佐藤優「コロナ禍で東京五輪のテロリスクはむしろ高まった」
プレジデントオンライン / 2020年7月17日 11時15分
※本稿は、手嶋龍一・佐藤優『公安調査庁 情報コミュニティーの新たな地殻変動』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
■オリンピックの「延期」は今回が初めてだ
【手嶋】新型コロナウイルスが猛威を振るい、東京オリンピック・パラリンピックは一年間延期されることになりました。東京五輪は第二次世界大戦が欧州で始まった翌1940年に予定されていましたが、これも中止になったことがあります。
【佐藤】近代オリンピックが中止になったことは、夏冬合わせて過去に5回あるのですが、全部戦争絡みです。ちなみに、延期は今回が初めてです。
【手嶋】世界の耳目を集めるオリンピックは、それゆえに、じつにさまざまな事件、とりわけ凶悪なテロ事件の舞台となっています。次の東京大会も、国際テロのターゲットにならない保証はありません。
【佐藤】オリンピックがテロなどの標的にされやすいのは、いま指摘があったように、世界中の注目を惹きつけ、より強烈なインパクトを国際社会に与えることができるからです。イスラエルの歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリが、「テロの効果」について『21Lessons』で、次のように喝破しています。
つまり、ある種の「プリズム」によって、恐怖を実際の被害の何十倍、何百倍に拡大できるのが、テロという戦術なんですね。そして、その裏には、砂糖と違って必ず何らかの政治目的があるわけです。
■一番怖いのは「バイオテロリズム」
【手嶋】オリンピックという華やかな舞台でテロを演じれば、そのプリズム効果を何倍にも拡大することができる。
【佐藤】そう思います。2020年の東京オリンピック・パラリンピックは延期されましたが、コロナ禍によって国際社会が混乱するなかで、大がかりなテロを企図すれば、さらにインパクトは大きくなる。その意味で、テロの可能性は高まったと心得るべきでしょう。現代のテロルの最も恐ろしい形態は、バイオテロリズムです。
【手嶋】未知の細菌・ウイルスは、尊い人の命を奪うだけでなく、人間社会の経済システムをハンマーで粉々に打ち砕いてしまう。われわれは、今回のコロナ禍の前から、そう警告してきたのですが、いまやこれに異を唱えるひとはいないでしょう。
■ミュンヘンで起きた「黒い九月」事件
【佐藤】ここで過去にさかのぼって、どんなテロ事件があったのかを振り返っておきましょう。
まず、真っ先にあげなければならないのが「黒い九月」事件です。1972年の8月から9月にかけて当時の西ドイツで開催されたミュンヘン・オリンピックでは、パレスチナの武装集団「黒い九月」が、選手村のイスラエル選手団宿舎を襲撃し人質事件を起こしました。
【手嶋】スティーヴン・スピルバーグの『ミュンヘン』という映画にもなっています。選手とコーチ11人を含む12人が命を落としています。あれは、とても複雑で多義的な事件でしたね。
【佐藤】こうしたケースでは、それまではテロリストの標的になるのは、開催国でした。ところが、「第三国」に対するアピールの場として、西ドイツのミュンヘンで行われたオリンピックが舞台として使われました。
【手嶋】西ドイツの情報・捜査当局にとっては、完全に想定外、ノーマークだったのです。当時はドイツ当局の対テロ対策自体が、警察の警備活動の域を出ていなかった。そのため、テロリストの襲撃を許し、人質も救えないという、惨めな失敗を喫することになってしまいました。
■誤爆で殺された無辜の人々
【佐藤】東京オリンピックに当てはめてみれば、カシミール問題で対立するインドとパキスタンの過激派が日本でテロを起こすなどとは誰も想定しないと思いますが、現代ではいかなる事態も起きるのだと肝に銘じるべきです。
【手嶋】ミュンヘンの「黒い九月」事件では、犯人側も8人のうち5人が死亡し、3人が西ドイツ当局に逮捕されました。イスラエル政府は「自分たちに始末をつけさせろ」と犯人の引き渡しを強硬に求めたのですが、西ドイツは拒否しました。
イスラエル政府は黙ってはいませんでした。報復としてシリア、レバノンのパレスチナ解放機構(PLO)の基地を空爆します。さらに、当時のイスラエルのゴルダ・メイア首相が、極秘の委員会を組織し、「黒い九月」のメンバーを次々に暗殺していったのです。首相の命令で殺害の手を下したのはモサドの特殊部隊でした。
【佐藤】『旧約聖書』の「目には目を歯には歯を」という報復法の世界でした。それらの作戦の過程で、誤爆で殺されてしまった無辜の人々もいました。
■政治に翻弄された「モスクワ」と「ロサンゼルス」
【手嶋】オリンピックを利用したテロルの時代の幕は、ミュンヘンであがったといっていいでしょう。1980年のモスクワ・オリンピックもまた、政治のなかで翻弄された大会になりました。発端は、前年の79年12月に起きたソ連軍のアフガニスタン侵攻です。西側の盟主、アメリカは、ソ連のアフガン侵攻に抗議して、モスクワ・オリンピックをボイコットするよう提唱し、日本や中国などおよそ60カ国がそれに倣いました。その報復として、次のロサンゼルス・オリンピックでは、ソ連がボイコットします。
【佐藤】これには、東側陣営の各国が連帯して、選手団を送りませんでした。ワルシャワ条約機構の各国では、ルーマニアだけがモスクワの意向に従いませんでした。文字通り東西のボイコット合戦になったわけですね。
【手嶋】このとき、独自路線を打ち出してロスに選手団を送ったルーマニアは、当然のことながら、クレムリンの激しい怒りを買ったわけですね。
【佐藤】そうです。当時のニコラエ・チャウシェスク大統領は、ソ連に反旗を翻すことで、アメリカの支援を引き出そうとしたわけです。
■アトランタでは2人死亡、112人が負傷した
【手嶋】ミュンヘンの次にテロの標的になったのは、96年のアトランタ・オリンピックでした。公園に仕掛けられた爆弾が爆発し、市民ら2人が死亡、112人が負傷するという惨事が起きました。実行犯はキリスト教原理主義者でした。
スポーツがらみのテロでは、2013年のボストン・マラソンを挙げなければいけません。世界中が注目するこうした大規模なスポーツイベントがテロの標的になったのです。
【佐藤】チェチェンの血を引く若者のテロルでした。
【手嶋】ある意味典型的なと言っていい今日的なテロでした。過激な思想を抱くテロリストが密かにアメリカに侵入したのではない。アメリカで育った若者が次第に心のうちに過激な思想を育み、超大国アメリカに牙を剥く「ホームグロウン・テロ」。しかも大きな組織的な背景を持たない「ローン・ウルフ」型テロルの典型でした。
【佐藤】使われたのは、圧力鍋を改造した爆弾でした。
【手嶋】なかに釘などを入れて、殺傷能力を高めていました。だから、非常にプリミティブなものですが、市民3人が死に、負傷者は300人近くに上りました。犯人の1人は、郊外に逃げ込んで、大規模な捕物作戦に発展した点でも、世界の耳目を集めました。
オリンピックの花形種目でもあるマラソンは、セキュリティーの面からは、警備が最も難しい競技といっていいでしょう。警備のラインが40キロを超えるのですから。警備はとても難しいのです。
■テロ対策は防衛側のコスパが極めて悪い
【佐藤】しかも、攻守の立場が非常に非対称になるのです。テロリストは、一瞬の隙を見て、一回事を成せば、それでいい。一方、守る側は、毎回そのアタックを阻まないと、負けになってしまう。100回のうち99回ブロックしても、一度破られれば失敗です。だから、防衛側のコストパフォーマンスがとても悪い。特に自爆型のテロの防止は、非常に難しい。
【手嶋】公安調査庁も、東京オリンピック・パラリンピックが標的とされる可能性を十分に踏まえたうえで、「『インテリジェンスの力』で東京大会の安全開催に貢献していく」と、公開情報である『内外情勢の回顧と展望』でつぎのように述べています。
【手嶋】東京への招致が成功したおよそ10日後には、「特別本部」を立ち上げ、インテリジェンス活動を開始しています。
■「サイバーテロ」が幅を利かせてきた
【佐藤】オリンピックに限らず、テロは爆弾や生物兵器だけが「武器」になるわけではありません。最近ますます幅を利かせているのが、サイバーテロです。
【手嶋】オリンピックを狙った攻撃もありました。
【佐藤】『回顧と展望』は、次のように分析しています。
ロンドン大会では、大会の運営に支障はなかったものの、電力供給システムを狙ったサイバー攻撃等が実行された。ソチ冬季オリンピック競技大会(平成26年〈2014年〉2月)では、大会に関連するウェブサイトがDDoS攻撃等を受けて一時的に利用できなくなるなどの被害が生じたほか、リオデジャネイロオリンピック競技大会(平成28年〈2016年〉8月)では、オリンピック関係機関からの情報窃取等が発生した。さらに、直近の平昌冬季オリンピック競技大会(平成30年〈2018年〉2月、韓国)では、開会式当日、サイバー攻撃に起因するシステムの不具合によってチケットが印刷できなくなるなど、大会の円滑な運営に不可欠なシステムが被害に遭った。
また、サイバー攻撃による大規模停電(平成27年〈2015年〉、ウクライナ)等、重要インフラへのサイバー攻撃の脅威が現実のものとなっているところ、こうした攻撃が東京大会の妨害に用いられた場合、その影響は同大会にとどまらず、国民生活に深刻な影響が及びかねないことから、特に注意を要する。
【佐藤】公安調査庁がオリンピックへのサイバー攻撃の脅威まで言及している点も注目していいのではないでしょうか。
【手嶋】新型コロナウイルスの動向もあって、2021年にどのような環境で東京大会が開催されるのかは不透明ですが、公安調査庁をはじめとする日本のインテリジェンス機関の実力が問われることになると思います。
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外交ジャーナリスト、作家
9・11テロにNHKワシントン支局長として遭遇。ハーバード大学国際問題研究所フェローを経て2005年にNHKより独立し、インテリジェンス小説『ウルトラ・ダラー』を発表、ベストセラーに。『汝の名はスパイ、裏切り者、あるいは詐欺師』のほか、佐藤優氏との共著『インテリジェンスの最強テキスト』など著書多数。
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作家・元外務省主任分析官
1960年東京都生まれ。作家・元外務省主任分析官。英国の陸軍語学学校でロシア語を学び、在ロシア日本大使館に勤務。2005年から作家に。05年発表の『国家の罠』で毎日出版文化賞特別賞、翌06年には『自壊する帝国』で新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。『修羅場の極意』『ケンカの流儀』『嫉妬と自己愛』など著書多数。池上彰氏との共著に『教育激変』などがある。
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(外交ジャーナリスト、作家 手嶋 龍一、作家・元外務省主任分析官 佐藤 優)
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