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「兵隊を笑かすために」靖国神社には戦死した吉本漫才師が祀られている

プレジデントオンライン / 2020年6月22日 9時15分

春季例大祭の神事で外宮を歩く神職(2020年4月22日、東京・靖国神社) - 写真=AFP/時事通信フォト

明治時代に創業した吉本興業は戦時中、多くの芸人を慰問団として戦地へ派遣していた。「わらわし隊」と呼ばれた彼らは兵隊たちを喜ばせたが、同社でプロデューサーを務めた竹中功氏は「全国に吉本の名を売るきっかけになった一方、その過程で悲劇も起きてしまった」という——。

本稿は、竹中功『吉本興業史』(角川新書)の一部を再編集したものです。

■満州駐屯軍のもとに芸人を送り込んだ

明治創業の吉本興業の歴史をたどれば当然、戦争の記憶や傷跡は多く見つかる。はっきりと戦争に結びついているのが、戦争慰問だ。

1931年(昭和6年)、満州事変が始まったあと、満州駐屯軍の慰問に芸人を送り出したのが最初になる。

小規模な編制ながら慰問団にはコンビ「エンタツ・アチャコ」も含まれていた。朝日新聞と提携したものだったので記事になることも多く、エンタツ・アチャコの名が、全国に知れ渡るきっかけにもなった。エンタツ・アチャコは、この二年後の満州慰問にも参加している。

1937年(昭和12年)に日中戦争が始まると、翌年、やはり朝日新聞が慰問団の派遣を企画した。このときから、吉本の慰問団は「わらわし隊」を名乗るようになる。航空隊が「荒鷲」と呼ばれていたのをもじって「笑鷲隊」としたのだ。

その後も、わらわし隊は何度か編制されて、戦地へ派遣された。規模も最初より大きくなっていき、40人を超える芸人たちが、一度に戦地へ出向いたこともある。

マスメディアがこぞって戦争協力をアピールしていた時代であり、わらわし隊の動向は新聞でもよく取り上げられた。慰問から帰国したあとは、日本の劇場でも歓迎されたようだ。戦地での体験をネタにすると喜ばれたという。

しかし、1941年(昭和16年)の慰問では、悲劇が起きてしまう。

■女性漫才師が敵軍に撃たれ…

わらわし隊には括られなかった小さな慰問団が、移動中に敵軍の襲撃を受けたのである。その際、桂金吾と夫婦コンビを組んでいた花園愛子が、撃たれた将校を抱き起こそうとして、自らの大腿部にも2発の弾を受けてしまった。なかなか治療を受けられなかったため、4時間ほどあとに、出血多量で息を引き取っている。このため、花園愛子は靖國神社に合祀された。女性漫才師で合祀されているのは、彼女しかいない。

この襲撃を受けた際には、他の芸人たちも銃を手に取り、手榴弾を投げるなどして、交戦したという。戦地に行くというのは、そういうことではあるのだろう。しかし、人を笑わせるのを目的にしていた芸人が、武器を手に取らざるを得ない状況に追い込まれるというのは、あってはならないことだった。

慰問団の派遣は、全国に吉本の名を売り、戦地の兵隊たちを大いに喜ばせていたものの、こうした犠牲を出してしまっていたのだ。

誤解をおそれずにいうなら、わらわし隊は吉本興業と朝日新聞が組んで行っていた戦時におけるビジネスにもなっていた。やるべきではなかった、と言いたいわけではない。吉本としては、利潤などを目的にしていたわけではなくても、結果的に慰問団を派遣するメリットは小さくなかったということだ。

■戦地で苦労している人たちを笑かしたい

吉本泰三とその妻・せいの二人が寄席経営に踏み切った時点から、「人を笑かすこと」は常に吉本興業の上位概念にあったのだと思う。それは、企業理念と呼んでもいいものだ。つまり、人を笑かすという目的をかなえるために、寄席や劇場を買い、芸人とのコネクションをつくっていくなど、ビジネスを展開していったということだ。

それにより、寄席に集まってくれた人を笑わす……。大阪の人たちを笑わす。日本中を笑わす。すべての人類を笑わすことを、目指していく。「儲けること」を考えるのは、企業として当然である。「人を笑かすこと」は上位概念としたうえで、「そのために儲けている」と考えれば納得しやすいのではないだろうか。

戦争慰問にしても、そうだ。名を売ることを目的にしていたのではなく、戦地で苦労している人たちを笑かしたい、ということから派遣を決めたにちがいない。それがビジネスとも結びつき、プラスがもたらされたということだ。

そういう見方をしなければ、「やっぱり吉本は、オイシイ話には目ざといなあ」、「そんなにカネを儲けたいんか」と言われてしまいかねない。吉本が戦地に慰問団を送り出したのは、決してそれだけのことではなかったはずである。それは、吉本の企業理念に基づいての行動であったと私は信じている。

かく言う私は、この「わらわし隊」の足元にも及ばないが、1990年(平成2年)、河内家菊水丸とともに、イラク・バグダッドへ人質奪回に向かった。国会議員のアントニオ猪木の声掛けで「スポーツと平和の祭典」が開催され、そこで、河内音頭を披露した。人質解放後、40日ほど経って湾岸戦争が始まった。

■大阪花月をはじめ劇場の多くを焼失

戦争によって吉本は、もちろん苦しみもした。

戦争に「統制」はつきものである。日中戦争が始まってまもなく、浅草花月劇場で行われていた『吉本ショウ』は、戦時色の強い演題になっている。「祖国十二景」、「陸戦隊六景」などがそうだった。

太平洋戦争が始まると、芸人たちも戦意高揚のプロパガンダに利用されていった。戦況が悪化していく中では、休館を余儀なくされる劇場も増えていった。出征による芸人不足という問題もあった。地方公演や地方慰問も続けていたものの、次第に難しくなっていったのだ。

そのうえ、空襲が激しくなっていったことにより、所有劇場のほとんどが焼けてしまった。吉本に限らず日本中がそうだったとはいえ、戦争によるダメージは甚大だった。大阪、東京の大規模な空襲では、裏手に本社事務所を移していた大阪花月劇場が火災に遭い、東京では、神田花月、江東花月も焼失した。

全国規模の空襲は長く続いたので、所有劇場のほとんどが焼かれてしまった。無傷だったのは京都花月劇場と、京都市新京極の富貴くらいだったのだ。「演芸王国」を築いていた吉本は、戦争によってすべてを失ってしまったともいえる。戦争とは直接関係ないが、失ったのは劇場だけではなかった。

■手に入れた初代通天閣は大阪府に献納

太平洋戦争が始まる前、せいは通天閣を買収していた。せいが望んだといわれている。大阪のシンボルを手に入れることで、吉本の名をあげたい気持ちがあったのかもしれない。しかし、1943年(昭和18年)に通天閣の真下にあった映画館から火災が起こって類焼し、復旧困難になってしまう。そこで解体に踏み切り、「軍需資材」として大阪府に献納したのだ。ほかに選択肢がない時局だと考えたなら、戦争で失われたともいえなくはない。

ただし、300トンにもなったその鉄屑は軍事施設に運ばれながらも、放置されたまま錆びていった。鉄砲の弾や戦闘機などに使われることはないまま、終戦を迎えたのだ。「通天閣の鉄が、人を殺す道具にならなかったことだけが小さな喜びです」と、せいは振り返っている。

参考のために記しておけば、いまの通天閣は、1956年(昭和31年)に建てられた二代目である。場所も初代通天閣が建っていたところからはズレていて、現在の通天閣に吉本は関与していない。せいが買った初代通天閣は1912年(明治45年)の建造。パリのエッフェル塔をイメージしてつくられたもので、凱旋門の上にエッフェル塔を載せたような、けったいな建物だった。

■吉本と山口組が接触したとある一件

昭和に入ってすぐ、吉本が東宝と組んだことで松竹と対立することとなったこの時期に、せいは山口組二代目の山口登組長と接触を持つことになる。浪曲師、広沢虎造の興行権を求めたのがきっかけだった。

虎造は、『清水次郎長伝』の「馬鹿は死ななきゃなおらない」や『石松三十石船道中』の「寿司食いねえ」を流行語にするなど、たいへんな人気を誇っていた。その虎造と専属契約を結びたいと考え、山口組を頼ったのだ。浪曲の興行はおよそ、ヤクザとつながる興行師が仕切っていたからだ。山口組はまだそれほど巨大な組織ではなかったものの、この頃には「山口組興行部」をつくっていた。

せいが山口登組長にはじめて会ったのは、1934年(昭和9年)だといわれている。虎造と契約できたのは、1938年(昭和13年)のこと。前段階にどんな話し合いがあったかはともかく、せいが直接、虎造の家を訪ねて行って話し込み、吉本の直営館に出演してもらえるようになったと伝えられている。

翌年には、映画出演に関してのみ吉本と専属契約を結び、次の年には3本の映画に出演している。

吉本は「P.C.L(のちの東宝)」と提携して、1936年(昭和11年)にエンタツ・アチャコ主演の『あきれた連中』を製作・公開するなど、映画にも進出するようになっていた。吉本の歴史を振り返れば、戦中戦後はとくに映画との関わりが強かった。

■籠寅組の襲撃がもとで帰らぬ人に

だが虎造は、吉本との契約を破ってしまう。山口県下関の籠寅組と縁ができたことから、松竹資本の新興キネマの作品にも出演する約束をしてしまったのだ。吉本側とすれば認められることではないので、やはり山口組に仲介を依頼した。そこで、山口組と籠寅組の関係がこじれたのである。

山口登組長は、籠寅組の人間に襲撃されて重傷を負ってしまう。18カ所、斬られたともいわれる。これが、1940年(昭和15年)のことだ。命は取りとめたものの、2年後に亡くなった。このとき負った傷が原因だといわれている。

このことは、吉本興業と山口組の関係を引き裂くことにはならず、両者の関係は以降も続いた。山口組は三代目の田岡一雄組長に継承され、山口組興行部は「株式会社神戸芸能社」となっている。せいの弟でのちの二代目社長となる正之助と山口組の関係は、ますます深まっていったのだと考えられる。

■「遅れなんだら、わしも危なかった」

私が『マンスリーよしもと』の取材で正之助会長に聞いたところによれば、山口登組長が襲われた現場には、正之助も行く予定になっていたのだという。

「用事があって30分遅れたんや。そのあいだに二代目が刺されて、その傷がもとで亡くなってしまうねん。遅れなんだら、わしも危なかった」

竹中功『吉本興業史』(角川新書)
竹中功『吉本興業史』(角川新書)

私がその話を聞いたときには、当時の詳しいいきさつを知らなかったので、つい“ほんまですかあ?”と聞きたくなった。もちろんそうは言えず、「そうだったんですか」と頷き、心の中で疑っていた。

あとからこのときの状況を知って、驚いた。正之助がその現場に居合わせた可能性があったかはともかく、虎造をめぐる山口組と籠寅組の諍いから山口登組長が襲われたのは、間違いない事実だと知ったからだ。

その傷がもとで山口登組長が亡くなったということは、複数の文献に記されている。いわば史実だ。その揉めごとの端緒はせいの依頼にあったのだから、申し訳ないような怖いような話である。

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竹中 功(たけなか・いさお)
危機管理・コミュニケーションコンサルタント
1959年大阪市生まれ。同志社大学大学院総合政策科学研究科修士課程修了。81年吉本興業株式会社に入社。宣伝広報室を設立し、『マンスリーよしもと』初代編集長。吉本総合芸能学院(よしもとNSC)の開校。プロデューサーとして、心斎橋2丁目劇場、なんばグランド花月、渋谷よしもと∞ホールなどの開場に携わる。よしもとクリエイティブ・エージェンシー専務取締役、よしもとアドミニストレーション代表取締役などを経て2015年7月退社。

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(危機管理・コミュニケーションコンサルタント 竹中 功)

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