外務省を無視してアラブで空手を教え続けた「砂漠の黒帯」の伝説
プレジデントオンライン / 2020年7月17日 15時15分
※本稿は、小倉孝保『ロレンスになれなかった男 空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
■対テロ専門部隊の指導員に就任
エジプトが親米国家になるのと入れ替わるように、イランは反米国家となった。79年3月にエジプトがイスラエルと平和条約を締結すると、イランはエジプトとの外交関係を断絶する。中東でのエジプトの孤立が一層鮮明になっていく。
当時大統領だったサダトは78年、国軍内にテロ対策の専門部隊「777」を創設した。エジプトでは76年にパレスチナ人による航空機のハイジャックが起きた。サダトが77年にエルサレムを訪問したことで、国内のイスラム過激派組織が政府やサダトに対する批判を強めていた。それに対応するため、サダトはテロ対策専門の精鋭部隊を作ったのだ。
岡本は79年、大統領府から「777」の格闘技指導員になるよう要請される。それまでは道場で空手を指導してきたが、「777」の訓練では、屋外での防御や攻撃の方法を教える。自動車から降りてすぐに相手を攻撃するケースを想定したり、ヘリコプターから降りたときに攻撃を受けた場合を想定したりした。カイロ郊外ギザのピラミッド近くの砂漠に広い秘密訓練施設があった。
「試行錯誤でした。そんなことは私も習ったことがない。だから、軍の特殊部隊の幹部と一緒に、どうやってテロ対策に空手が使えるか考えました。隊員はヘリからロープを伝ってするすると降りるんですが、そんなの怖くて、僕はできやしない。ベンツの上でクルッと回って柔道の受け身のようなこともやっていました。私は首を折っているから、それも遠慮させてもらいました」
■空手人気に乗じて「武道センター」を作りたい
そして、このころ彼は母校との関係を深めていた。国士舘大学が国際化の一環として、武道を世界に普及させるプロジェクトを進め、それに岡本が協力していくのだ。
きっかけは80年8月末、西ドイツ(当時)のブレーメンで日本空手協会が開いた世界空手道選手権大会だった。岡本はエジプト選手団を率いて参加し、団体戦四位の成績を収めた。そのとき彼は国士舘大学の理事長兼総長、柴田梵天(ぼんてん)と会う。創立者の柴田德次郎は7年前に亡くなり、梵天が後を継いでいた。
岡本はエジプトに帰ったあと、武道センターを建設するため国有地を使わせてもらえないか、政府幹部に持ちかけている。エジプトの空手人気は高かった。世界選手権で4位に入ったことで注目度も上がっていた。エジプトはイスラエルと関係を改善し、不用になった軍用地が生まれつつあり、国有地の利用は難しくないと岡本は感じた。彼は国士舘大学総長とエジプト政府幹部との会談をセットする。
■エジプトにとって投資は願ってもなかった
柴田は81年5月31日、武道友好使節団を率いてカイロにやって来た。使節団は翌日、エジプト青少年スポーツ省に大臣のアブドル・ハミド・ハッサン、次官のユーセフ・アボウ・オウフを訪ねている。そこで大臣と次官は岡本の活動を称えた。国士舘大学新聞(6月27日付)はこう伝える。
〈大臣も次官も、六年前からエジプトにおいて空手の指導、普及に当たっている本学の卒業生岡本秀樹氏の誠実な人柄と熱心にして卓抜した指導振りを非常に高く評価し、本学の教育の成果に深い関心を示しておられた。〉
袖の下による密輸で荒稼ぎしている岡本の人柄を、「誠実」と表現しているところはいかにも、持ち上げ過ぎである。エジプト側は国士舘大学に投資を期待していた。大臣や次官の褒め言葉は、投資への期待から来る社交辞令だろう。
国士舘大学は武道を海外で普及させることを目的に海外支部を設置していた。61年のニューヨーク支部を皮切りに、72年にはパリ、77年にはカイロにそれぞれ支部を開設し、岡本がアラブ・アフリカ支部長に就いている。
■「これからの世界は日本の武道精神が必要だ」
大臣は総長にこう述べた。
〈「複雑化しつつある国際情勢においてこれからの世界は、日本の武道精神が必要であると考える。したがって、アメリカ、ブラジルにおけると同様、国士舘大学の支部をエジプトにも開設してほしい」〉
大臣はすでに国士舘大学がカイロに支部を開いていることを知らなかったようだ。また、国際情勢が複雑化しているため武道精神が必要というのは意味不明である。とにかくエジプト側は何としてでも投資を呼び込もうとしていたようだ。
国士舘大学はエジプト政府と「武道交流協定」を締結し、カイロに武道センターを建設する計画が動き出す。
一方、日本の外務省はこの武道センター建設計画に反対している。岡本はそのことを知らない。梵天の長男、德文はこう証言する。
「カイロに行く前、私が外務省に呼ばれました。文化外交を担当する部署です。エジプトで何をやるのかと聞かれ、武道の演武をやると説明しました。すると外務省の方から、『エジプトから武道センターの話があっても一切乗るな』と釘(くぎ)を刺されました」
■外務省の忠告もすっかり忘れ…
德文によると、岡本は最初、武道センターの建設を日本政府に持ちかけていた。政府開発援助(ODA)を使って武道センターを建てようと考えたのだ。エジプト側もそれを期待していた。一方、外務省は岡本主導で武道センター建設計画が進むことを嫌ったようだ。外務省が乗ってこないので、岡本はこの計画を国士舘大学に持ちかけたというのが真相に近い。
外務省からの忠告にもかかわらず、柴田梵天はエジプト政府の要望に応じた。エジプト空手協会の代表、カリム・ナフィアは柴田にこう話した。
「私は日露戦争のころから日本を特別な国だと思っている。欧米諸国に対してアジアが勝利したからだ。そして、今また日本は戦後復興を見事に成し遂げた。その原動力は日本人の精神にある。武道を通して日本人の精神を学びたい」
この言葉に感動した柴田は外務省に釘を刺されていることをすっかり忘れ、武道センター建設を目指すことになる。
■定礎式には軍幹部や五輪委員会も出席
サダト政権崩壊後もエジプト政府と国士舘大学で武道センターを建設するプロジェクトは順調に進む。柴田梵天は81年11月末にカイロを訪れ、詰めの話し合いをしている。エジプト側が土地を提供し、大学がセンターを建てることになった。建設費は約3億円。建物の所有者は国士舘大学とすることも決まった。
エジプト側は提供できる場所としてカイロ中心部のザマレクのほか、無名戦士の墓近くの土地など2カ所を提案した。柴田たち大学一行はその3カ所を見て回り、最終的に無名戦士の墓近くの土地を選ぶ。暗殺されたサダトの眠る場所にも近かった。岡本は自分を支援してくれたサダトへの感謝の意味も込め、この場所が選ばれたことを喜んだ。
武道センターの定礎式は82年5月9日午前9時から開かれた。この直前、エジプトはイスラエルとの交渉でシナイ半島の返還を実現していた。国中が祝賀ムードに包まれる中、定礎式にはカマル・ハッサン・アリ、青少年スポーツ相のアブドル・ハミド・ハッサンのほか軍や五輪委員会の幹部が顔をそろえた。柴田、アリ、ハッサンの三人が、エジプト国旗と同じ黒、白、赤の3つの石で定礎した。名称は「国士舘カイロ武道センター」と決まり、アリが総裁、岡本が理事長に就任した。岡本はアリと二人三脚でプロジェクトを推し進めていく。
■「砂漠の黒帯」の活躍は日本にも広まり…
このころから日本メディアでは、中東での岡本の活動や、彼がエジプト政府に個人的な人脈を築いていることに注目する報道が増えていた。日本経済新聞は82年1月31日朝刊一面で、「砂漠の黒帯」の見出しで彼を紹介している。
〈日本ではほとんど知られていないがエジプトでは英雄。アラブ空手の生みの親だ。(中略、岡本が)街を歩けば、「モダレブ・カラテ」(空手先生)と握手を求める男たちがひきもきらない。〉
「握手を求める男たちがひきもきらない」というのはやや誇張した表現だと思うが、空手がこの地に根付いていたことは確かだろう。そして、その背景の一つとしてこの記事は、岡本が政官界に築いた人脈を挙げている。
〈ムバラク大統領親子もエジプト空手連盟の会員。子息には岡本氏自身がてほどきしたこともある。イスラエルとの外交交渉の立役者、アリ外相とは国防相時代からの旧知の間柄。空手を通じての人脈は内務省、軍隊を中心に政官界に奥深くひろがっている。〉
読売新聞も82年11月6日の「世界の中の日本人」でカイロ特派員が、「アラブ世界で空手の普及に努める岡本秀樹さん」として、こう紹介している。
〈今、アラブ諸国は空前の空手ブーム。どこへ行っても、日本人だとわかると、子供たちが「カラテ」と叫んで、寄ってくる。(中略)このアラブの空手ブームの頂点に立つのが岡本さんである。〉
岡本はアラブ各国に空手連盟を作った。シリア・ダマスカスの警察学校で空手を指導した12年前のことを思うと隔世の感がある。岡本はこのころ、「アラビアのロレンス」になれるかもしれないと感じ始めていた。
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毎日新聞論説委員
1964年滋賀県長浜市生まれ88年、毎日新聞社入社。カイロ、ニューヨーク両支局長、欧州総局(ロンドン)長、外信部長を経て編集編成局次長。2014年、日本人として初めて英外国特派員協会賞受賞。『柔の恩人』で第18回小学館ノンフィクション大賞、第23回ミズノスポーツライター賞最優秀賞をダブル受賞。近著に『ロレンスになれなかった男 空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』(KADOKAWA)がある。
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(毎日新聞論説委員 小倉 孝保)
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