なぜドイツ人は「3人に2人」が自分のクルマを持っているのか

プレジデントオンライン / 2020年7月14日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mrohana

ドイツ人は車にこだわる。18歳以上の成人の3人に2人が車を持っており、日本人より車が身近だ。ドイツ在住の作家・川口マーン惠美氏は「ドイツ人にとって車は、豊かさであり、自由の象徴なのだ」という——。

※本稿は、川口マーン惠美『世界「新」経済戦争 なぜ自動車の覇権争いを知れば未来がわかるのか』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■ドイツ人の「車へのこだわり」はなぜ生まれたのか

ドイツ人の車へのこだわりは半端ではない。ガソリン車を作ったのはダイムラーやベンツで、ディーゼルエンジンの発明者はその名の通りルドルフ・ディーゼルであるから、車を発明したのは自分たちだというドイツ人の自負は、事実に基づいている。そもそも、自動車のエンジンのもととなる内燃機関を発明したのも、ドイツ人のニコラウス・オットーだった。

名高いドイツの高速道路「アウトーバーン」の前身は、「帝国アウトーバーン」だ。1933年に政権を掌握したアドルフ・ヒトラーが即座に取り組んだプロジェクトで、ドイツ全土に全長7000キロメートルの高速道路網を建設することが計画された。最初の区間は1935年に開通している。

当時のドイツは、ヴェルサイユ条約で定められた第一次世界大戦の巨額の賠償金のせいで不景気のどん底にあり、膨大な失業者を抱えていた。つまり、「帝国アウトーバーン」計画は、どん底にあったドイツ経済を立て直すためにヒトラーが考え出した財政出動の一環である。

■ドイツの自動車戦略はヒトラーから生まれた

さらにヒトラーは、その翌年には「フォルクスワーゲン計画」にも着手した。1934年にベルリンで開かれた国際モーターショーで、ヒトラーは、1000帝国マルクで買える国民車を作ると宣言する。ちなみに、フォルクスワーゲンは、「フォルク(=国民)のワーゲン(=車)」、アウトーバーンは、「アウトー(=自動車)のバーン(=道路)」という意味になる。

川口マーン惠美『世界「新」経済戦争 なぜ自動車の覇権争いを知れば未来がわかるのか』(KADOKAWA)
川口マーン惠美『世界「新」経済戦争 なぜ自動車の覇権争いを知れば未来がわかるのか』(KADOKAWA)

この国民車づくりの大プロジェクトを任されたのが、当時、車の設計者として有名だったフェルディナント・ポルシェ。言うまでもなく、ポルシェ社の創立者で、19世紀の終わりに、世界で初めて電気自動車を時速100キロメートルで走らせた。現在のポルシェ社はフォルクスワーゲングループの傘下にあるが、両社の関係は古くて深い。

こうして1938年、国威発揚の掛け声の下にフォルクスワーゲン社が創立された。「休みの日には皆がドライブできる生活を」というスローガンは、生活苦の只中にいた国民を魅了した。ただ、ヒトラー時代にどんどん建設されたアウトーバーンとは違って、フォルクスワーゲンのケーファー(カブトムシ)が国民車として、当時の西ドイツ全土に浸透したのは、ヒトラーがいなくなってからのことだ。

■戦後、ドイツは「国家」を失った

ヒトラーがいなくなったのは1945年4月30日で、そのあとまもなくドイツは文字通り崩壊する。日本も同じ敗戦国だが、政府はちゃんと存在し、ポツダム宣言の条項を呑んで、「降伏」した。それに基づき、主な連合国と「平和条約」を締結。ソ連や韓国とは別途、それぞれ「日ソ共同宣言」、「日韓基本条約」および「日韓請求権協定」を結んだ。

しかし、ドイツは違った。ヒトラーの遺言でドイツ帝国の大統領に就任したカール・デーニッツ元帥は、無条件降伏に調印したあと、連合国に逮捕された。ドイツは、平和条約を結ぶ機会も資格も与えられず、無政府状態のまま米・英・仏・ソの連合四カ国軍に占領された。

国家というのは、領土、国民、主権という三つの要素からなる。しかし、戦後まもないドイツには、国民はいたが、確固たる領土もなければ、もちろん主権もなかった。つまり、戦後のドイツは一時的とはいえ、国家を失った。それが国民にとってどれほど不安な状況であったかということは、想像するだに恐ろしい。警察や法律といった自分たちを守ってくれるものが何もないところで、国民は生き延びた。しかも、ホロコーストのせいで、ドイツ人には名誉もない状態が、戦後も長く続いた。

■その後を左右した「フォルクスワーゲンの価値」

フォルクスワーゲンは、敗戦直後の5月より、ただちにイギリス占領軍の配下に入った。軍需の生産設備となっていた工場は、建物は2割が破壊されていたが、生産設備の9割は、どうにか使用できる状態にあった。そこで、6月半ばには、「カブトムシ」の生産が始まった。

しかし、同社の先行きはまだ不明だった。当時、占領軍は、賠償の代わりと称して、おびただしい数の特許や技術を、ときには技術者や生産手段ごと収奪し、自国に持ち帰っていた。フォルクスワーゲン社に対しても、イギリスのフンバー社とアメリカのフォード社が興味を示し、綿密な調査に入った。

ちなみに、当時のドイツの都市は、どこも見渡す限りの瓦礫の山だった。ベルリンを視察したアメリカ軍の幹部は、この街の復興には100年かかるだろうと言ったほどだ。その荒涼とした風景に影響されたのか、英米どちらの国の調査団も、フォルクスワーゲン社は無価値であるという結論に達した。彼らが、フォルクスワーゲン社を、醜い形の自動車しか作れない凡庸な企業だと思ったのだとしたら、判断を完全に誤ったと言える。

■いびつなほどの経済格差が生まれる西と東

しかし、そのおかげで同社は幸運にも、ドイツ企業として存続することが可能となり、その後まもなく「カブトムシ」の生産が炸裂する。ドイツ人にできたのは、ただ、死にもの狂いで働くことだけだった。1949年、ドイツは、東西に分裂したまま、それぞれに独立する。以後、特に西ドイツは順調に復興し、東ドイツに対して、次第にいびつなほどの経済格差をつけていくことになる。

「カブトムシ」の生産台数が10万台の大台に乗ったのは1950年だ。その5年後には、累計生産台数が1000万台を超えた。頑丈で、安くて、長持ちしたこの車は、ドイツの「奇跡の経済復興」のシンボルとなった。かつてのヒトラーの約束が、ようやく現実になったのである。

もちろん、フォルクスワーゲン以外のメーカーも好調で、あらゆる用途の車が生産された。今では高性能車のメーカーとして名を馳せているBMWが、この頃、豆粒のようなイセッタをライセンス生産していたのは意外で面白い。

■ドイツ人にとって自動車は自由の象徴

経済が急速に回復していくにつれ、安い車ではなく、高速車を求める顧客も増え始めた。ポルシェが伝説的な名車911の生産を開始したのが1963年。ドイツの奇跡の経済成長の真っ只中だ。車はドイツ人にとって、豊かさであり、同時に、限りない自由の象徴でもあった。

時代は下って2011年。統計では、世界中の乗用車の5.7%がドイツにあったと言う(「Verband der Automobilindustrie」/ドイツ自動車連合会の資料より)。2018年の日本の乗用車の保有台数は6050万台で、ドイツが4700万台。台数では日本のほうが多いが、人口が違うから、乗用車の密度はドイツのほうが高い。18歳以上の成人の3人に2人が車を持っているという計算になる。

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川口 マーン 惠美(かわぐち・まーん・えみ)
作家(ドイツ在住)
日本大学芸術学部卒業後、渡独。85年、シュトゥットガルト国立音楽大学大学院ピアノ科修了。著書に、『移民 難民 ドイツ・ヨーロッパの現実 2011-2019』(グッドブックス)、『そしてドイツは理想を見失った』(角川新書)ほか多数。16年、『ドイツの脱原発がよくわかる本』(草思社)で第36回エネルギーフォーラム賞・普及啓発賞、18年、『復興の日本人論』(グッドブックス)で第38回エネルギーフォーラム賞・特別賞を受賞。

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(作家(ドイツ在住) 川口 マーン 惠美)

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