佐藤優「今、苦しいのはあなたのせいじゃない」
プレジデントオンライン / 2020年8月2日 11時15分
作家・元外務省主任分析官。1985年同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ロシア日本大使館勤務などを経て、作家に。『国家の罠』でデビュー。『自壊する帝国』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
■人々が宗教に向かう理由はなにか
人気テレビ番組『テラスハウス』に出演していた女子プロレスラーの木村花さんが、2020年5月に亡くなりました。SNS上の誹謗中傷に追い詰められた末の自殺だと言われています。その前には、検察官の定年を引き上げる検察庁法改正案に対して、「抗議します」というツイッター世論が盛り上がり、法案成立は見送りになりました。
どちらの件も、新型コロナウイルスの感染拡大による外出自粛がなければ、あれだけの爆発に至らなかったと私は思っています。家から動けない生活が2カ月も続いて活動を制限されれば、ストレスが溜まります。人を無理やり押さえつけて魂を内側へ圧縮させていくと、何らかのはけ口を探し、反動として爆発するものだからです。
こうした爆発を抑え込む働きを持つのが、宗教です。信仰という別の方向へ、魂を発散させるのです。宗教は英語で「レリージョン(religion)」。「レリギオ(religio)」は「結び合わせる」という意味ですから、宗教は人と人との絆づくりでもあります。
「現実がハッピーだから、何の問題もありません」と言う人にとって、宗教は不要に思えます。しかし往々にして、深刻な問題を抱えているのに、見ようとしない人がいます。病気が見つかると怖いから健康診断に行かない、という心理です。
宗教は、そんな人にも逃げ道をつくってくれます。ところが我々は、逃げ道について日常的には考えません。誰一人の例外もなく死を免れられないのに、何となく死なないと思っているからです。だから普通の人が宗教に接点を持つのは、年を取ったときと病気になったとき。つまり、死が迫ってきたと実感するときです。
若い人が宗教に向かうのは、自分の力では何ともならない事態に直面した場合でしょう。たとえば恋愛であり、受験や就職です。そこで向かう先は、評判のいい占い師だったりパワースポット巡りであって、必ずしも宗教だと思わないかもしれません。
しかし宗教というのは、とても身近です。死を前にして自分の人生の意味を考えたり、生命や能力の限界を感じたところに存在するのです。新型コロナウイルスの影響で、リストラに遭ったり収入が下がるかもしれないと不安を抱くビジネスパーソンは、いまこそ宗教を知るべきです。
■いまだからこそ知りたい聖書の言葉
伝統宗教は長い年月、様々な危機を切り抜けてきました。そのため、知恵や生きるヒントに溢れています。聖書やブッダの言葉を学ぶ意味が、そこにあります。私は同志社大学神学部と大学院の神学研究科で学びました。そして、聖書を6年間持ち歩いていました。しかし、書かれた言葉の持つ意味が本当にわかるようになったのは、社会人になってからです。
中でも旧約聖書の「コヘレトの言葉」は、最も辛い時期を支えてくれ、座右の銘となりました。2002年5月14日に私は逮捕されて東京拘置所の独房に512日間勾留されました。逮捕の直前に大学時代の恩師が丁寧な直筆の手紙にして、送ってくれたのです。「コヘレト」とは伝道者のことで、この世の生活における知恵が書かれています。特に読んでほしいのは、3章の1節~11節です。
天の下の出来事には
すべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
<中略>
求める時、失う時
保つ時、放つ時
裂く時、縫う時
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時。
人が労苦してみたところで何になろう。
わたしは、神が人の子らに
お与えになった務めを見極めた。
神はすべてを時宜にかなうように造り、
また、永遠を思う心を人に与えられる。
それでもなお、神のなさる業を
始めから終りまで
見極めることは許されていない。
(コヘレトの言葉 3章1節~11節)
この言葉が教えるのは、すべての物事は空しいということ。さらに、どんなことにも「時」がある。その感覚を身につけることの重要さです。自粛しないといけないときや活動しないといけないときについて、タイミングを見極めることの大切さです。
そして、我々には理解できないような出来事にも、大きな摂理があるのだと説きます。なぜ、このような恐ろしいウイルスが流行るのか。なぜ志村けんさんや、あるいは身近な人たちが亡くならなければいけないのか。
我々にはわからないことがある。しかし、どんなどん底からも必ず抜け出せることを知りなさいという教えは、まさしく現在のような危機的な状況に読むべき言葉です。
同じ「コヘレトの言葉」の7章には、危機を過ごすための心構えが、わかりやすく凝縮されています。
〔賢者さえも、虐げられれば狂い賄賂をもらえば理性を失う。事の終りは始めにまさる。気位が高いよりも気が長いのがよい。気短に怒るな。怒りは愚者の胸に宿るもの〕
どんなに賢くて優秀な人でも、圧迫された状況になったり賭けマージャンが絡むと、理性を失ってしまう。これも時宜にかなった一節だと思います。
旧約聖書が厳しい戒めばかり説くのに対して、新約聖書には愛や和解についての教えがたくさん書かれています。
コロナ禍で不安な心理状態の改善に役立つ言葉が、イエスの弟子たちの生涯を描いた新約聖書「使徒言行録」の中にあります。私がキリスト教の神髄に触れ、聖書の言葉の力を知ったのは、この「使徒言行録」によってでした。20章にあるパウロの言葉を読んでみましょう。
〔わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように〕
まず第一に、他人を頼りにせず、自分できちんと生活していく。その先に余裕があるなら、弱い者を助けよと言います。貯えのない人や職を失った人が生活に困っていたら、見返りを求めずに助けなければいけない。コロナ禍を生き抜くために、死活的に重要な精神です。国民に一律10万円を配ったり、零細企業や個人事業主に給付金を支給するのは、聖書の考え方に沿っているのです。続いて、
〔また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました〕
日本のことわざで言う「情けは人のためならず」。他人に親切にすれば、いつか自分に返ってくるという教訓です。「受けるよりは与える方が幸いである」という言葉がイエスの発言だという証拠はないのですが、キリスト教徒の人生観が端的に表されています。
あなたが良い教育を受けたりビジネスで成功したのは、神さまから与えられたおかげであって、あなた自身の力ではない。勘違いせず、再分配しなさい。その実践によって他人から尊敬されるようになり、自分にも幸せが返ってくる、というわけです。
さらに言うなら、他人に何かを与えるには、与えるに値するものを持っていなければならない。そうしたものを身につけるため、神さまから与えられた能力を十分に発揮し、努力しなければならない、とパウロは説いています。
■現代のキリスト教は、大きく3つに分かれる
木村花さんや検察庁法改正案に向かって爆発した人々のストレスは、キリスト教的に言うと「罪」であり、仏教的に言えば「業」です。これを解消することも、宗教の大きなテーマです。
仏教の考え方は、基本的に「因果論」です。原因があって、結果がある。自分の行いが「業」となって積み重なり、幸や不幸として表れるのが「縁起」です。つまり、いまを変えれば未来の運命も変えることができると考えます。
これに対してキリスト教は、「決定論」です。天国へ行ける人、行けない人は神によって決められている。人間は運命を変えられないのだから、すべてを神に委ねるほかないという考え方です。「だったら、何もしなくても一緒じゃないか」と言う人がいますが、「何もしなくても一緒だと思うこと自体が、選ばれない側にいるということだ」という思考になるのです。
どちらが正しいという話ではありませんが、現在のように困難な状況では、キリスト教的な決定論を信じることで救いが得られるかもしれません。
現代のキリスト教は、大きく3つに分かれます。正教会(全世界の信者数は約2億人)、カトリック(約11億人)、プロテスタント(約5億人)です。
正教会の特徴は、神秘的であることです。人は聖霊の力によって神になれるし、悪魔の存在を重視します。ドストエフスキーの『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』に表れる世界観です。
カトリックは、天国に入る鍵を持つローマ教皇を頂点に、組織を重視します。教会に所属していれば、確実に救われるという考え方です。聖書を信仰するだけでは不十分で、正しい行為も求められます。
プロテスタントは、神の下ではみな平等だと捉え、聖書に対する信仰が重視されます。信仰があれば自ずと行為に表れるはずなので、信仰と行為を分けるカトリックの考えは間違いだとみなします。
プロテスタントには絶対に正しいとする立場がありませんから、実にたくさんの教派が存在します。人には決められた運命などなく、清い心で回心して信仰と祈りを重ねることが重要だと説きます。
私が現在所属しているのは会衆派の教会ですが、私自身には長老派(カルヴァン派)の、救われる者だけでなく滅びる者も神によってあらかじめ決められているという「二重予定説」のほうがしっくりきます。バプテスト派やルター派などは、メソジスト派と長老派の中間に位置すると考えていいでしょう。
■コロナ禍を生き抜くヒントを探し出す
既存の教会の多くは新型コロナウイルスに対応できず、機能不全を起こしています。スピリチュアルな意味合いで言えば、人間の関心が宗教的な意識に向いているのに、すくい上げられていないのが実態です。伝統と儀式を強調する東方正教会、カトリック、ルター派、長老派、メソジスト派、聖公会などは特にそうです。キリスト教系の新興宗教も受け皿になりえていません。
逆に、融通無碍に変わることができるプロテスタントやユダヤ教のリベラル派は、近代と相性のいい宗教だと言えます。アメリカの教会は元々インターネット化しているところが多いですし、私の通っている教会もズームやユーチューブを使って礼拝を行っています。ただし、近代と相性のいい宗教は社会との軋轢が少ないので、強烈なエネルギーを生むには至りません。
また、20世紀以降のアメリカの大統領で、カトリックはケネディ(35代・民主党)1人だけ。残りは全員プロテスタントですが、バプテスト派が多く、長老派は3人しかいません。国際連盟をつくったウッドロウ・ウィルソン(28代・民主党)と、軍人時代にノルマンディー上陸作戦を実行したアイゼンハワー(34代・共和党)。そして、第45代のトランプ大統領。いずれも神がかった人たちです。
長老派の特徴は、打たれ強いことです。どんな逆境に置かれても、自分は選ばれた存在だと信じ、神さまが試練をお与えになっているのだと捉えるからです。世俗での成功は選ばれたことの確認になるので、非常に大きな意味を持ちます。
その代わり、負けを認めず、反省しません。新型コロナウイルスや人種差別反対デモへのトランプ大統領の対応は、俺は間違えていない。だからやり方を変えないという態度です。強い信念はカルヴァン派の思考の特徴ですが、そのマイナスの面が出ていることを感じます。私がトランプ大統領を嫌いなのは、メンタリティが似ているために近親憎悪的な感情が湧くためかもしれません(笑)。
聖書や仏教の経典には様々な言葉が出てきますから、必要に応じて抽出して読み解き、現実に活かすことです。ビジネスパーソンや企業経営者が、コロナ禍を生き抜くヒントが必ず見つかるはずです。
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作家・元外務省主任分析官
1960年東京都生まれ。作家・元外務省主任分析官。英国の陸軍語学学校でロシア語を学び、在ロシア日本大使館に勤務。2005年から作家に。05年発表の『国家の罠』で毎日出版文化賞特別賞、翌06年には『自壊する帝国』で新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。『修羅場の極意』『ケンカの流儀』『嫉妬と自己愛』など著書多数。池上彰氏との共著に『教育激変』などがある。
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(作家・元外務省主任分析官 佐藤 優 構成=石井謙一郎 撮影=村上庄吾 写真=時事通信フォト、Getty Images)
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