。しかし、「これは奇跡でしょうか?」。私は奇跡とは思いません。野球においても、経営においても奇跡はないというのが、私の考えです。先を見込んでの努力としか思えないというのが、私の考えです。
2019(平成30)年1月に、お客様の「事業発展計画発表会」に出席しました。川崎市にある産業廃棄物処理をされている会社の発表会でした。この会社は、社長が勉強して、勉強して、1990年代に大きい焼却炉を建設しました。
いまから40年ほど前の川崎市は日本一の公害の街でした。それを払拭しようとして、大きな焼却炉を建設しようとした社長でしたが、その建築基準は全国でも一番厳しかったのです。しかし、社長は怯むことなく、何としてでも焼却炉をつくるという固い決意がありました。厳しい基準に合致した焼却炉を、銀行から何億もの融資を受けて、その社長は完成させたのです。
■経営には運の良い偶然は起こり得ない
その数年後に、何が起こったか。そうです、ダイオキシン問題でした。厳しい基準をクリアしているこの会社は、他の同業社がどんどん倒産していく中でどんどん仕事が入ってきました。
社長はこの発表会で、「奇跡だった」とおっしゃられました。しかし、私はその後の基調講演で申し上げたのは、「奇跡なんかない。経営には、運の良い偶然は起こりえない。すべては必然なのです」と申し上げました。
「野村さんの奇跡もそうですし、この会社の奇跡もそうなのですが、普段から努力を積み重ねているところに奇跡の神は舞い降りるもの。だから、奇跡は必然なのです」と申し上げたのです。
今回のコロナ騒動もまた、普段から何もしてないところには、「まさかの坂」で躓(つまず)いているはずです。普段からの備えをしているところは、苦しみながらも生きぬく力があります。
■野村氏は明智光秀に自分を重ねていた
昨年12月末に、野村さんから1冊の献本がありました。その書籍はご自身が執筆された『野村克也、明智光秀を語る』(プレジデント社)という書籍でした。
野村さんが長年の研鑽(けんさん)の末に得られた洞察力は、野球を越え歴史上の人物さえを語られるのか、と少し驚きました。野村さんはこの書籍で、「私の人生は弱者の人生なのである」と話されています。
「弱者の流儀」とはどのようなものかについては、若い頃の貧しい暮らし、ともに愛妻家だったこと等の光秀の人生との共通点を見つけ出し、その上で光秀には私と同じように〈想像して、実践して、反省する〉という思考があることを指摘されました。とくに、反省をしっかりとすることで、凡人なりの成功が確実に見えてくると話されていました。こうした日々の努力を生真面目に行う生き方を「弱者の流儀」と捉えていました。
明智光秀が歴史の表舞台に登場し、戦国の歴史に名を残すことになったのは、2回の奇跡があったからです。
■「敗者は私たちにとって人生の教科書です」
一つは、41歳で信長の家臣になったことでした。1567(永禄10)年美濃を手に入れ、「天下布武」を唱えた信長に、足利義昭を紹介するその橋渡し役を買って出たのが光秀でした。その光秀の才能を高く評価した信長は家臣として抱えたのです。
4千貫の高禄でした。この禄は佐久間信盛、柴田勝家という重臣クラスと同じでした。後年、豊臣秀吉になる木下藤吉郎秀吉のこの時期の禄は2千5百貫でした。
次の奇跡は、1575(天正3)年、丹波攻めの総大将になったことから始まりました。京都を押さえた信長にとって、中国地方、北陸地方のほとんどが手つかずのままでした。
そこで、光秀は丹波の情報を詳しく集め、丹波の地形を踏まえた戦術を練りました。それは、丹波は山岳の小さな盆地ごとに、豪族たちが砦を築いていたので、力攻めは極力避け、交渉を繰り返し、調略をもって豪族たちを味方に引き入れる作戦をとりました。
そして、5年目の1579(天正7)年に丹波平定を果たしました。この時期の光秀は丹波攻略のみに専念したわけではなく、信長の命令で幾度も転戦させられていました。こうした中での5年での平定は、奇跡に近いものでした。だから、信長からは激賞されて、丹波を領地として与えられました。
光秀もまた「弱者の流儀」でのし上がった人間です。信長に期待され、抜擢されて、丹波攻めを成功させて絶頂の時期もありました。しかし、その後、苦悩が横たわり、最後には謀反、敗北という形で己の生命を終えました。
その意味では、信長、秀吉、家康らの勝者たちよりもドラマチックで生々しく生きたのです。野村さんは、敗者は私たちにとって人生の教科書ですと語っていました。
■大変なときだが、根をしっかり張れば花は咲く
日本経営合理化協会の最初の経営理念は、「野火焼けど尽きず、春風吹いてまた生ず」というものでした。
コロナになぞらえてみますと、今、炎が激しく燃えているところだと思います。世界的に広がっています。コロナは地表にある草木を焼き尽くすほどの勢いかもしれません。しかし、根まで焼くことはできません。深く、深く根を張っておけば、やがて春風とともにまた緑の草原が生まれます。
日本経営合理化協会が年に2回、1月と7月に2泊3日で「全国経営者セミナー」という大勉強会を開催しています。毎回800人近い経営者が集い、用意された数多くのセミナーで学んでいます。
今年1月の「全国経営者セミナー」の控室で話していますと、次のようなことをおっしゃられていた方がいました。
「太陽さん、大樹というのは根っこが大事なのです。しかし、多くの人が土に埋もれている根っこには目を向けない。自分の枝をどうやって伸ばすか、早く花を咲かせたい、早く実を付けたい、そればかり気にするのです。しかし、重要なのは根っこなんです」
経営もまさに一緒だと思います。
経営者の皆さんは大変なときだとは思いますが、この1年はぜひとも根っこを深く、深く伸ばすことに注力をしていただきたいと思います。どんな環境にあっても、草木というのは毎年毎年美しい花を咲かせます。私は、経営も一緒だと思います。
人がある限り必ず光は生まれます。ですので、人を大事に、こういうときこそ根っこを大事にする経営を推進していただけたらと思います。この難局を皆さんと乗り越えていきたいと思います。
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日本経営合理化協会理事長
1972年東京生まれ。大学卒業後、アイルランドで和食レストランを創業。異境の厳しい環境で、創業の精神、強さ、忍耐、勇気、感謝の心を学ぶ。その経験と、事業を継ぐ決意とともに帰国、入協する。以来、社長専門の勉強会「実学の門」「無門塾」「後継社長塾」などを企画・運営。企画部長、事務局長、専務理事を経て2017年7月より現職。わが国屈指の社長専門コンサルタントで同協会理事長の牟田學から、事業経営の真髄と経営者としての心得について直接教えを受けた後継者である。2000社を超すオーナー社長や後継者と親密な関係を築くなかで、社長や後継者が抱える様々な悩みや事業承継問題に精通。その親身かつ適切な指導には特に定評がある。共著書に『事業発展計画書の作り方』(日本経営合理化協会出版局)、『「後継者」という生き方』(プレジデント社)、『後継社長の実務と戦略』(PHP研究所)がある。牟田太陽メッセージ【非常時に際して|野火焼けどつきず春風吹いてまた生ず◉日本経営合理化協会】
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(日本経営合理化協会理事長 牟田 太陽)
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