安倍首相を「独裁者」と呼ぶ人たちにとって不都合な歴史的事実
プレジデントオンライン / 2020年6月5日 9時15分
※本稿は、兼原 信克『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』(新潮新書)の一部を抜粋・再編集したものです。
■いつ「有事本番」が起きてもおかしくない国際政治の現実
世界がコロナ対策に気を取られている最中、尖閣諸島では中国の活動が活発化している。5月に入って連日、日本の領海への中国船の侵入が続いており、中国公船が日本の漁船を追尾する事案も発生している。
もちろん、中国船の日本の領海への侵入はそれ以前からも続いていたのであるが、最近になって活発化しているのは、3月に米原子力空母「セオドア・ルーズベルト」の艦内で新型コロナウイルスの感染者が発生し、太平洋上での監視活動の一時中断を余儀なくされたことも関係していると見られる。
国際政治において、「力の空白」が発生すると、すぐにそれを埋めようとする勢力が現れるのは、世界中を覆うパンデミック(疫病の世界的大流行)の最中でも全く変わらない。
■シビリアン・コントロールの要としての国家安全保障会議
私は、第2次安倍政権における外政担当内閣官房副長官補として、2014年に発足した国家安全保障会議と国家安全保障局の立ち上げに関わり、初代の国家安全保障局次長を兼務して、通算7年の歳月を総理官邸で過ごした。
安倍晋三総理は、集団的自衛権行使の是認を始めとして、戦後史に残る大規模な安全保障制度改革を成し遂げた。国家安全保障会議(日本版NSC)の設置は、その諸制度改革の要の一つである。
その間、一貫して私の脳裏を離れなかったのは、有事の本番で国家安全保障会議が本当に機能するのかどうか、という一点であった。
国家安全保障会議は、外交、政治、財政などの政府の仕事と、総理直轄となる軍の作戦指揮を総合調整する政府最高レベルの会議であり、日本のシビリアン・コントロールの要である。太平洋戦争中、東条英機内閣の下にあった大本営政府連絡会議や、小磯国昭内閣下の最高戦争指導会議に比肩すべき組織である。
■東条英機も悔やんだ「統帥権の独立」の愚
昭和前期の日本では、国務(外交)と統帥(軍事)が完全に乖離(かいり)し、統帥権独立を濫用した軍が暴走し、大日本帝国は崩落した。300万人の同胞が無為に死んだ。
東条英機総理は巣鴨プリズンで絞首刑になる前、かつ子夫人から差し入れられた土井晩翠詩集の余白にびっしりと無念のメモを書き込んでいた。その中で記しているように、東条は、統帥権の独立と軍内部に蔓延した下克上の雰囲気が、国務と統帥の統合を難しくしたと明瞭に認識していた。
昭和前期の日本軍を、総理大臣、陸軍大臣、参謀総長を兼務した東条でさえ組み伏せることのできないビヒモス(怪物)に育て上げた原因は、この「統帥権の独立」であった。
「統帥権の独立」の火付け役は、1930年代、海軍内の艦隊派と呼ばれた人々であったが、これを憲法論に仕立てたのは帝国議会である。野党の政友会がロンドン海軍軍縮条約を利用して、民政党の浜口雄幸首相を攻撃する材料に使ったのだ。政友会は、内閣が「陛下の権限である統帥権を干犯している」と主張して、なぜ軍艦の数を政治家や外交官が決めているのだ、と突き上げたのである。
これは日本憲政史上、最大の失敗であった。なぜなら、この時以降、統帥権が独立し、軍の専横と暴走につながったからである。シビリアン・コントロールの一翼を担うべき帝国議会が、こともあろうに軍を野に放つような憲法論を提唱したのである。これほどの愚はあるまい。
■過ちの歴史を繰り返さないために
この過ちの歴史を繰り返さないために、どのような国家安全保障戦略を立てるべきか。そして国家安全保障会議をどういう組織にし、いかなる運営を心掛けるべきなのか。つまるところ、政治と軍事の関係はいかにあるべきか。その問題が在任中、いつも脳裏から離れなかった。
今回のコロナ禍についても、世論は「果断な決断」を求め続けたように感じる。小池都知事や吉村大阪府知事のような自治体指導者に注目が集まり、それと対比される形で、対策が後手に回っているように見られた安倍総理の支持率が下がった。
外側から眺めている国家権力というものは、人によっては万能かつ強力に見えるかもしれない。しかし、その内側で過ごしてみると、「国家権力にできることには限界がある」というのが偽らざる実感である。財政赤字の続く日本では、どの省庁であっても予算の確保も人員の確保も思い通りにならない。世論の動向にも常に気を配らなければならないし、その世論は政権に対して極端に割れている。民主主義国家である日本の政府は、中国やロシアのように振る舞うわけにはいかない。
■「バランスの取れた決断」こそ政府の使命
そうした制約がある中で、国内や世界の課題に目配りをしながら、手探りでバランスの取れた決断をしなければならないのが日本の政府である。その政策は常に、国民のどこかしらに不満が残るものにならざるを得ない。国民の多くが求めるような果断に見える決断は取りえないし、それが常に最善であるとも限らない。
ましてや、軍事問題に対しては「そもそも考えたくない」という国民が多く、忌避感が非常に強い。誤解を恐れずに言えば、国民の多くが求める決断をした結果、国を誤らないとも限らないのだ。
戦後75年続いた泰平の世は、日本から現実主義的な安全保障の感覚を奪った。戦後の日本は、日米同盟と言う分厚い皮膜の中で、自衛隊の活動を厳しく抑制してきた。「だからこそシビリアン・コントロールは貫徹されているのだ」と考える人がいまだに大勢いる。しかし、そんな状態のままで、実際の有事の際、文民出身の政治指導者が死地に赴く20数万の精鋭の自衛官を戦略的に指導できるだろうか。国民と国家の安全確保を全うすることが、本当に可能なのか。
■「戦前の反省」に基づいて創られた国家安全保障会議
有事においてその重責を担うのが、総理の主宰する国家安全保障会議(日本版NSC)である。総理が危機に際して国家指導全体を担う「脳」、自衛隊が実際に体を動かす「筋肉」、政府の各省庁がもろもろの「内臓」だとすれば、その結節点にある国家安全保障会議は神経を束(たば)ねつなぐ「脊椎」である。
有事の本番において、この脊椎には凄まじい政治的、軍事的圧力がかかるだろう。私は、有事においてそれがぽきりと折れるようなことがあってはならないと思い、人知れず悩み続けてきた。政権中枢が鋼鉄の枠組みのようにしっかりしていなければ、政権は直ちに崩壊するであろう。そうなったら、戦前の大本営政府連絡会議と同じ過ちを繰り返すことになる。
国家安全保障会議はいまだ生まれたばかりの組織である。幸いにして戦火の試練も受けていない。率直に言って、その達成度はまだ4合目といったところだ。残念ながら私の問題意識は、私の非力の故に、共鳴してくれた少数の同僚、友人を除いて、広く分かち合われることはなかった。しかし、今後は志ある政治家や、外務省、防衛省、自衛隊、警察庁等から国家安全保障局に参集する俊英たちが、国家安全保障会議を改善、強化し、日本に真のシビリアン・コントロールの伝統を根付かせていってくれると信じている。
■近代日本の「失敗の本質」を見据えよ
このたび筆者が出版した『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』は、戦前の日本において、外交と軍事の総合調整、古い言葉でいえば「国務と統帥の統合」がどのように形成され、破綻したかを再検討した本である。
そのために、明治以来の近代日本の来し方──歴代総理の戦争指導、昭和前期に生じた国務と統帥の分裂による軍の暴走、大日本帝国の滅亡の歴史──を振り返っている。日本の行動を世界史の文脈に置きながら、今を生きる私たちが祖国の歴史から何を教訓としてすくい取ることができるのかを再考してみた。
同時に、統帥権の独立と軍の暴走がなかったら、日本は二十世紀の世界の潮流について行けていたのだろうかという「仮定の問題」も併せて考えた。
十八世紀末の産業革命は、人類に高度な工業技術を与え、初めて地球的規模で人類を大規模に結びつける力を与えた。人類社会全体を構想し、組織化することが可能になった。それ以降、人類社会は、ゆっくりと倫理的に成熟してきた。戦争から平和へ、ブロック経済から自由貿易へ、独裁から自由へ、そしてあらゆる差別や格差から平等へ。
しかし、その過程では世界大戦、全体主義、共産革命、独裁、大量虐殺、都市労働者の貧困、人種差別、地球的規模での植民地化等、多くの過ちが起きた。
それでも今、個人の尊厳を基盤とした、合意に基づく自由主義的な国際秩序が、地球的規模でその大きな姿を現しつつある。
『歴史の教訓』では、20世紀前半の日本はなぜ、人類社会の倫理的成熟を待てなかったのかという問題も併せて考えた。その問いこそが、21世紀に日本が拠(よ)って立つべき「価値の外交」を構想するための鍵を、今を生きる私たちに与えてくれるからである。
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同志社大学特別客員教授、元内閣官房副長官補
1959年山口県生まれ。81年に東大法学部を卒業し、外務省に入省。外務省国際法局長を経て、2012年に内閣官房副長官補に就任。2014年より新設の国家安全保障局次長を兼務。2019年に退官。2020年より現職。
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(同志社大学特別客員教授、元内閣官房副長官補 兼原 信克)
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