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銀座のママは何人も見てきた…早死にする"飲み方"の共通点

プレジデントオンライン / 2020年7月18日 11時15分

「クラブ 数寄屋橋」園田静香ママ

艶っぽく長生きした色男、銀座で暴れ回った豪快な男、北斎のように生きる巨匠――。銀座の街に名を残す文士たちの人生は酒とともに。

■艶っぽく酒を飲む男は長生きをする

クラブ 数寄屋橋
黒岩重吾、森村誠一、大藪春彦、柴田錬三郎、松本清張、北方謙三、大沢在昌など多くの作家たちから人気を集めた。著名な政治家、財界人からも支持され、銀座の「文壇バー」としての地位を確立している。

酒の種類はいろいろありますが、やっぱり楽しく飲むというのが長生きに繋がるのだと感じております。文壇バーである「クラブ 数寄屋橋」には数々の先生方、歴史に名を残された方々がいらっしゃいました。そういった方々は独特な個性を持っていらっしゃいます(笑)。実を言うと私はお酒を一滴も飲めないのですが、お酒の場を楽しむ秘訣を、先生たちに思いを馳せながらお話しします。

私は故郷の熊本から上京してすぐに、自らのクラブ・数寄屋橋を立ち上げ、いきなりママになり、銀座では珍しいパターンと言われました。知り合いの数も少なく、たまたまオープンする日が文士劇(作家・漫画家たちが本格的な演劇を披露する)の日でした。幸いなことにご紹介もいただき、楽屋へメロンを2つ持って飛び込みました。扉を開けると錚々たる顔ぶれで、圧倒されて下を向いて固まってしまったのですが、そのときに初めて私に声をかけてくれたのが、ベストセラー作家の梶山季之先生(45歳没)でした。

梶山先生は税金を払うために原稿料を前借りするくらいに連日飲み歩いていましたが、粋な遊びをされる方でした。仕事で悩んでいる編集者に、「気が済むなら俺を殴れよ」と言うんです。まさかとは思いましたが、その編集者は本当に先生の顔を殴った。周りは唖然としておりましたが、先生本人は笑っておられました。

ある夜、店にいらした黒岩重吾先生(79歳没)がその日に限って「梶山くんに会いたい」とおっしゃるのです。私が馴染みの店に電話をすると、間もなく梶山先生が店に来て、朝の4時まで黒岩先生とお飲みになったんです。その次の日です。梶山先生が取材のために訪れた香港で倒れ、その4日後にお亡くなりになりました。次の日香港まで行くのなら、なにも朝の4時まで付き合う必要なんてないのに。楽しくお酒を飲まれる方でしたが、死因は食道静脈瘤破裂と肝硬変だったので、お酒の量は並大抵のものではなかったのでしょう。

黒岩先生は男らしく色気もあって、惚れてしまう女の子が絶えませんでした。ある日、先生は店にいる私に電話をかけてきて、「プリンスホテルにいるからちょっと俺のところに来い」と言われました。ホテルに着くと部屋まで連れていくものですから、ドキッとしてしまいました。もう長い付き合いですから、いまさら困るわ、なんて想像してしまいまして……(笑)。

しかし部屋に入ると、ドギマギしている私にいきなりポンと大金を渡してきたのです。そして、「おかみ、半年分のツケだ」とさらっと言ってしまうのです。私の胸のトキメキはなんだったのでしょう。やっぱり艶っぽく粋な殿方は長生きをされますね。

■アントニオ猪木監禁とホステス逆さ吊り事件

あと1人、今回のお話ではどうしても忘れられない方がいます。松下幸之助さんが店にいらしたとき、別の席に東映の方たちと一緒に異様な存在感を持った人がいらっしゃったんです。松下さんが「あの方はどういった方ですか?」と聞かれるので、私は「ギャングスターかなにかかしら」と。それが『巨人の星』『あしたのジョー』の原作者であり、「からみ酒」の骨頂でもある梶原一騎先生(50歳没)だったのです。

「クラブ 数寄屋橋」だけでは怒らない梶原一騎は、銀座の七不思議と言われた。
「クラブ 数寄屋橋」だけでは怒らない梶原一騎は、銀座の七不思議と言われた。

権利料の件でもめて起きた「アントニオ猪木監禁事件」や、赤坂のクラブホステスを店内で縛りあげた「ホステス逆さ吊り事件」の印象が世間では強いですが、頭に包帯をグルグル巻きにして「こんな格好で来られるのは静香の店しかないんだよ~」と毎夜いらした姿が目に焼き付いています。

しかし、先生が店に連れてきた女の子にはひどくからむこともありました。

やっぱりお酒というものは、飲む相手によって良い酒になるか悪い酒になるかが決まります。あまりにもその娘が気の毒に思い、帰しました。それが原因で、いちど先生ともめたのです。私の父の言葉に、「喧嘩するときは両目で見ると圧倒されるから片目を睨め」というものがあります。先生の片目をひとしきりじっと睨んでいると、先生から「静香、ジョーク、ジョーク」といつもの先生に戻ったのですよ(笑)。

私が先生に対して好意を持てたのはなぜだと思いますか? それは私が先生の良い部分をナチュラルに見ていたからなんです。相手によって自分を変えていては、疲れてしまうのは当然。常に自然体でいられるようになれば、嫌な酒もみんな楽しい酒になると思うんです。この言葉、梶原先生にも言ってやりたかったわ(笑)。

■坪内祐三の死は作家の鑑そのもの

クラブザボン
1978年開店。名付け親は小説家の丸谷才一。カウンターのみ3坪の店から始まり、2年で13坪の店へ。さらに3年で、現在の20坪に。店には文壇の大御所や編集者たちが集う。
銀座老舗文壇バー「ザボン」水口素子ママ
銀座老舗文壇バー「ザボン」水口素子ママ

私は、いくらお酒を飲んで早死にしようと、節制して長生きしようと、その人の人生がまっとうなものであれば、どちらでも幸せなのではと思うのです。

故郷の鹿児島から上京し、銀座デビューをしてから48年がたちました。最低でも1日に水割りを5杯、それに慣れてくるとジンやテキーラなど強いお酒を飲みだすので、30年も前から糖尿病と腎臓結石に悩まされています。しかし、甘いものを控えすぎれば低血糖でフラフラになってしまいますし、持病ですから付き合っていくしかありません。いつ病状が悪化して倒れるかもわかりませんが、私はこのクラブ「ザボン」は、なにがあっても体が動かなくなるまでは続けると決めています。

意識があるまで店にいられるのであれば、お酒で死んでも私にとっては何の悔いもないのです。

2020年1月13日、ザボンにも週に1度は通ってくださっていた文芸評論家の坪内祐三先生が61歳の若さでお亡くなりになりました。私と坪内先生は、先生がまだ「東京人」の編集者だったころからのお付き合いです。

2020年1月13日に亡くなった坪内祐三(61歳没)。
2020年1月13日に亡くなった坪内祐三(61歳没)。

銀座の街のエッセイも書かれていて、私も先生の本から勉強することばかりでした。とくに、内藤誠監督の映画にもなった『酒中日記』はいまでも私の愛読書です。しかし彼は飲みすぎでした。ザボンでボトル半分を空けてから、今度は新宿のゴールデン街へ流れる。お酒を飲むと怒りっぽくなる方だったので、新宿では出禁のバーが数軒。私も年中喧嘩していたお客様は先生くらいでした。でも2日もたてば先生は喧嘩のことなど忘れてケロッと店に来るので「ツボちゃん、ツボちゃん」って慕っていたんですが、でも怒られたほうは忘れないんですよね(笑)。本当、どこに怒りの地雷があるかわからない方でしたから。

■もういちどだけでいいから、ツボちゃんと喧嘩がしたい

先生がおつまみの干しぶどうの房を枝から外している姿はよく覚えています。干しぶどうを、イライラした顔をしながらずっとちぎっているの。すべてちぎり終わると、「干しぶどういっぱい持ってこい!」って言うわけです。もう干しぶどうが溜まっちゃってますから、「先生、どうしてこんなに干しぶどう食べるんですか」と聞いたんです。そしたら、「なんだ、この店は! ふざけるな!」とテーブルを叩いてかんしゃくを起こすんです。「え、なにか私悪いこと言いましたか……?」って謝るんだけど、もう怒っちゃって怒っちゃって。だってあんなに干しぶどうがこんもりしていたら、そりゃ誰だって聞きますよね?

ザボンの40周年パーティーのときもそれは大変だったんです。パーティー会場に水割りがないというだけでとっても怒るんです。「ザボンは水割り代をケチった」と言って帰ってしまいました。ケチったといっても、ロックより水割りのほうが安いじゃないですか。

そのときは、「悪いけど、もう来ないで」と先生を一時出禁にしたんです。

でも結局、「トイレ借りるだけだ」と店に来て、本当にトイレだけ入って帰るんですよ。「なんだ先生、あんなに怒っておいてやっぱり会いたいのね」と私も妙に愛おしい気持ちになってしまうのだから、先生とは切っても切れない縁だったんですよ。

でもお酒を飲んで一番楽しかったのはやっぱり坪内先生なんです。「そうなんですね、知っています」なんて言うと、「知ったかぶりをするな!」と怒られるので、迂闊なことは言えないんですけど。いちど、病気などいろいろなことが重なり、ザボンを閉めようかと悩んでいるときがありました。

そんなとき、あの坪内先生が「応援するから辞めなくてもいいじゃないか」と言ってくださったんです。「自分だけでは足りないから」と、いまではザボンの常連になってくださった重松清さんも、先生がご紹介してくださいました。映画『酒中日記』では先生の提案で、新宿の文壇バー「猫目」とザボンをメインの舞台にして撮影してくださいました。「喧嘩するほど仲が良い」どころの話ではありません。私は先生の奥底に垣間見える人情の深さに、いつもうれし涙を浮かべておりました。

先生が最後に店に来たのは、19年の12月26日でした。「あんたね、もうボケてるから、早く辞めたほうがいいよ。晩節を汚さないように辞めたほうがいいよ」なんて失礼なことを言うもんですから、「何よ、そっちのほうがよっぽどボケてるじゃない!」と言ってやったんです。もういちどだけでいいから、ツボちゃんと喧嘩がしたいです。

■北斎のように生きる、さいとう・たかを

最近は新型コロナウイルスによる外出自粛であまり外に出られていないようですが、よくザボンにいらっしゃるさいとう・たかを先生を見ていると、長生きする理由がしみじみとわかります。

パーティーに同席するさいとう・たかを(83歳)とママ。
パーティーに同席するさいとう・たかを(83歳)とママ。

先生はゴルゴそのままの人柄です。物事を理知的に考えるところなど、先生自身がゴルゴのモデルになったんじゃないかと思うくらいです。

そんな先生ですが、お店に来ると、恋をテーマにした都々逸を唄ってくださることもあります。先生が考えた都々逸にはたとえばこんなものがあります。

 

・下手な言葉で四股踏むよりも サッと内股かけりゃよい
・止めてくれるな もうすぐ岸に着くを分かった舟じゃもの
・泥田から飛び出してみて その蛙己(かわずおの)が汚れに驚きて見る
・嫌よ嫌よと娘のしぐさ 帯もほどけて身をよじる

さいとう・たかを先生が考えた都々逸(筆はホステス)。
さいとう・たかを先生が考えた都々逸(筆はホステス)。

なんだかいろいろと想像してしまいますよね。こんな色気のある唄を女の子たちのために歌う粋な一面も先生にはあるんですよ。

先生はもう83歳になられますが、いまでもゴルゴ13の連載を続けておられます。先生のお酒の強さったら私でも敵うはずもありませんから、お酒を飲みすぎれば早く死ぬというわけではないと思うんです。長生きの秘訣っていうのは、いつになっても好きな仕事をやっていること。それに尽きます。

葛飾北斎が残した言葉に、「私は90歳で絵の奥義を極め、100歳で神の域に達し、110歳ではひと筆ごとに生命を宿らせることができるはず」というものがあります。作風はもちろん違うのですが、先生は北斎を目指しているのではないかと私は感じるのです。

とにかくもう、漫画を描くことが好きで好きで仕方がないのです。先生は16歳のときにはもうアルバイトで漫画を描いていて、月に5万円(大卒初任給が約1万円)ほどはもらっていたそうです。その当時から、稼いだお金で芸者さんのところへ遊びに行っていたといいますから。

生涯を通して好きな仕事だけで生きていくというのは素晴らしいことです。先生を見ていると、「まだまだ私も糖尿病やコロナになんか負けていられない」と奮い立つんです。そういう気持ちを持ちながら、お酒や盛り場と付き合っていきたいですよね。

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園田 静香(そのだ・しずか)
「クラブ 数寄屋橋」ママ
熊本県生まれ。1967年、上京後3カ月で「クラブ 数寄屋橋」を開店しママに。著書に、『グラスの向こうに』(出版芸術社)、『文壇バー―君の名は「数寄屋橋」』(財界研究所)など。居合いと殺陣も嗜む。

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水口 素子(みずぐち・もとこ)
銀座老舗文壇バー「ザボン」ママ
鹿児島から上京後、商社で役員秘書として勤務。囲碁棋士の藤沢秀行に連れられ、銀座を訪れたことを機に退社。文壇バー「眉」に入店し、5年で独立。

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(「クラブ 数寄屋橋」ママ 園田 静香、銀座老舗文壇バー「ザボン」ママ 水口 素子 撮影=神尾典行、市来朋久 写真提供=「クラブ 数寄屋橋」、水口素子)

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