芥川賞作家の幸せ哲学「何かがなければ貧乏だなんて、誰が決めたことなのさ」
プレジデントオンライン / 2020年6月7日 11時15分
■世捨て人の楽しみは、安価な新書とCD
ふだんはあまり出歩きません。緊急事態宣言のせいではなく、もともと左足が悪いから、85歳の今は、ほとんどが家の中での生活です。
仕事をしていたころは、歌舞伎町だの銀座だの、いろいろとおもしろいところや不思議なところへ行きましたけれど、もうそういう場所ともとっくに縁が切れていますし、今の僕はさしずめ世捨て人ですね。
でも、世捨て人にも日々の楽しみはありますよ。一番の楽しみは、布団の上に仰向けに寝転んで本を読むことです。重い本だと長く支えていられないので、読むのは軽い本、つまり新書です。僕より若い学者さんが書いているものが新書に多いので、いろいろと教わることがあります。
例えば、僕の小学校で習った歴史は、戦時中でしたから、ひどく偏った内容でしたし、戦後の歴史もねじ曲げられたものです。それを信じ込まされて育ってきましたから、今になって「本当はこうだった」ということがわかる。これがたまらなく楽しいんです。
ほかに楽しみといえば音楽を聴くことですね。クラシックからポップス、歌謡曲まで何でも聴きます。僕が学生のころの昭和30年代初め、LP盤のレコードが1枚2300円。社会人の初任給が1万円くらいの時代でしたから、貧乏学生にはとても買えませんでした。
今は新書も安いし、CDも1000円もしないものがたくさんあります。ネットで雑誌や書籍も読めれば、音楽や映画も安価に楽しめます。収入が高くないという人でも、そういう廉価な方法で、楽しみながら教養を養う過ごし方もあるのではないでしょうか。
上を見て背伸びをすればキリがなく、横を見て肩を並べようとすれば、見栄を張りたくなるのが人間。しかし、そんな感覚でいると、たちまち生活は破綻してしまいますよ。
有名料理店で食事をするとか、お酒なんかも「17年ものだぞ」と言われると、つい味わいたくなって飲んじゃう。世間が「これがいいんだ」というものごとを鵜呑みにして、それをするのが人並みだと思い込んでいるから、ついつい浪費してしまう。そういう人が、案外と多いように思いますね。
年収300万円というと、手取りが240万円として月20万円。家賃が月5万円のワンルームに住んだとして、残るのは15万円。贅沢はできません。若い男性でも、それではお嫁さんも来てくれないでしょう。女性は勘定高いですから。
しかし、それでただ仕事に追われてあくせくしていたら、自分は何のために生きているのかと考えてしまう。つらくなります。やはり、お金がなければないなりに、日々の楽しみをどう見出すかが大事です。
楽しいこと、夢中になれることがあって、毎日ご飯が食べられて、晩酌にビールの一杯も飲めれば、それはそれで幸せなこと。お金なんかなくてもかまわないと僕は思いますよ。
■満州から内地に戻る途中、多くの死人が
自分が楽しいと思うこと、好きだと思えるものは何か、何かおもしろいことが身の回りにないかと探るのは、とても大事だと思います。特に、今の自分が不遇だと思えるときこそ、気の持ちようが大切です。
僕は小学4年のとき、満州で終戦を迎えました。子ども心に、3日もあれば内地に戻れると思っていたのですが、結局2カ月もかかりました。その間、どれほど死人を見たことか。着のみ着のままで帰ってきて、そのどん底が出発点でしたから「もうこれ以上、悪くなることはない。これからはよくなるばかりだ」と思っていました。
先輩作家の五木寛之さんもそう。彼も引揚げ者で、福岡から上京して早稲田大学へ進みました。貧乏で、大学時代にお寺の軒下で寝起きしていたことがあると言っていました。そんな彼が、あれほどの大作家になれたのは、自分の好きなこと、おもしろがれることを、どこまでも追い求めたからでしょう。
僕もロシア文学を専攻していましたが、同級生の中には妙なバイトをしている奴らがけっこういました。学業のほうはだめでしたが、そういう学業以外のところから、生きる道を見出した人も、何人もいたと思います。
思い通りにならないからと苛立っても、自分を貶めても、そこからは何も生まれてこないのです。
■あきらめて、別の選択肢を選んだ経験
僕自身の経験からして、会社に勤めた人が、社会的に一人前の職業人だと認めてもらえるのは、27~28歳くらいだと思います。
大学を出て、会社に就職したときを、社会人としての出発点ととらえる人もいるでしょうが、その時点ではまだ何者でもないのです。僕は、27~28歳ころになって、ようやく出発点に立ったという実感がありました。
まだお金を持たないそんな時期に大切なのは、自分が本当にやりたいことは何なのか、自分はどういう人間でありたいのかといったことを、じっくり考えてみることです。今の仕事にかかわることでも、仕事とまったく関係のないことでもかまいません。
大リーガーの大谷翔平選手やイチローさんは、幼いころからプロ野球の選手になると決め、それを実現しましたね。あまたいる野球少年の中にいて、プロになり、トップに立とうという選択は、思えばおそろしい賭けです。けれども、彼らが大成したのは「なれなかったらどうしよう」ではなくて「こうなりたい」が、無意識的に体に刷り込まれてきていたからではないでしょうか。
ただ、並の人間では、なかなかそうはなれません。誰しも「こうしたい」「こうありたい」と思いながらうまくいかず、あきらめたり、別の選択肢を選んできた経験があると思います。つまり、大なり小なり、その都度その都度が新たな出発点だったのです。
もし、今の実入りの少ない生活に満足できないとしたら、まぎれもなくそこは出発点です。自分の「こうしたい」「こうありたい」を、もう1度探してみましょう。これまでふるい落としてきた志も、無碍に捨て去ることはありません。むしろ、その中に本当に自分に合った好きなもの、やりたいことがあるかもしれません。
■ライバルがいる人は、幸福だ
そうして自身を見つめるとき、自分のまわりにいる人たちを見渡してみることも大切だと思います。特に、ライバルといえる人を、そこに見出せるかどうかです。
ライバルがいる人は幸福です。なぜならライバルは、お手本でもあるからです。「あいつにはかなわない」という点があれば、自分に足りないものが見えてくる。あるいは、自分の長所を生かして、相手の上を行く方策が見つかるかもしれません。武者修行で、他流試合に挑む剣豪にでもなったつもりで、いろいろと想像してみるのもいいと思います。
今を出発点に、何らかの新たな行動を起こす。どんなに小さなものでもいい。そのときに抱く夢や志が、はじめの一歩になります。
日本は、経済面で長期低迷が続いていますから、今は40代でも年収が300万円台という方も、少なくないかもしれませんね。少し、生活の価値とは何かを考えてみませんか。
■押し入れの持ち物に「自分」がいる
僕には、子どものころから切望しながらも、果たせなかった夢があります。それは、父親と一緒にキャンプに行き、飯盒で米を炊いて、焼いたイワシの丸干しをおかずにご飯を食べることです。しかし、10歳のときに父を亡くしたので、この夢を叶えられませんでした。
それでも、これをやってみたかったと思うことが、今ですらしばしばあります。飯盒と丸干しの食事など粗末なものです。けれど、もしそれが実現していたら、父とのキャンプは、幸福な一場面としてその後の僕の人生に残ったでしょう。
生活の価値は、世間が決めるものではなく、自分が決めるものだと思います。40代以降で実入りが少なく、生活が少々苦しくても、日々に感じる幸福があるなら、それこそが価値といえるのだと思います。
社会は大きく変わるといわれてきました。そうした予測が、今回の新型コロナの世界的なまん延で、現実のものになるかもしれません。だとすれば、この騒動によって年齢や年収にかかわらず、皆が新たな出発点に立たされたと思ってもいいのではないでしょうか。
例えば、大きな会社に勤めていれば一生安泰だとか、年功序列だとか、これまでの通念めいたものが一切当てにならない社会に変わったら、自分はどう生きるのか。今が、それを考えてみる好機なのかもしれません。
難しい話ではないのです。緊急事態宣言もあって、在宅勤務を継続している方も多いと思います。仕事の合間に押し入れや納戸にしまい込んである自分の持ち物を整理してみてはいかがでしょう。「なぜ、こんなのを」というものも出てくるでしょう。しかし、とって置いたのには必ず理由があり、そこに「自分」がいます。実入りの少ない生活から抜け出すヒント、今いる出発点から新たな行動や生活観を考える種が、そこから見出せるかもしれません。
そのときに大切にしてほしいのが、役に立つかどうかではなく、先述した「自分が楽しいと思うこと」「自分に幸福を与えてくれるもの」は何か、という尺度なのです。
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作家・詩人・翻訳家
1935年、東京生まれ。早稲田大学文学部卒業。芥川賞、谷崎賞など受賞歴多数。2007年日本芸術院賞恩賜賞。著書に『鶸』『裸足と貝殻』『若き詩人たちの青春』ほか。
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(作家・詩人・翻訳家 三木 卓 構成=高橋盛男 撮影=小倉和徳)
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