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石原慎太郎「死線を越えた人間のみが味わえる実感がある」

プレジデントオンライン / 2020年8月1日 11時15分

1932年、兵庫県神戸市生まれ。神奈川県立湘南高校、一橋大学卒業。大学在学中に執筆した『太陽の季節』で芥川賞受賞。68年、自民党から出馬し参議院議員に。元東京都知事。『法華経を生きる』『老いてこそ人生』、ミリオンセラーとなった『弟』など、著書多数。

「虚無は実在する」──87歳になった石原慎太郎氏の言葉は、「死」についての、そんな謎めいた表現から始まった。世界中が「命」と真剣に向き合う中で聞いた、「人間の一生」とは。

■死線を越えた人間のみが味わえる実感

今から7年前、私は脳梗塞で入院しました。幸いにも早期発見だったため、利き手の左手だけは麻痺したものの、言葉は明瞭に話せたし、すぐに歩くこともできました。

しかし梗塞を起こした場所が記憶を司る海馬の近くであったため、一時は文字というものをすべて忘れてしまいました。また文字の記憶が蘇ったのちも、左手に麻痺が残ったので、字をうまく書けないという時期が続いたのです。もっとも、右手のほうは使えたので、入院中はワードプロセッサーを使って短編小説を書き上げるという新しい経験をすることはできたのだけれど。

この病は私に、人生で初めてといっていいほどの巨大な喪失感をもたらしました。大病をすると、己の死期が近づいていることを嫌でも自覚しないわけにはいきません。するとそのことによって、ものの見方や考え方にも変化が生じるものです。日常茶飯に思っていたものが非常に新鮮に見えるようになり、たとえば廊下を這っている小さな虫をスリッパで踏みつぶそうとも思わなくなりました。かろうじて生きている者同士としての共感があるからでしょう。

今は毎日、床に就く前に「今日も無事に一日が過ぎた」と振り返り、就寝中に急死した友のことを脳裏に描きながら「今晩あたり、寝ている間に死ぬかな」と目を閉じます。こういう実感は、死線を越えた人間でなければ味わえません。1度倒れて死に損なう経験をすればわかります(笑)。健常な年若い人には想像もできないでしょう。

■私なりの悟りの言葉「虚無は実在する」

フランスのソルボンヌ大学の哲学教授だったウラジミール・ジャンケレヴィッチが『死』という有名な本を書いていて、死を多角的に分析しています。実に面白い内容なのですが、その中に「老衰とは死の育成」という一節がある。まさにそうだと思います。死というのは人間にとって最後の未知で最後の未来だから、私にとっても非常に興味を惹かれる対象なのです。

では、死ぬとどういうことになるのか。

意識が消滅するのですから、死ねば虚無です。人間が喜んだり愛したり恐れたり怒ったりするのは全部、意識の産物です。意識がなくなってしまったら、自分がどこにいるのかさえもわからない。死んだら何もないのです。

だから私は、こういう言葉をつくりました。

「虚無は実在する」

アフォリズムとしてよくできているのではないかと思います。虚無は虚無として実在する。仏教から来ているといえばそうかもしれないが、それよりもこれは私自身が自分の行動や思索を通して到達した言葉です。私なりの悟り、覚悟と言ってもいい。

年を取れば誰しもわかるようなものですが、人生には限りがある。死ねば虚無しかなく、虚無は実在する。そう考えると、生きている時間が一層愛おしくなるものです。

私はよく「おまえはもう十分にいろんなことをやってきたじゃないか」と言われますが、そういう私でもこの世への未練は尽きはしません。

もっともっと面白いヨットレースをやってみたかったし、スキューバダイビングにしても、世界中の海をめぐってガラパゴス沖のように日本近海とはかけ離れた素晴らしい海にも潜ってきたけれど、それでもまだ行ってみたい場所はあるのです。

しかし、死んだら終わりです。意識が消滅したら、何ものも知覚できるわけはないのです。だからこそ、生きている時間の大切さがわかろうというものです。

そのことが鮮明にわかる瞬間があります。残酷なことですが、とりわけ老いた人間にとって、親しい間柄の人の訃報は活力にもなりえます。私もこの年ですから、長年のヨット仲間や友人たちを数多く見送ってきました。そのたびに感じるのが、彼らは死んでしまったが自分はまだ此岸にいる、という感覚です。老いて意気阻喪していた自分にはそれが意外な活力にもなるのです。

とはいえ、老齢ゆえの孤独と不安は、必ずしも悪いものとは限りません。私はそうした感情に耐えることこそ、老いての生き甲斐ではないかとさえ思っています。

誰しも若い頃の自分と今の自分を比べるのは辛いことです。脳梗塞を患ってからは、日課としている散歩ひとつにしても、思ったほど遠くまでは行けません。「昔はもっと歩けたのにな」なんて言いながら引き返してくるのはいかにも残念で、いい気持ちがするものではありません。けれど、それは仕方がない。肉体の限界というものがあるからです。それを我慢するのも、ひとつの生き甲斐と言えるでしょう。

■仏教以外に本来の哲学を説いた宗教はない

ただ私には幸運にも、ものを書くという生き甲斐もあります。ときどき若い頃に書いた小説を読み返すのですが、今読むと幼いと思える部分がある。だから「今の俺ならこう書くだろう」などと、あれこれ考えをめぐらすのは面白いものです。

一橋大学在学中に芥川賞を受賞した当時。自室で原稿を執筆する。
一橋大学在学中に芥川賞を受賞した当時。自室で原稿を執筆する。(毎日新聞社=写真)

先日、ライフワークのひとつを完成させました。私自身が心のよりどころとする法華経の現代語訳と新しい解釈を記した本です。偉い坊さんたちが読んだら解釈が違っていると怒るかもしれませんが、私自身の経験から私なりに納得のいく解釈を導いたものです。これを持ってこれから全国を説法して歩こうかと思っています(笑)。

といっても、私はある特定の宗教・宗派の熱心な信者というわけではありません。釈迦が人生の中で実践し考え抜いた末の認識を弟子たちが書物にまとめたのがお経、仏典です。その中でも法華経には実に多くの学ぶべき知恵が詰まっていると感じ、私自身の行動や思考の指針としています。だから私は宗教というよりも、実践的な哲学として釈迦の言葉に接しているのかもしれません。

哲学とは存在と時間を考える学問です。そうした本来の意味の哲学を説いた宗教があるかというと、仏教以外にはないだろうと思います。

たとえばキリスト教は、つまりはイエス・キリストの一代記です。人間の愛について、虐げられたユダヤの民への共感をベースに説いている教えですが、そこに哲学はありません。あとからギリシャ哲学を援用してきて、神学というものが出来上がったにすぎません。

これに対して仏教は、たとえば時間の推移が存在の形を変えていくという認識を世界で初めて説きました。それを端的に表した言葉が「色即是空 空即是色」です。

釈迦自身は来世などというものを説いてはいません。浄土宗など後世の仏教が極楽浄土を強調したから多くの人が勘違いしていますが、初期の仏教には極楽や地獄という概念はないのです。釈迦は今をどうやって生きるかということをこそ説いています。来世も極楽もありません。私に言わせれば、そんなものを信じていたら甘ったれるだけです。

日本の仏教の系譜

■老いてからの生き甲斐は自分で見つけるしかない

さて、私にはものを書くという生き甲斐があると言いました。「作家ではない自分にはどんな生き甲斐があるんだろう」と悩む人もいるでしょう。結局は自分で見つけるしかないのですが、その気になって探してみれば、身の回りにもたくさんあるはずです。極端な話、野良犬を拾ってきて育てるのも生き甲斐になるかもしれません。

いろいろなところに共感の種はあるのです。それを自分の手でつかみ取ることです。そうした行動をせず、くよくよしながら死んでしまったらどうにもなりません。

私のことを言えば、どんなに気が滅入ったときでも、自ら死を選ぼうなどということをわずかでも考えたことはありません。死んではつまらないし、もったいない。この先に残っている人生で、まだいろいろなことができそうな気がしますから。

三島由紀夫さんはああいう形で自ら命を絶ってしまいました。自衛隊市ヶ谷駐屯地(当時)への立てこもり、決起の呼びかけ、切腹、介錯。それ以前に「楯の会」での行動や著作を通じ、自死までの道をごてごてと飾り付けていきました。けれども私は、それをちっともうらやましいとも美しいとも思いません。

江藤淳は私の文学に「死の影が差している」と評しましたが、私は行動派であり肉体を酷使するだけに、死に近づくのは道理です。しかしそのときに死を強く意識するということはありません。あくまでも、そのときそのときの自分の人生を謳歌するという考え方があるだけです。

今、残念だと思うのは、日本人の多くが幼稚になったということです。人間の価値であるはずの感性が鈍麻し、あれかこれかと議論するのはちまちました小さなことばかりになりました。会ってみて感じるのはのっぺりとした平凡な人間性で、こちらがショックを受けるような鮮烈な個性を持った人間がいなくなりました。特に若い世代に少ない。

今の日本の政治家はほとんどが幼稚です。歴史を知らないからです。本質的な歴史観を踏まえて、今の自分を考える、今の国を考える、そういう本当の教養を持った政治家がどこにいますか。みんな姑息で、その場その場で一時しのぎの自己満足や自己暗示に終始しています。

突如として世界を襲った新型コロナウイルス問題への対処が象徴的です。これこれの時期になったら経済活動を再開できるだろうとか、旧に復することばかりを考えている。でもこの新型ウイルスの流行はしばらく続きます。1年先延ばしした東京オリンピックですが、私は開催できないと見ています。

■世界は本質的な変革を求められている

コロナ禍に見舞われた世界は、本質的な変革を求められています。40年ほど前に宇宙物理学者ホーキング博士が来日した際、私は「あなたはある程度まで発展した文明は一瞬のうちに滅びると言ったが、宇宙的な尺度で一瞬とはどのくらいか」と質問しました。そのとき彼は「100年くらいでしょう」と答えた。つまり人類文明が環境問題などの課題を放置していたら、あと100年しかもたないだろうと言ったのです。

ベストセラー『老いてこそ人生』から18年、あらためて「老い」とは何かに向き合う思索の書。生命にかかわる大病を7年前に経験した著者が考察した死生観
ベストセラー『老いてこそ人生』から18年、あらためて「老い」とは何かに向き合う思索の書。生命にかかわる大病を7年前に経験した著者が考察した死生観。

ホーキング博士の予言からもう40年経ってしまいました。今この機会に変えなければ人類文明の存続はない、と腹の底から理解している政治家はどれだけいるでしょうか。

2019年2月、ショッキングなニュースが流れました。東京オリンピックでの活躍も期待されていた競泳の池江璃花子選手が、急性の白血病に侵されたというのです。あれだけ華やいだ存在の人が自分の人生を封じられてしまうとは、なんという残酷なことでしょう。人生にはときとしてそんな恐ろしい罠が待ち構えているのです。

その彼女がリハビリを経て、ようやくまた泳ぎ始めたといいます。テレビの映像で見ましたが、実に感動的でした。彼女は自らの置かれた状況に耐え、まったく慨嘆することがないのです。本当に強い人だと感心するしかなかった。池江さんのこれからを考えると、やがて恋愛し結婚し子供を産んで、充実した次の人生を送ることになるでしょう。そのことで彼女の人生は見事な蘇生を見せてくれると信じます。彼女はそれができる人です。

私はまたこうも思うのです。池江さんの身に起きたことを考えれば、90歳近くにもなって「ろくに散歩もできなくなった」とこぼすのは違うのではないかと。私は恐ろしい人生の罠に落ちることもなく、老齢に至るまでともかくも充実した人生を歩んできたのです。それなら嘆くことなんて、何もないはずではないですか。

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石原 慎太郎(いしはら・しんたろう)
1932年、兵庫県神戸市生まれ。神奈川県立湘南高校、一橋大学卒業。大学在学中に執筆した『太陽の季節』で芥川賞受賞。68年、自民党から出馬し参議院議員に。元東京都知事。『法華経を生きる』『老いてこそ人生』、ミリオンセラーとなった『弟』など、著書多数。

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(石原 慎太郎 構成=河崎三行 撮影=奥谷 仁 写真=毎日新聞社、Getty Images)

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