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「コロナ禍の後はバッタ禍」日本人と大量の虫との仁義なき戦い

プレジデントオンライン / 2020年6月30日 13時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/pawopa3336

世界の脅威は新型コロナウイルス感染症だけではない。アフリカ、中東、インドなどでサバクトビバッタが大量発生し、農作物が大きな被害を受けている。僧侶でジャーナリストの鵜飼秀徳氏は「日本も歴史上数多くの蝗害(こうがい)に見舞われ、あらゆる対策をしてきた。害虫発生は農業被害だけでなく、交通インフラは麻痺し、人、モノ、カネの流れが途絶えさせるおそれもある」という――。

■コロナ禍の後はバッタ禍、最大1000億匹が押し寄せ農作物を根絶やし

いま、世界各地では人類の手に負えない2つの脅威にさらされている。ひとつはコロナ感染症の拡大だ。そして、もうひとつはバッタの大量発生である。

感染症はワクチンなどによる封じ込めが期待できる。だが、バッタは制御が難しい。ひとたびバッタに襲われると農作物は食い荒らされ、食糧難に見舞われるだけでなく、物流も途絶える。

日本はしばしば、バッタ被害(蝗害)に見舞われていることをご存知だろうか。その痕跡を辿りながら、ウイルスの次なる災厄への、心構えにつなげていきたいと思う。

コロナウイルスの感染が中国・武漢で広がり始めた今年初め。アフリカ・ケニアでは、ここ70年来で最悪レベルのバッタの大発生に見舞われていた。このバッタはサバクトビバッタという種類で、自分の体重と同じ量の植物を1日で食べてしまうという。

数100億~1000億匹という途方もない数の群が押し寄せ、農作物を根絶やしにしてしまう。国連の報告では、1平方キロメートルのバッタ4000万~8000万匹が押し寄せると、1日で3万5000人の食料を食い潰してしまうという。バッタは牧草も食い荒らすので家畜へも被害が及ぶ。バッタの死骸は水も腐らせる。各地ではコロナ禍とバッタ禍との「二正面作戦」となっており、数千万人が食糧危機の局面にあるという。

■サバクトビバッタの日本襲来の可能性は低い

今回のバッタの大量発生は、数十年で最大規模。原因はこの2年ほどで巨大サイクロンがいくつも発生して降水量が増え、バッタの餌となる植物が増加したことである。バッタは農作物を食い荒らしながら、アラビア半島からインドへと移動。中国にも迫る勢いだが、さすがに海を渡って日本にやってくる可能性は低いようだ(※)

※農業生物資源研究所などで長年バッタの生態を研究してきた田中誠二氏は3月16日放映のNHK-BS「キャッチ! 世界のトップニュース」に出演し、サバクトビバッタの日本への影響について「サバクトビバッタは、寒さのため1000メートル以上の山は越えられないと言われています。パキスタンと中国の国境は、5000メートル級の山が連なる山岳地帯ですので、中国のほうに行くというのは考えにくい」と答えている。

だが、日本国内に目を向ければ、バッタをはじめ、しばしば害虫による農作物の被害が発生し、食糧難に陥らせてきた過去がある。

日本人と虫との戦いの痕跡が各地に残されている。いくつか紹介しよう。

■日本の歴史上に残る「人間vs虫」の戦いの跡

駆除で殺した害虫を供養して立てられた虫塚が、各地に多く存在する。最古の虫塚は、東京都八王子市の臨済宗南禅寺派の廣園寺にある。廣園寺は1390(康応2)年に開山した古刹だ。虫塚は創建当時に立てられたと伝えられている。

日本最古の虫塚。八王子の廣園寺にて
日本最古の虫塚。八王子の廣園寺にて(撮影=鵜飼秀徳)

19世紀に編纂された地誌『新編武蔵風土記稿』では、廣園寺の虫塚についてこう紹介している。

「往古相模国に虫多く出、耕作の害をなせしゆへ、廣園寺開山に願ひ、虫を此所にあつめて塚とせしゆへ、この名ありと云は、由(よっ)て来(きた)ることも旧(ふる)きことなるべし」

解説をするとこういうことだ。

廣園寺が開かれた14世紀末のこと。田畑の収穫時期になると大量の虫(バッタやウンカなどと想定される)がつき、生育の妨げになっていた。村人たちはそれを憂い、なんとか被害を抑えたいと廣園寺の住職に祈祷を頼んだ。

住職が、「それは難儀。悪い虫を退治しよう」と祈祷を始めると害虫は、ことごとく死に絶えたという。しかし、害虫とて生きとし生ける存在。村人は後生を弔うために死骸を集めて廣園寺境内に埋葬した。そして、再び虫による被害がでないようにと石塚をつくって祈願したのだ。

虫塚は高さ90cmほどで、ロケットのような形状をしている。この形状は、繁栄の象徴である「男根」との説もある。害虫を撲滅し、豊穣をもたらし、人類の繁栄につなげたいとの願いがこの虫塚には込められているのだろう。

■「天保の大飢饉」の元凶は、主に害虫だという説が有力

いつの時代も庶民は農業を脅かす害虫に苦しめられてきた。例えば1732(享保17)年に起きた「享保の大飢饉」や、1833(天保4)年の「天保の大飢饉」の元凶は、主に害虫だという説が有力だ。

享保の大飢饉の場合、その年の梅雨が長引き、冷夏になったのとウンカが大発生したことが発端である。ウンカとは小型バッタのような形状をしている。稲の茎や葉に取り付き、水分を摂取し、稲を枯らしてしまう。

戦後、農薬を使った駆除の普及により、害虫被害は抑えられてはきている。だが、いまだにウンカの被害(坪枯れ)は珍しくはない。

享保の大飢饉では、数十万人の餓死者を出したとも伝えられている。特に天保の大飢饉の際には、大騒動にも発展した。「大塩平八郎の乱」などが勃発し、コメの不作からくる財政難とも重なって幕府権力が大きく揺らぐ要因ともなった。稲作をいかに安定させるかは、農村のみならず、時の権力にとっても一大事であったのだ。

■2007年に関西国際空港で、4000万匹近くのトノサマバッタが大発生

明治時代には国益を揺るがしかねない蝗害に、しばしば見舞われている。特に北海道である。バッタとの「戦場跡」が今に残されている。

場所は北海道の中心部、リゾート地トマムにも近い新得町。地元で「バッタ塚」と呼ばれる古墳状の土饅頭が70カ所以上も残されている。このバッタ塚は、2012(平成24)年には町の指定文化財になった。

1880(明治13)年、十勝地方でトノサマバッタが大発生する。当時は屯田兵による北海道開拓の真っ最中であった。「日食のように太陽が陰り」(帯広市史)、蝗害は6年間も継続したという。蝗害は北海道の開拓事業を阻む自然の脅威であった。

蝗害に遭わないように農村で続けられている虫送り(小豆島にて)。
撮影=鵜飼秀徳
蝗害に遭わないように農村で続けられている虫送り(小豆島にて)。 - 撮影=鵜飼秀徳

明治政府は多額の費用を投じてバッタの駆除に乗り出す。トノサマバッタが成虫になる前に、卵や幼虫の段階で撲滅する作戦である。現在、アフリカや中東でもこの策が取られている。

トノサマバッタは土中に卵を産む。それを掘り起こし、それを1カ所にまとめて盛り上げ、土を被せて塚にした。バッタ塚は土地100坪にたいして、直径約5メートルの塚が1つ造られた。

町が現地に設置した看板によると、1882(明治15)年と1883(明治16)年の2年間で掘り出されたトノサマバッタの卵の容量は1339立方メートル、幼虫で400立方メートルに達したという。バッタの数に換算すると300数十億匹に相当すると言われているから、驚愕の数である。

北海道には比較的近年につくられたバッタ塚もある。鹿追町では1980(昭和55)年6月にハネナガフキバッタが大発生した。この時は陸上自衛隊が出動して駆除に当たった。その数は推定7億匹。鹿追町では駆除された大量のバッタを慰霊し、災害の発生を防ぐ目的で、下鹿追神社境内にバッタ塚(供養塔)を約60万円かけて投じて建立し、祀った。

2007(平成19)年には開港直前の関西国際空港第2期島で、4000万匹近くのトノサマバッタが大発生し、関係者を慌てさせた。人口島という天敵不在の環境が、大発生を促したらしい。6月初旬に一気に増殖。薬剤を散布するなどして、鎮圧にはひと月ほどかかった。航空機にとってバッタの大発生は、視界を遮り、航行に支障をきたすだけではなく、エンジンなどに入れば大惨事にもつながりかねない。

バッタの発生のメカニズムは分かりつつあるが、その制御はいまだに困難である。農業被害だけでなく、交通インフラは麻痺し、人、モノ、カネの流れが途絶える。今回のコロナウイルスでは様々な「想定外」が社会を混乱させ、経済を麻痺させた。政府はバッタ対策を考えているのだろうか。

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鵜飼 秀徳(うかい・ひでのり)
浄土宗僧侶/ジャーナリスト
1974年生まれ。成城大学卒業。新聞記者、経済誌記者などを経て独立。「現代社会と宗教」をテーマに取材、発信を続ける。著書に『仏教抹殺』(文春新書)など多数。近著に『ビジネスに活かす教養としての仏教』(PHP研究所)。佛教大学・東京農業大学非常勤講師、(一社)良いお寺研究会代表理事。

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(浄土宗僧侶/ジャーナリスト 鵜飼 秀徳)

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