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人類史で「経済発展と感染症」がいつも表裏一体である根本理由

プレジデントオンライン / 2020年6月11日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/cristianoalessandro

世界中で感染症が流行するのは、どんなタイミングなのか。世界史講師の斎藤整氏は「14世紀に西欧と中国で同時にペストが大流行したのは、ユーラシア大陸の開拓が進んだためだった。経済的発展と感染症の流行は、表裏一体の仕組みになっている」と解説する――。

※本稿は、斎藤整『ヨコで読む大人の世界史』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■モンゴル軍がペストをヨーロッパに持ち込んだ?

1300年頃までのヨーロッパは「大開墾時代」と呼ばれていました。当時の気候温暖化は農業生産の向上を招き、やがて大幅な人口増加につながりました。しかし、人口の増加を喜んでばかりはいられませんでした。人は増えても土地は増えないからです。結果、新しい土地を求め、森の木が次々と切られていきました。鬱蒼(うっそう)とした森林はやがて、人間が耕す畑、住居、村へと変わっていったわけです。

そして、当時のヨーロッパにおいて未開の地であった東欧へと人々の移住が進みます。この集団移住は「東方植民」と呼ばれていました。13世紀にアジアのモンゴルがヨーロッパへと侵入したのは、まさにその頃、大開墾時代のこと。東欧の森林は開墾によって消えつつあり、モンゴルの騎馬軍団にとっては通過しやすかったのでしょう。

■自然との共生を破壊したときウイルスが暴れ出す

モンゴルは、中国南方にあった大理(だいり)という国への侵入を、ヨーロッパ侵入とほぼ同時期に行なっていました。しかし、この大理国の奥地には、恐ろしいペスト菌が存在した可能性が指摘されています。つまり、モンゴルの大理国侵入がペスト菌を西欧に運んだ一因、という見方もできるのです。

斎藤整『ヨコで読む大人の世界史』(KADOKAWA)
斎藤整『ヨコで読む大人の世界史』(KADOKAWA)

かつては東欧の深い森が感染症の防波堤だったのに、東方植民によって森林はすっかり農地と化した。感染症に対し、ヨーロッパはまったくの無防備状態となっていたわけです。ウイルスは古来より、自然や人間と共存してきました。しかし、人間が分け入ってはならない自然の奥深くまで触手を伸ばしたことにより、ウイルスの復讐が始まったともいえます。

ペストの起源を中央アジアとする説もありますが、いずれにせよ、ペストは人間による環境破壊が生んだ産物であることは間違いありません。自然との共生という暗黙のルールを破ったときにウイルスが暴れ出すのは、20世紀末にアフリカで大流行したエボラ出血熱などと同じ構造です。

■3000万人近くを死に追いやったペスト

13世紀から、ヨーロッパでは地震が多発していました。イタリアを例にとると、13世紀に48回、14世紀には51回の地震が記録されています。地震の多さは、イギリスや東欧諸国でも同様でした。

それだけではありません。14世紀には、低温が長く続く「小氷河期」に入り、農業生産は減少します。じとじとと長雨が続き、さまざまな病気も蔓延しました。そしてヨーロッパのみならず、当時はアジアの中国も同様の状況に見舞われていました。感染症が流行する条件はそろっていたのです。

そうした環境下の14世紀後半、ついにペストがヨーロッパを襲います。このとき流行したのはリンパ腺を侵す「腺ペスト」が主で、体が黒ずんで死ぬため「黒死病」と呼ばれていました。

ペストによる死亡率の高さは異様でした。たとえば、フランスのモンペリエにあるドミニコ修道院では150人中143人が死亡。ほぼ同じ規模のフランチェスコ修道院に至っては全員が死亡しています。廃墟となる修道院や村も続出したようです。

当時のヨーロッパの人口は推定7500万人。このうちペストによる死者は約2500万~2900万人とみなされています。実に人口の3人に1人がペストで死んだ計算で、まさに人類史上最悪の感染症禍でした。

そして、まったくの同時期に中国でも“謎の感染症”が流行していました。その結果、西欧と中国で似たようなある現象が生じます。世界史を変えてしまうほどの農民反乱が、西欧と中国で同時に発生したのです。

■ヨーロッパと中国で同時に起きた農民反乱

フランスでは1358年ジャックリーの乱、イギリスでは1381年ワット=タイラーの乱と呼ばれる農民反乱が発生しました。どちらもペスト禍による農村人口の激減や社会不安などが背景にありました。

それまでの中世の農村(荘園)では、領主がいわば君主のように絶対権力をふるっていましたが、農民の多くがペストで死ぬと立場が逆転し始めます。労働人口の激減は、逆に農民の地位を引き上げる結果となり、西欧社会は農奴解放へと向かっていきました。

中国でも、西欧とほぼ同時期に農民反乱が起きていました。1351~66年まで紅巾(こうきん)の乱と呼ばれる反乱が発生し、元(げん)朝を滅亡へと追いやったのです。

ヨーロッパと中国で同時に起きた農民反乱
『ヨコで読む大人の世界史』(KADOKAWA)より

これは、フランスにおけるジャックリーの乱と完全に時期が重なります。しかも、背景に自然災害やそれに対する元朝の無策など、社会不安があったのも同様でした。

■経済的繁栄と感染症は「コインの裏表」

さて、モンゴルが謎の感染症、つまりペスト菌が眠っていたとされる中国南部を征服して東欧に進出した頃、西欧では東方植民による森林開拓が進んでいたわけですが、結果、ユーラシア大陸の一体化が完成し、経済的にも大きな盛り上がりを見せました。

しかし、こうしたユーラシア大陸の一体化はもろ刃の剣でした。皮肉にも、中国南部で発生したペスト菌は、またたく間に西欧を襲う結果となったのです。

ユーラシア大陸の一体化は空前の経済的繁栄を生んだが、連鎖的に、感染症の同時多発につながる危険性も生んだ。いわば「コインの表裏の関係」と同じです。

「人類の経済的繁栄」という“表”を取れば、「感染症による大量死」という“裏”も必ずついてくる――新型コロナウイルスが現にパンデミックとなってしまっている今、世界各国は特に経済において厳しい局面を迎えており、各国それぞれが難しい選択を迫られているのは言うまでもありません。

でもそれは、マクロの視点では、人類が経済的発展の道を歩んできたことの裏返しとも言え、14世紀にヨーロッパを苦しめたペスト大流行に至るまでの過程(経済的繁栄→環境破壊→感染症の拡散)に見る「負のつながり」は、現代になってもなお“不変の法則”と呼べると思います。

しかも、かつての西欧や中国では“アフターペスト”の社会不安を背景に反乱も発生しています。今を生き、自分自身や家庭、そして一国の懐(ふところ)を支えている立場としての私たちは、「表があれば裏もある」、物事を進めていくにあたっては、いつもこのことをしっかり認識しておかなければなりません。

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斎藤 整(さいとう・ひとし)
学研プライムゼミ特任講師
慶応義塾大学史学科でイスラーム史と比較文化を学び、その後、駿台予備校や東進ハイスクールなどで教鞭をとってきた。学研プライムゼミでは世界史を担当。

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(学研プライムゼミ特任講師 斎藤 整)

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