シリア人と空手で「決闘」し、反政府組織に目を付けられた日本人の実力

プレジデントオンライン / 2020年7月10日 15時15分

首の骨折から復帰し、コルセットをしたままベイルートで空手指導を再開した岡本秀樹氏(前列中央)。左は吉村徳政氏 - 提供=岡本秀樹氏

1970年代、シリアに派遣された空手家・岡本秀樹は着実に生徒を増やし、空手の認知度を高めていった。だが、シリアの警察に空手を教えていた岡本は反体制派とみられる勢力に襲撃され、重傷を負う。日本大使館が治療費を出し渋るなか、岡本の命を救ったのは——。(第2回/全3回)

※本稿は、小倉孝保『ロレンスになれなかった男 空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■滞在期限が迫る中、岡本は…

シリアでの嵐のような2年が過ぎ、1971年末、岡本の青年海外協力隊(JOCV)派遣は終わる。彼はシリアに残りたかった。あと数年、シリアやレバノンで指導を続ければ、地元に空手指導者が育つ。

砂漠にまいた空手の種は小さな芽を出しそうだった。このまま育っていけば、空手がアラブ一円に広まることも期待できる。岡本は海外技術協力事業団(OTCA)に派遣期間の延長を求めたが、受け入れてもらえなかった。たびたび問題を起こしている岡本に対し、大使館での彼の評判は最悪である。OTCAが契約延長を認めるはずはなかった。

そこで岡本を助けたのは、獣医師としてアラブ諸国の畜産業向上に貢献していた折田魏朗(ぎろう)だった。

「せっかくアラブ人が空手を受け入れようとしている。何とか岡本を残してやってもらえないだろうか」

折田は日本大使館の国際協力担当職員と折衝してくれた。大使館での折田の評価は高かった。

最終的に彼の意見を大使館側が聞き入れ、岡本はこの地域に残れることになる。

■後任としてシリアに派遣された吉村徳政という男

岡本はいったん帰国し、改めて空手指導専門家としてOTCAからレバノンに派遣されることになった。今度はベイルートを拠点にシリアでも空手を指導する。さらにOTCAは、シリア政府からの要請を受けて岡本の後任をダマスカスに派遣することになった。これでシリア、レバノン両国に日本人指導者がいる態勢が整う。岡本は74年、OTCAが国際協力事業団(JICA)になるのに合わせてJICAの専門家となる。

レバノンで空手指導を続けられることになった岡本は71年末、いったん帰国して小川ヒロミと結婚している。ヒロミはマレーシアでの国際協力活動を終えたところだった。岡本の実家で結婚式を挙げ、2人は72年2月、ベイルートに渡る。

一方、岡本の後任としてシリア中央警察学校で空手を教えることになったのは吉村徳政(のりまさ)である。45年生まれ。駒澤大学空手道部出身で、東急系の商事会社に勤めていた。海外にはまったく興味がない。就職してしばらくした71年、日本空手協会の指導員、大石武士からシリア派遣を打診されている。大石は駒大空手道部の先輩だった。大石の依頼となれば、吉村は簡単には断れない。

吉村がダマスカス国際空港に到着すると、岡本のほか警察学校の生徒が迎えにきていた。指導を始めてみると、施設は整い、生徒もやる気を見せている。岡本が空手の基礎をしっかり作っていることを、吉村は感じた。

「岡本秀樹の政治力のすごさを見た気がしました。私が行ったときには、柔道の生徒よりも空手の生徒の方が多くなっていました。岡本さんが空手の地位を上げていたんです」

■野心家の「問題児」と決闘に

吉村は最初の指導で洗礼を受ける。生徒の中に「問題児」が一人いたのだ。シャムスディン・ソファラディだった。空港からダマスカス市内に向かう車の中で、吉村は岡本に、「シャムスには気をつけろ」と聞かされている。シリアの空手界を牛耳る野望を膨らませているのだという。

岡本はシリアに空手の種をまいた。2年で種から芽が出た。空手界は萌芽の時期に入っている。ソファラディはダマスカスで自分の道場を開いていた。

岡本のシリアでの任期が終わる。これで自分の時代が来たとソファラディは思った。シリアに空手協会を作って会長にでもなれば、自分は30代にして不動の地位を築き、道場で金儲けもできる。そうした野望を持つソファラディにとって吉村は邪魔な存在だった。何とかして屈服させようとするだろう。それを感じた岡本は吉村に、「気をつけろ」と忠告したのだ。

吉村の稽古初日だった。基本練習の後、組手に入る。最初は約束組手である。攻撃する方が目標を相手に伝え、そこを攻撃する。受ける方はどこを攻撃されるかわかっているので、それを防御する。例えば、攻める方が「上段行きます」と言い、左右の手で交互に顔を突く。受ける方はそれを腕で防御するのだ。

■不意打ちの「突き」をかわして…

吉村とソファラディは向かい合った。ソファラディが攻撃側である。「上段行きます」と言うはずの彼は下を向いて、帯を締め直したりして、組手を始めようとしない。吉村が、「何をしているのか」と思った、その時だった。ソファラディが突然、吉村の顔に向け、思い切り突きを入れてきたのだ。約束なしの上段への突きだった。岡本から「気をつけろ」と忠告されていた吉村は準備ができていた。ソファラディの突きを片腕でかわして、足払いをかけた。ドスン。ソファラディは横倒しになった。吉村はその上から、蹴りを3回入れた。相手は血だらけになった。岡本が離れたところで、それを見ていた。

吉村の身長は185センチである。当時は20代半ば。強い盛りの彼にとって、空手を習って2年ほどのシリア人の突きは子供のお遊び程度だった。ソファラディは日本の空手家の強さをわかっていなかった。自分が新しい指導者を倒し、この国の空手界で支配的な地位を築こうと思ったようだ。吉村はこう回想する。

■まったく別の空手がそこにはあった

「思い切り3度踏んづけたでしょう。それでパッと周りを見たら、すぐ近くの階段の踊り場にカメラを持った人間がいるんです。シャムスが呼んでいたんです。今度来た日本人指導者を初日に血まみれにするから、それを撮れということだったようです。シリア人の精神を見た気がしました。日本人のように、試合の前後に礼をするような空手ではない。まったく別の空手がシリアにはあることを痛感しました」

岡本が生きてきたシリアは、日本とは異質な社会だと吉村は思い知った。その後、吉村は警察の将校官舎に入ったとき、玄関ドアの窓ガラスに板を張っている。

「手榴弾を投げ込まれたら、やばいなと思ったんです。シャムスならやりかねない。危ねーなと思ってね」

■折田先生と面会の帰り道、トラックに突っ込まれる

72年の秋ごろになると、「オカモト」の名は中東全域に聞こえるようになり、他のアラブ諸国からの指導要請が引きも切らずに来るようになった。

そんなある日、岡本は妻のヒロミと吉村、そして空手の生徒、ヘケマット・ラバディーニの4人でシリア北部アレッポを訪ねた。シリア第2のこの街には、岡本の数少ない理解者、折田魏朗がいる。岡本はこのときの訪問について、「アレッポ大学で空手の演武をしたあと昇級昇段試験をし、折田先生にあいさつした」と語っている。一方、吉村は、「折田先生の息子が病気になったので、その見舞いに行ったんだと思います」と言う。ヒロミに確認すると、「両方の目的だったように思う」とのことだった。

4人はアレッポでアルメニア人の作ったコフタ(ひき肉料理)を食べた後、岡本のベンツでダマスカスに帰る。岡本が疲れていたため、吉村が運転し助手席にラバディーニ、岡本とヒロミが後部座席に座った。日が暮れかけた。ダマスカスの手前約170キロ。ホムスの街の夕日はきれいだった。岡本らの車が交差点に入ったときだった。

右手から飛び込んできたトラックが吉村の運転する車にぶつかった。ヒロミのひざ枕でうとうとしていた岡本は、衝撃で頭部を窓ガラスで強く打つ。頭部から顔面にかけて血まみれになり動くこともできない。命の危険もありそうだった。トラックはそのまま逃げた。

■現地の反体制派に狙われたか

警察が来て、岡本は近くの病院に搬送された。吉村は折田に連絡しようと思った。警察はすぐに折田に連絡をとってくれた。折田は警官を相手に乗馬を指導していたため自宅に警察電話があったのだ。この事故についても折田はよく記憶していた。

「夜中の零時ごろだったと思います。警察からの電話ですぐに来てくれというから、ぶっ飛ばして行きました。岡本は反体制派に狙われたのかもしれません。当時、アサド政権に反対する勢力は少なくありませんでした。岡本はその政権の治安能力を向上させるために活動しているのですから、狙われる可能性はあると思っていました」

アレッポからホムスまでの距離は約180キロである。それを折田は一時間ちょっとでやって来た。

「私がホムスの病院に駆けつけると、もう頭の手術は終わっていました。岡本は意識があり、ベッドで空手の稽古のようなことをしていました。手術した医師に聞くと、頭からは脳がちょっと出かけていたようです。それなのにすぐに空手の稽古をしている。本当に馬鹿な男だと思いました」

■治療代は当時の100万円かかる

岡本は頭部を58針縫った。問題は首だった。折田は獣医である。岡本が首を負傷しているのが折田にはわかった。彼の指示で病院は岡本の首にレントゲンをあてた。頸椎が3カ所(第5、第6、第7)損傷していた。すぐに手術が必要だ。ベイルートに搬送するしかないと折田は判断した。

小倉孝保『ロレンスになれなかった男 空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』(KADOKAWA)
小倉孝保『ロレンスになれなかった男 空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』(KADOKAWA)

「この辺りでは当時、頸椎の手術はベイルート・アメリカン大学病院のハッダードという神経外科医にしかできなかった。彼に頼めば、何とか助かると思いました。問題は治療費です。手術となると100万円ほどかかる。当時の100万円は大きいです」

折田の心配をよそに、岡本は「後遺症が心配だ。空手はできるかな。ようやく(この地域での空手指導が)うまく行きかけたのに」と繰り返している。折田は、「まずは生きることだけを考えろ。後遺症が残っても、生きてさえいればいい。神に祈れ」と言った。

岡本はホムスの病院でベイルート・アメリカン大学病院に転院する日を待っている。大使館員が病院に花を持ってやって来たとき、折田は治療費を工面するよう掛け合った。

■しかし、大使館の反応は……

「一刻を争います。何とか治療費を出してやってもらいたい」
「治療費を出す場合、公務かどうかが問題になります」
「公務ということにしてもらえませんか」

折田は食い下がるが、大使館員は冷たかった。

「まずは調べさせてください。その上で公務と認定されれば保険で対応します」
「調べるのに、どれくらい時間がかかりますか」
「1週間ほど待ってください」
「1週間も待っていたら、この男は死んじゃいますよ」
「それが規則ですから」

大使館員が帰ったあと、折田は言った。

「岡本君、だめだ。これは君に対する嫌がらせだ」

シリアで空手指導を始めた当初、岡本は幾度となく大使館ともめている。大使から「日本に帰れ」と言われたこともある。今回の治療費を巡るやりとりが嫌がらせだったとまでは考えにくいが、大使館側には、「何としてでも岡本を助けたい」という意志もなかったのだろう。

数日待ったところで折田は決断する。このままでは手遅れになる。

「とりあえずベイルートに行って手術をしろ。治療費のことは後から考えよう」

岡本は首を固定し、自分でタクシーをチャーターしてベイルート・アメリカン大学病院に行った。当時の思いを岡本はこう言う。

「こうなったら死んじゃったってしょうがないと思いました。死なないまでも、空手はできないかもしれないなと。むしろ折田先生に感謝する気持ちが強かった」

■レバノンの生徒が「お金は私が出す」

大学病院に入ると、事故を聞きつけたレバノンの生徒たちが次々とやって来た。手術は急を要する。病院側は入院費用はともかく、手術費だけでも前払いしてくれと言う。岡本と病院側がもめていると、生徒の1人が費用を全額出すと言い出した。ミゲール・アブザイドという富豪だった。清涼飲料水の販売を手がけたことから「セブンアップのミゲール」と呼ばれていた。

彼はそのほかにも数十の会社を経営している。岡本の様子を見たアブザイドは涙を流し、こう言った。

「心配することはない。お金は私が出す。私は毎年、あっちの村、こっちの村に教会を寄贈している。今年は、その代わりにあなたのために使ったと思えばいいんだ」

岡本は短い手紙をヒロミに書いた。

〈このまま死んだら、ごめんなさい。さようなら。〉

麻酔を掛けられ手術が始まる。執刀医はフアド・サミ・ハッダードである。麻酔医のレベルが低いのか、うまく麻酔が効かない。ハッダードが助手と話しているのが岡本の耳に入った。「あと1ミリ深く(頸椎が)割れていたらダメだっただろうな。空手はどうだろうか。歩けるようになるかな」

■1週間で歩き、1カ月ほどで稽古を再開

岡本はその後、眠りについた。目を覚ましたときにはすでに病室だった。後輩の中山の顔が見える。

「おう、中山、生きていたようだ」
「押忍、先輩、わかりますか」
「空手は難しいかもしれないな」
「そうですか。医者はとりあえず、血行をよくしろと言っています」

手術から1週間ほどすると、岡本は歩けるようになった。それを見ていたハッダードが言った。

「これなら再起できるかもしれない」

首の骨折から復帰し、コルセットをしたままベイルートで空手指導を再開した岡本秀樹氏(前列中央)。左は吉村徳政氏
提供=岡本秀樹氏
コルセットをしたまま空手を指導する岡本秀樹氏 - 提供=岡本秀樹氏

岡本は病院内を歩き回った。階段を何度も上り下りする。しばらくして退院すると、すぐに道場での指導も再開した。首にコルセットを着けながら岡本は、「屈伸蹴り200回」「前蹴り200回」と声を張り上げた。岡本は懐かしそうにこう語る。

「医者は半年くらいは大人しくしているようにと言ったんですが、1カ月ちょっとで稽古を再開しました。その姿勢に生徒が驚くわけです。私が空手をいかに大切にしているかが伝わったんです」

折田がその後、大使館と交渉してくれた結果、岡本の手術費用は保険でまかなわれることになった。

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小倉 孝保(おぐら・たかやす)
毎日新聞論説委員
1964年滋賀県長浜市生まれ88年、毎日新聞社入社。カイロ、ニューヨーク両支局長、欧州総局(ロンドン)長、外信部長を経て編集編成局次長。2014年、日本人として初めて英外国特派員協会賞受賞。『柔の恩人』で第18回小学館ノンフィクション大賞、第23回ミズノスポーツライター賞最優秀賞をダブル受賞。近著に『ロレンスになれなかった男 空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』(KADOKAWA)がある。

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(毎日新聞論説委員 小倉 孝保)

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