日本では「35歳までに子育てを始める」のがあまりに難しすぎる
プレジデントオンライン / 2020年6月22日 15時15分
※本稿は、熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)の一部を再編集したものです。
■かつての子育ては「地域共同体」で行われていた
かつての子育ては、地域共同体のなかで集団的に行われ、子育ては金銭の授受といった社会契約のロジックにあまり基づいておらず、地縁や血縁といった伝統的な社会関係のなかで、地域共同体の共有地の内側で行われていた。
社会学者のテンニースの表現を借りるなら、子育てはゲゼルシャフト(社会契約や資本主義)よりもゲマインシャフト(地域共同体)の領域で行われていたと言える。もちろんそれは良いことづくめではなく、子育ては親の自由意志だけでは成り立たず、地域共同体に従わざるを得ない不自由もあった。
他方、令和時代においては、法制度も含めた社会契約のロジックと資本主義のロジックが地縁や血縁のロジックに完全にとってかわり、徹底されるようになった。もし子育てに不自由を感じることがあるとしたら、その不自由の在り処は社会契約や資本主義の領域に根ざしていると言ってしまって概ね構わない。
こうしたゲゼルシャフト的な通念や習慣、法制度は、現在では社会の隅々にまで行きわたっているから、これらに逆らった子育ては実行するのはおろか、想像するのも容易ではない。後先を考えずに生殖し、子どもを次々に産み、路上で遊ばせ、教育に頓着しない子育てを、たとえば本書の読者はいったい想像できるだろうか。
■社会に迷惑をかけない子育てが求められている
ハイレベルな秩序を実現させた社会契約のなかでは、子どもとは、唐突に他人に迷惑や不快感を与えかねないリスクを含んだ存在だから、親はできるだけ子どものことで他人に迷惑や不快感を与えないよう、注意深く振る舞わなければならない。子ども自身も、他人に迷惑や不快感を与えないよう早くから期待され、そのように行動できなければならない。
と同時に子どもはかつてないほど大切にされなければならなくなり、虐待やネグレクトは忌むべきものとなった。体罰が否定されるのはもちろん、日に日に高まっていく社会全体の敏感さに抵触しない子育てを成功させなければ、社会から親として不適格とみなされるおそれがある。そうした通念や習慣をどこまでも内面化している親たちは、子育てに瑕疵があれば罪悪感や劣等感に苛まれることになる。
地域共同体が子育てのリソースとしてあてにならなくなり、子育てに関するあらゆるモノやサービスが金銭で贖われなければならなくなったことによって、狭義の教育はもちろん、現代人にとって必要不可欠な通念や習慣すら、親自身が教えるかインストラクターにお金を払うかしなければ子どもは身に付けられなくなった。上昇志向のブルジョワ的な通念や慣習をよく内面化した現代人にとって、子どもが何も身に付けられないまま年齢を重ねていくなど容認できるものではないから、お金がなければ子育ては成立しないし、始めるべきでもない。
■日本で最も子育てが始まらない街「東京」
現代社会の通念や習慣が徹底している模範例として、本書ではたびたび東京をピックアップしているが、その東京の合計特殊出生率は1.21(2017年)である。日本で最も子育てが始まらない街と言っても差し支えないだろう。東京のベッドタウンである神奈川県や埼玉県、千葉県の合計特殊出生率も、日本のなかでは際立って低い水準をマークしている。
最も秩序の行き届いた東京とその周辺が、最も子どもが生まれ育たない街であることが、私には偶然とは思えない。
東京やその周辺で子育てが始まらない背景のひとつとして、子どもが保育施設に入所できない待機児童問題がある。もちろんそうではあるのだが、待機児童問題が起こっているのは0~2歳の低年齢児である。
昭和時代であれば地域共同体のなかで子守りされ、母親が授乳していたであろう年齢の子どもが待機児童としてクローズアップされているということは、子どもがごく幼い段階から母親も働かなければならなくなったこと、地縁や血縁があてにならなくなっていること、子育てがその最初期から資本主義や社会契約のロジックに組み込まれていることを示唆している。そのことに東京の人々も日本の人々も、もう疑問や違和感を覚えることはない。なぜならそれは資本主義や社会契約のロジックの浸透と徹底という、20世紀から21世紀にかけて日本社会全体で起こった変化に沿ったものだからだ。
■かかるお金は増えたのに、「産める期間」は延びていない
東京とその周辺の人々は、こうした資本主義的で社会契約的な子育てにすっかり馴染んでいて、子どもの教育にも多くのお金をかける。上昇志向な子育てを全国で最もやってのけているということは、子育てに対する彼らの“賭金”は全国で最も高い水準だということであり、勢い、全国で最もコストやリスクに敏感な子育てとならざるを得ない。人口過密に伴う住宅事情の厳しさも手伝って、経済的なバックボーンもなしに挙児を決断するのは東京では難しい。
かといって経済的に豊かになるまで結婚や出産を控えるにも限界がある。資本主義と社会契約が徹底したとはいえ、人間が法人のような不老不死の存在になりおおせたわけではないからだ。今日ではよく知られているように、女性は30代後半になると妊娠する力が弱まり、ダウン症などの先天性疾患のリスクや流産や早産のリスクが高まっていく。あまり知られていないが、これは男性にも当てはまることで、年齢が高くなるほど妊娠させる力が弱まり、精子には多くの突然変異が含まれるようになっていく。
だから「もう少しお金が貯まるまで」「もう少しリスクを見極められるまで」「もう少し収入の多いパートナーと巡り合うまで」と結婚や子育てを先延ばしにしていると、現代人は子どもをもうける時機をたちまち逸してしまう。本書の第三章で現代人の健康と寿命の延長について触れているが、生殖適齢期に関しては延びておらず、高齢での挙児は難しく、コストとリスクに満ちている。
■東京の男女が子育てを始められないのは当然だ
上昇志向な子育てが行き届き、男性も女性もキャリア志向になった現在では、男女を問わず大学や大学院への進学率が高まっている。そのうえ雇用の流動性が高まり、キャリアやアイデンティティがはっきりと固まる時期も遅れがちなので、パートナーを選び、子どもをもうけようと考えていられる適齢期は非常に短い。
たとえば大学を卒業し、最も順調にキャリアを積んだ女性が結婚や出産について考えていられるのは、おそらく20代の後半から30代にかけての短い時間だけだ。30代になってからようやく結婚や子育てを意識しはじめ、残された時間の短さに慌てる人もいる。最も順調にキャリアを重ねていてさえこうなのだから、20世紀の終わりから急増した非正規雇用の立場に置かれた若者が子育てを決断する難しさは、推して知るべしである。
子育てにかかるコストが増大し、リスクも増大し、子どもをもうける適齢期がたった10年かそこらしかない以上、子育てを始めない、始められない男女が続出するのは当然というほかない。子育てに至らない東京の男女は、資本主義と社会契約のロジックによく馴染み、そのとおりに考え、自分ではリスクやコストをまかないきれないと判断しているわけで、決して不条理なことをやっているわけではない。
少子高齢化という視点で見れば、東京の合計特殊出生率の低さは破滅的な数値だが、資本主義と社会契約のロジックに誰もが忠実で、それに基づいた子育て観を持ち、コストやリスクを負担しきれないと判断した者が合理的に子育てを避けているという点では、このような通念や習慣の徹底を象徴している。
■「貧乏の子沢山」は現代人で起こり得ない
“貧乏の子沢山”などというのは、今日のありうべき秩序、資本主義と社会契約のロジックをしっかり内面化していない、いわば非―現代人にしか起こり得ないことである。東京とその周辺に住まう人々の大半は、そうした現代の秩序とロジックをよく内面化しているため、みすぼらしい子どもが巷にあふれるようなことはない。
かりに“貧乏の子沢山”が起こったとしても、騒がしい子どもが大人の世界を侵犯することを許容しない私たちと、社会の制度が、そのような状況を決してそのままにしておかない。子育ては、資本主義と社会契約のロジックに基づいて行われなければならない営みに変わってしまったからだ。
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精神科医
1975年生まれ。信州大学医学部卒業。精神科医。専攻は思春期/青年期の精神医学、特に適応障害領域。ブログ『シロクマの屑籠』にて現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信し続けている。著書に『ロスジェネ心理学』『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(ともに花伝社)、『「若作りうつ」社会』(講談社現代新書)、『認められたい』(ヴィレッジブックス)、『「若者」をやめて、「大人」を始める』(イースト・プレス)がある。
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(精神科医 熊代 亨)
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