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不倫容認派も混乱する「渡部不倫」は何が問題だったのか

プレジデントオンライン / 2020年7月14日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kanzilyou

お笑いコンビ「アンジャッシュ」の渡部建氏の不倫が世間を騒がせた。男女関係や不倫について20年以上取材を続けるフリーライターの亀山早苗氏は、「あれは不倫ではなく、ただの女遊びだ。本来、不倫とは恋愛感情が伴うものである」という——。

■かつては「有名人の不倫」は叩かれる対象ではなかった

複数人の女性との不倫が報じられたアンジャッシュの渡部建氏への「不倫バッシング」が止まらない。ネットを見ると、ニュースに対して「二度と顔を見たくない」「子どもの教育に悪いからテレビに出てこないで」というコメントが並ぶ。それを見るたびに暗澹(あんたん)たる気分になるのは筆者だけだろうか。ここまで「見ず知らずの人」に対して罵詈雑言をぶつけることができる人たちの気持ちが理解できない。

そもそも人は他人のスキャンダルが好きだ。それが顔も名前も知られた有名人であればあるほど恋愛スキャンダルは蜜の味。だが、それは「恋愛スキャンダル」が、どれほどえげつなくてもドロドロでも、しょせん「芸能人の恋愛」だからである。高みの見物をしながら酒の肴にし、言いたいことを言うのが楽しいからだ。だが、それが当事者の仕事を奪うことにつながっていくとなると話は別。スキャンダルが出るたびに、実際にその人が出ているテレビ局やスポンサーの名前、連絡先までもがリスト化され、「ここに抗議しましょう」と呼びかける声がネットに上がる今の状況は尋常ではないとさえ思う。

かつて芸能人の不倫スキャンダルは多々あった。本妻がいながら愛人と同棲、病気になって最後は本妻宅へと戻った俳優、妻がありながら数々の女性たちと浮名を流し、それでも誰からも恨まれなかった俳優などなど。そのたびに芸能記者が駆けつけてテレビにその話が流れたが、一般人はそれを楽しんでいたはずだ。なぜなら相手は「スターだから」。自分たちができないことをやっているのを見るのがおもしろかったから。

■不倫を叩く資格があるのは配偶者だけのはず

ところが時代は流れ、スターや芸能人が身近な存在となった。当然、一般社会のルールが芸能人にも適用されることとなり、彼らの「特権」はなくなっていく。それがいいことなのかどうかはわからない。そして、本来、糾弾できるのは配偶者だけであるはずの「不倫」「浮気」「婚外恋愛」が、一般人によって叩かれるようになった。婚姻とは契約である。だから契約違反をした場合、追及できるのは契約を結んだ人だけ。つまり、配偶者だけなのだ。

さらにそこにネットの存在がある。「正義」をふりかざせば、誰も反論はできない。そこで「正義依存症」が増えた。新型コロナウイルス感染拡大に伴って、「自粛警察」が跋扈したように、「正しくないことは許さない」人たちが増大している感がある。白黒つけずに、グレーのまま「まあまあ、こういうこともありますわ」と反応していた、ある意味で「日本ならではの曖昧文化」が駆逐されようとしているのだ。

思えば、最初に大きく叩かれたのは石田純一氏ではなかっただろうか。不倫疑惑に応えて、「不倫からいい文学や音楽が生まれることもある」と言ったのが、スポーツ紙の見出しに「不倫は文化」と書かれてしまったことで不遇の時代を送ることとなったのが1996年のこと。だがあの頃はまだネットは普及しておらず、本人は大変だっただろうが、市井の人々は笑って見ているゆとりがあった。
まだ、芸能人の話は「あちらのこと」だったのだ。

その風潮が変わったのは、2013年の矢口真里事件。既婚の彼女が自宅で不倫中に夫が帰宅したのだ。一部女性からは「やるじゃん」という声が聞こえたのだが、世間は許してくれなかった。その3年後のベッキー事件は、さらにすさまじいバッシングの嵐となった。「文春砲」と「ネット」の二段構えの前に、「人のスキャンダルを楽しむ」のは下卑たこととなり、「正義をふりかざす」ことが主流となっていったのだ。

■契約と愛情は切り離して考えたほうがいいかもしれない

「正義依存症」の背景には、鬱屈した社会のありようがある。20年以上、不倫について取材を重ねているが、最近多いのは、「あいつだけ得している」「あいつだけいい目を見ている」という妬みそねみの声である。もちろん、配偶者がそう考えるのは当然。共働きなのに家事育児の負担が大きい既婚女性の夫が不倫をしたなら、思い切り糾弾するなり離婚届を突きつけてやるなりすればいい。だがそれを他人がとやかく言うのはおかしい。

そもそも「結婚」がなければ「不倫」も存在しないわけで、たまたま婚姻という契約を結んでしまったために、心まで束縛されていいのかという理屈も成り立つ。契約と愛情の問題は重なることもあれば切り離して考えたほうがいい場合もあるのかもしれない。

2016年に出版した『人はなぜ不倫をするのか』(SB新書)で、筆者は行動遺伝学、宗教学、昆虫学などさまざまな分野の錚々(そうそう)たる研究者たち8人に、「人はなぜ不倫をするのか」というテーマでインタビューをおこなった。その結果、誰ひとりとして不倫を完全否定しなかったという事実がある。もしかしたら、「ヒトの婚姻」という形そのものに無理があるのではないかとも考えられる。

実際に不倫の恋の渦中にある当事者たちの多くは、今回の「渡部式不倫」を苦々しく思っている。なぜなら、「あれを不倫と言ってしまったら、マジメに不倫をしている自分たちが貶(おとし)められている気がする」からだ。ダブル不倫(既婚者同士)をしている40代の女性はこう言う。

「私たちはあくまでも恋愛をしているんです。結婚してから、他にもっと好きな人が出てきてしまっただけ。子どものことなどを考えると離婚はできない。だけど身も心もわかりあえる彼と別れることもできない。苦渋の決断で、他人から見たら不倫と言われる関係をひそかに続けているんです」

■渡部氏のやり方は「不倫」とは言いがたい

ポイントは“身も心も”である。マジメに不倫している人たちは、相手を“運命の人”とよく言う。出会う時期が遅かっただけ、それぞれの家庭を壊すのは申し訳ないという責任感もあって、人目を忍ぶ関係を続けているのである。

だからこそ、渡部式は「不倫」ではなく、あくまでも「女遊び」と言ってほしいというのだ。今年の初めに話題になった、俳優・東出昌大とは対照的である。どちらも「正義依存症」の人たちからは糾弾されているが、「どちらがマシか」ということも世間では話題になっている。

東出式不倫はわかりやすい。不倫をしている当事者たちも、「妻が妊娠中に不倫を始めるのはどうかと思うが、結婚していても他に好きな人ができてしまう心理はよくわかる」と話す。そういう人たちは、根本的に結婚と恋愛とは別だと思っている。結婚したら、配偶者となった人との恋愛が終わったことを実感し、たまたま外に好きな人ができて自分の中の恋愛感情が作動してしまったのである。

ところが渡部式不倫は、不倫容認派をも混乱に陥れた。自分の仕事先である六本木ヒルズの「多目的トイレ」に女性を呼び出し、さっさと行為をすませてバッグの上に1万円を置く。それは不倫を「恋愛にしたくない」男の心理だと思うのだが、「だったら風俗へ行け」という声も飛び交う。それもまた真実である。だが、彼としては、風俗へ行けば噂(うわさ)になる。一般人のほうが口が堅いと思ったのだろう。あるいはプロにお願いするより、一般女性を落とすのが楽しかったのかもしれない。そういう意味では女性を見くびったともいえる。

余談だが、世間にはいろいろな場所で不埒(ふらち)な行為に及ぶ人間がいるものではある。新幹線のトイレ、雑居ビルのトイレ、雑居ビルの非常階段の踊り場、公園などなど。欲望が高まれば場所を問わない人、あるいはスリルを楽しむ人など目的はさまざまだが、トイレだからといってそれほど驚くには当たらないのだ、一般人であれば。

■念入りなキャラ作りが功を奏して売れっ子に

相方から「そもそも愛がないヤツ」と言われてしまう渡部だが、彼は自分しか信じられない人生を送ってきたのではないだろうか。長い下積み生活の間にさまざまな資格を取り、自分の人生のすべての経験をタレント生活に役立ててきた男である。念入りにキャラを作り、それが徐々に時代にはまって売れっ子となっていった。

筆者は一度だけ、渡部氏を取材現場で見かけたことがある。昨年のラグビーワールドカップのPRイベントでのことだ。彼はとある有名なゆるキャラとすれ違ったとき、自らキャラクターに近づき、あれこれ話しかけたりハグをしたりして、報道陣にツーショットを撮らせた。共演する予定はなかったので、予定外の行動である。

キャラクターとふたりでさまざまなポーズをとってくれたのだが、こういう場合、取材側の立場でいえば「あのタレントはすごくサービス精神があるなあ」と感心するものだ。ところが筆者には微妙な違和感があった。なぜか渡部氏が楽しそうに見えなかったからだ。

キャラクターに接するとき、人は思わず本性が出るものだ。世間にはいい顔をしながら、カメラが回っていないところではキャラクターに冷たい有名人、政治家はたくさんいる。興味がないなら、最初から無関心でいればいいのだが、カメラが回っているところではつい、「キャラクターにもやさしい自分」を演じてしまうのだろう。

■最低限の「人への敬意」と「一瞬の愛」が欠けていた

だが、渡部氏の態度はそれとも少し違っていた。キャラクターに近づいたのは彼のほうだからだ。ハイタッチでもしながらすれ違ってしまえばそれですんだ。わざわざ寄ってきたのは彼なのに、心から楽しんでハグしているようには見えなかった。

そのときふと思ったのは、「彼は、キャラクターに自ら近づいていく自分が好き」なのではないかということだった。

今回の一件でも、彼には女性を支配したいとか、モテている自分の力を見せつけようとか、そういう気持ちはなかったのではないかと思う。ただ、「連絡すればいつでもどこでもやらせてくれる女がいる自分が好き」なのではないだろうか。

努力を重ねて売れっ子になった彼は、その努力の過程で人への最低限の敬意や感謝をどこかに置き忘れてしまったのかもしれない。それだけ過酷な下積み生活だったのか、向上心の強さにそれらが押しつぶされていったのかは不明だが。

売れっ子になり、お笑いだけでなく仕事の幅を広げていったのも彼の計画通りだっただろう。世間が羨(うらや)むような女性と結婚したのもシナリオ通り。「渡部建とはこうあるべき」にのっとって、彼は自分を演出してきた。だが、人は常に完璧ではいられない。「性欲が強い」のか「いろいろな女性としたい」のか、彼の本当の欲求はわからないが、少なくとも「女遊びをしたい」のは本性だろう。ただ、バレないようにどう対処すべきかの項目がシナリオから抜けていた。

たとえ遊びでも、他者への愛は必要だ。これは男女を入れ替えて考えも同じこと。今の時代、「男遊び」が好きな女性は少なからずいる。だがそこにはやはり最低限の人への敬意と一瞬の愛が必要なのだ。それがないとしっぺ返しを食らう。

■渡部氏もある意味では被害者かもしれない

渡部氏には危機管理がなかったとよく言われるが、あれほど仕事上で自分をプロデュースしてきた彼がこんなに叩かれるのは、正義から逸脱しただけでなく、長年にわたって周りへの「敬意と愛」が足りなかったせいなのではないだろうか。

ではなぜ、彼に「最低限の敬意と愛」がなかったのか。下積み生活から売れっ子へとジャンプアップしていく中で、一般大衆は彼に期待をし続けた。それが彼にはプレッシャーになったのかもしれない。何もかも勝ち取りたかった彼ではあるが、「汗水垂らして」がんばる姿は見せたくないというええかっこしいのところも垣間見える。

亀山早苗『人はなぜ不倫をするのか』(SB新書)
亀山早苗『人はなぜ不倫をするのか』(SB新書)

お笑い芸人という肩書を背負いながらも、スマートでスタイリッシュでいたい欲求が強かった彼は、自らの本心であるエログロ欲求との間で大きな葛藤を抱えていたのではないだろうか。そしてスマートでスタイリッシュな彼を求めたのもまた、一般大衆である。大衆が彼を追いつめたとまでは言えないかもしれない。自らが望む「完璧な渡部建」と「エログロ渡部」とを演じ分けられず、そこに妙なケチ臭さまで匂わせてしまったのは本人の失態であろう。

とはいえ……である。やはり他人の不倫を過剰なまでに叩き続けるのは尋常ではない。会見を開かなかったずるさまでバッシングされているが、失職させ、蟄居(ちっきょ)させているのはメディアも含めた「一般大衆」だろう。ゲスい遊びを繰り広げたのは彼自身であり、妻は被害者ではある。だが、そんな彼を今、追いつめているのはわれわれであり、彼もまた、ある意味で“被害者”となっているのかもしれない。

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亀山 早苗(かめやま・さなえ)
フリーライター
1960年生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動を始める。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』(ともに新潮文庫)『人はなぜ不倫をするのか』(SB新書)『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』(扶桑社)など著書多数。

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(フリーライター 亀山 早苗)

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