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放送作家「テラスハウス問題に潜むテレビ局あるあるの編集テク」

プレジデントオンライン / 2020年6月15日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/maxcam2008

■リアリティー番組の出演者による自殺が増えている

女子プロレスラーの木村花さんが亡くなった。22歳、レスラーとして前途有望な将来を前に、あまりにも早すぎる突然の死だった。

ご遺族の意向をくみ死因こそ明らかにされていないが、出演中だったリアリティーショー「テラスハウス」(フジテレビ系、ネットフリックスで配信)での彼女の振る舞いに対する、SNSなどの誹謗(ひぼう)中傷が大きな要因であると報じられている。韓国では既に、大手ポータルサイトが芸能ニュースのコメント欄を封鎖する中、日本でもようやく誹謗中傷対策の是非が取り沙汰され始めた。

防止策は議論されてしかるべきテーマだが、何よりリアリティーショーという番組の在り方について、こちらも考察すべき事案が多いように感じる。海外ではリアリティーショーの出演者が、自殺などにより30人以上も亡くなっているという報道さえある。その事実にも驚かされるが、母体となる出演者の人数を踏まえると、この死亡率の高さは検証が必要な“異常な値”でもある。

一般的なテレビドラマなら、どれだけ悪態をつき、嫌みな行動をとっても「役を演じている」とみなされる。しかしリアリティーショーは、番組の性質上、「個人」の言動や性格に直結するように映る。かるが故に、番組へのクレームではなく、出演者本人にその矛先が向けられてしまう。

■テラハメンバーが「ムカついてた」こととは

もちろん、過去にもヒロインをとことん“いびる”役を演じた女優に、脅迫電話が寄せられるなどの騒動も多々あった。しかし今は、お茶の間でテレビ画面に向かって呟いていた悪口が、ごっそりとそのままネットに乗っかり、SNSを通じて相手まで安易にたどり着いてしまう時代だ。事実海外では、不快感を言葉としてぶつけながらリアリティーショーを見る「ヘイトウォッチング」なる楽しみ方さえ存在する始末……。「有名税」を持ち出しての批判もあるが、演者の精神的負担は昔の比ではないはずだ。

木村花さん訃報に際し、テラスハウス関係者の言葉を拾うと、編集方法について言及している発言が多いように受け取れる。あるメンバーの1人はツイッターで「何も指示されていない」と示しながら、同時に「編集にはムカついてたけどな」とも発信している。出演者と制作者の間で、どういうやりとりが行われていたかは定かではなく、推し量ることしかできないが、彼が指摘したこの内容はおそらく彼の目から見た事実であろう。

結論めいたことを先に述べてしまうと、内容の方向性を完全に出演者に任せきるような番組の作りは、制作側としては怖くてトライできないと想像される。

その理由を、編集も含めた「番組における演出の在り方」から思索してみたい。

■制作側の感想やアドバイスは「指示」になるのか?

リアリティーショーの前提は、台本が無い中でカメラを回し、日常のやりとりをドキュメンタリーの要素を入れつつ公開する。つまり、普段は直視することのない人間の本性が垣間見えるほど、番組の特性が“よく出ている”という評価につながる。だとすれば、回を追うごとにショーとしての面白さを求めるのは、作り手として当然の思考回路である。

おそらくだが、制作者と出演者が全く交流しないということは考えにくい。ベッタリでなくても、ピンポイントで感想やアドバイスを行う場面はあったはずだ(逆に、全く交流が無かったとすれば、それはそれで「出演者の心のケア」という観点で問題だ)。出演者側に立ち返っても、求められる意図をくみ“番組を盛り上げたい”と少なからず思案してくれていたことだろう。

先程のメンバーの発言に立ち返れば、そうした場面を「指示」と呼ぶかどうかは、やはり双方の裁量と解釈による。「雑談」と呼んでしまうことだって可能だ。だが、その雑談こそ、私意として制作側の意図を伝える役割を持つことを、明瞭に確認しておかなければならない。

■「思いもよらない展開」と「想定した流れ」を望む矛盾

「2人でお出かけとか行ってみる?」=(くっつかないかなぁ)
「あの人のことイヤならバシッと言ってもいいよ?」=(対立しないかなぁ)

と、打ち合わせや会議の場で伝えるのとはまた違い、雑談には雑談でソフト部分に占める伝達の役割が大きい。指示ではなく、あくまでリクエストの範疇である。ただ、出演者サイドから見ても、誰を軸に各回のストーリーを組み立てるか、困ったら誰に話すか……など気持ちの運びや展開を整理し、本番に向かう場合も多い。

そうした演者との調整がまた、目に見えない制作者の「手腕」と評価され、現にタレント対応に優れた制作マンは、やはり業界で重宝されるようにひしと感じる。

台本があっても、演出がある限り100%のリアルではない。制作陣が環境や感情の矛先をコントロールするだけで、文字通り「強制」はしていないのだろう。だが、そこに制作者と出演者という関係性が根を張るならば、ちょっとした雑談も、ひとたび「強制」へと姿を変えかねない。

「思いもよらない展開!」をあおる番組でありながら、「想定した流れで盛り上がってほしい!」という制作側に横たわる矛盾。そして、その狭間を埋めるのが「演出」というグレーゾーンでもある。

■一昔前の番組は「視聴者に不親切」だった

今回の騒動から核心を掘り下げれば、演出とリアルの線引きを詳(つまび)らかにしてこなかった、という背景が首をもたげる。最近であれば「痛快!ビッグダディ」(テレビ朝日系列)だって、古くは「はじめてのおつかい」(日本テレビ系列)だって、リアリティーショーである。記憶をたどれば、おつかい途中に映るカメラむき出しのスタッフ、住民に扮したスタッフ……あのちょっとした「隙間の現実」が、主観的になりがちな人間を客観視させ、リアリティー“ショー”として、ほどよい心持ちで楽しませてくれていたのだと感慨深い。

自粛期間中、ふと一昔前の録画番組を、“VHS”を引っ張り出して見てみた。数本見終えて、昨今の番組と比べて感じた点は“とても視聴者に不親切”ということだ。出演者のコメントをフォローする字幕などのスーパーもない。スタジオはほとんどノーカット。「ビシッ!」「ガ~ン!」みたいな効果音も、イラストさえももちろんない。ただ不思議と“観づらい”という感想は芽生えなかった。かえって「しっかり見よう」という思考が働き、より集中して楽しめる、そんな快味さえあった。

今のテレビ制作は、「笑い声」ひとつ取っても、映像にかぶせる声を無数にあるストックから吟味して選んでいる。年齢、性別はもちろん、「大爆笑」なのか、「ジワジワこみ上げてくる笑い」なのか、「数人程度の嘲笑」なのか。それぞれの場面に合う声を、一つひとつ丁寧に加えていく。画面下に絶えず表示されるようになった「文字フォロー」においても、フォント・色味から出すタイミングに効果音と、これまた細に入り組み込まれている。

■対立構図を分かりやすく示しながら笑いをとる

例えば、スタジオで「爆笑の笑い声」を足しつつ、唯一笑っていない人間の顔を、鹿威(ししおど)しの効果音などを乗せ、どこかひょうげて映し出す。これにより、本人はたまたま気を抜いていただけでも、編集の冥利(みょうり)によって「ムッとしている」ような印象操作ができる。オーバーかもしれないが「この部分を楽しんでね」と対立構図を分かりやすく示しながら、何度も“てんどん”して(業界用語で同じギャグを繰り返す意味)、笑いを増幅する。これも現場では演出の範疇として認識されているのだ。

しかしながら、はたとわれに返り、テロップやスーパー、感情を誘導する演出が無ければ視聴者は番組から離れていくのか、と思慮を巡らせた場合、「必ずしもそうではないのではないか?」と感じてしまう。1カメラで一方的に言葉を発信し続け、情報が目くるめく打ち出されるYouTubeを「面白い!」と閲覧する若者が大多数いる。その事実が、如実にそれを物語っている。

ここ数年、テレビ番組も記者会見を生で“取る”という手法が増えた。当初こそほとんど編集を加えない「だだ流し」への拒否感も制作陣で根強かったが、いつの間にやら「速報性」というお題目が取って代わって掲げられるようになった。言わずもがなスーパーなども最小限の“生対応”だが、それでも多くの視聴者が見てくれている。つまり、「見たい欲求」と、過剰な演出はそれほど関係ないのかもしれない。

■「演出合戦」が視聴者を過保護に育ててしまった

最後に。長らく続く演出合戦に終止符を打つ機会になり得るとすれば、皮肉にも今なお続く「新型コロナウイルス」なのではないかという私見にたどり着いてしまう。感染防止を第一に、画面からひな壇と呼ばれる人たちが姿を消し、リモート収録も多用された。画面の裏側にいるこちらもリモートを含め、少人数での作業を強いられた。クオリティーを求める制作者としての矜持をいったん横に置き、「できないことは無理をしない」と割り切ったこの制作状況でも、視聴者としては気にならない“それなりの(十分な)放送”ができたのだ。

今のテレビは、視聴者が求めていると思い込んで過剰な演出をエスカレートするあまり、逆に視聴者を過保護に育ててしまった。そんな功罪が、蜃気楼のようにうっすらとながら、それでいて確実に業界全体を覆っているように感じる。視聴者を育てるなんて言葉は甚だおこがましいが、親切すぎるほどスーパーやテロップ、そして副音声を多用する今のやり方は、結果として一面的な捉え方に視聴者を誘導していることは否定できない。多様なメディアが混在する現在、「テレビをどう見てもらうか」という問題提示も、また番組に課せられた役割ではないだろうか。

……と、つらつら述べつつ、「じゃあ今後どんな番組が求められるのか」と問われると、現場であくせく働く人間として、ブーメランの返答に窮してしまう。だが、出演者が命を絶つような番組だけは、二度と制作してはならないことだけは言をまたない。少なくとも、今回の件について検証する番組の制作を考えてほしいと、メディアの末席にダラダラと腰掛ける人間でさえ希求する次第だ。

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姫路 まさのり(ひめじ・まさのり)
放送作家・ライター
1980年、三重県生まれ。放送芸術学院専門学校を経て現職。ライターとして朝日新聞夕刊「味な人」などの連載を担当。HIV/AIDS、引きこもりなどの啓発キャンペーンに携わる。著者に『ダウン症って不幸ですか?』(宝島社)、『障がい者だからって、稼ぎがないと思うなよ。ソーシャルファームという希望』(新潮社)がある。

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(放送作家・ライター 姫路 まさのり)

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