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"世紀の落球"に苦しんだ星稜高校の1塁手は、15年後の再試合でフライを捕れるか

プレジデントオンライン / 2020年8月11日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/33ft

41年前の夏、星稜高校の1塁手だった加藤直樹さんは、甲子園でファールフライを落球した。その後、チームは延長18回で箕島高校にサヨナラ負け。加藤さんは「なぜあの場面で俺が」と苦しみ続けた。15年後、星稜と箕島のナインが集まり、“再試合”が行われた。最終回2死で1塁にフライが上がる。ピッチャーもキャッチャーもこう叫んだ。「加藤捕れ!」――。

※本稿は、澤宮優『世紀の落球「戦犯」と呼ばれた男たちのその後』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

■「今も立ち直っていませんよ」

1979(昭和54)年8月16日。
午後4時に始まった夏の高校野球全国大会三回戦、箕島高校(和歌山県代表)対星稜高校(石川県代表)の試合は、延長戦に突入していた。甲子園球場の照明塔には灯がともり、グラウンドの芝が鮮明に浮かび上がる。
延長12回裏に、あと一つアウトを取れば勝利という場面で箕島・嶋田に同点ホームランを打たれた星稜・堅田。再び味方が一点を勝ち越した延長16回裏、二死無走者で6番森川を迎えていた。
初球。堅田のストレートを強振した森川の打球は一塁後方に上がった。一塁手加藤が駆け足でボールを追う。ついにゲームセットか――。

「今も立ち直っていませんよ」

開口一番、加藤直樹さんは明るく語った。

現在、会社員として働くかたわら、石川県金沢市で中学生の硬式野球クラブのヘッドコーチを務めている。自身の「世紀の落球」について、自宅で取材に答えてくれた。

■「落球」をテーマにするとき真っ先に浮かんだ

箕島・森川の一塁ファールフライを加藤は落とした。正確には、落下点に到達する寸前に転倒して、ボールに触ることすらできなかった。命拾いをした森川は堅田の5球目をレフトラッキーゾーンに運ぶ。二度にわたり、「あと一人で敗戦」から蘇った箕島は、引き分け再試合直前の18回裏、疲労困憊の堅田を攻め、サヨナラ勝ちを収めた。その勢いのまま同大会を制し、春夏連覇という偉業を成し遂げる。監督は、「尾藤スマイル」で全国的に有名になった尾藤公だった。

澤宮優『世紀の落球「戦犯」と呼ばれた男たちのその後』(中公新書ラクレ)

オールドファンには、この箕島・星稜戦を高校野球史上最も印象的な試合として挙げる人も多い。延長18回の激闘の中に、ツーアウトからの劇的な同点ホームランが二度、そればかりでなく、決定的場面でのトンネルあり隠し球ありと、話のネタには事欠かない。

そして、この試合を語るときに必ず出てくるのが、冒頭の場面での、星稜一塁手・加藤直樹の落球である。あのファールフライを捕っていれば……とどれだけの人が口にしただろうか。

落球をテーマに書こうと思ったとき、私の頭に真っ先に浮かんだのが、あの星稜の一塁手はどうしているのだろうか、ということだった。

コロナ禍によって、今年は春夏ともに高校野球の全国大会は中止となった。その代わり、センバツ出場校による「交流試合」が8月10日から甲子園球場で行われる。注目は昨夏の決勝戦と同じ顔合わせの、履正社(大阪府代表)対星稜(石川県代表)だ。熱戦を期待するとともに、41年前の夏に起きた一つのプレーをめぐる物語を読者の皆さんにお届けしたい

■宿舎では誰も転倒に触れなかった

星稜ナインは宿舎に戻った。転倒について触れる選手は一人もいなかった。皆で監督の山下と一緒に風呂に入り、お互いに背中を流す。甲子園では校歌を歌えなかったので、風呂場で合唱した。風呂から上がって、皆で歓談したが、加藤はその輪に入れなかった。

「俺のせいで負けたんや」「申し訳ない」

そればかりが脳裏を駆け巡り、他の選手の傍に行くことができなかった。

「全部自分のせいだという負のオーラを出しておったんでしょうね。皆、声もかけんし、かけたらなお悪いと思っていたんじゃないですか」

■実家への苦情電話に謝罪する母の姿

9月になると2学期が始まる。昼間は学校にいるので知らなかったが、日曜日に2階から降りると、父親と母親が喧嘩していた。一体何ごとだろうと彼は訝(いぶか)ったが、どうも自分に関することが原因らしいとわかった。

現在の加藤直樹氏。
現在の加藤直樹氏。(画像=著者撮影)

「何でそんなもの、お前が謝らんといかんのや」

父親は母親を叱っている。電話がかかって来た。苦情電話らしい。母親が電話に出て「すみません」としきりに謝っている。また父親は言った。

「何も悪いことしていないのに、なんでお前が謝る必要があるんや」

後でわかったことだが、電話は「死ね」とか「お前んとこの息子がエラーしたから負けたんだ」という見知らぬ人からの文句だった。1日に何本電話があったのか、彼は知らない。周囲が教えないようにしていたのだろう。

野球部を引退した後の日々はそうやって過ぎた。

■関西では自殺説まで広まっていた

10月に星稜高校は国民体育大会の出場校に選ばれる。準々決勝で浪商(大阪府)と対戦することになった。浪商は牛島和彦、香川伸行のバッテリーで甲子園を沸かせ、ベスト4まで進んで人気チームである。加藤が一塁を守っていると、浪商ベンチから野次が飛んだ。

「加藤、またそこで転ぶなよ」

無視していると、浪商ナインは意外なことを言った。

「大阪ではお前は自殺したと有名な話になっておるで」

落球のショックで加藤が自殺したという噂が関西では広まっていたのである。都市伝説の類だが、そんな話は初耳だった。自分が死んだことになっているという噂はさすがにこたえた。加藤が落ち込んでいるという話は尾ひれがつき、距離が遠くなるほど増幅されていたのである。

卒業したらもう野球はしたくないと考えていたが、星稜の好打者加藤を地元企業は放っておかなかった。硬式野球部を持つ地元で最大の銀行である北陸銀行から声がかかったのである。野球部監督からの説得に負けて加藤は入行を決めた。しかし、腰は思う以上に悪化していた。腰椎分離症と判明し、半年で退部して銀行業務に専念することになった。

■落球が人生につきまとい続ける

もう高校野球とかかわりはなくなったはずだが、それでもあの落球は加藤につきまとった。

入行1年目の夏、まだ野球部にいた頃のことである。銀行の先輩と外の食堂に昼食を食べに行くと、ちょうどテレビで甲子園大会を放映しており、隣の席の客がテレビを見ながら大声で言った。

「そういえば去年の甲子園、星稜はあのファーストのボケがなあ、ミスしよって勝てる試合を失うたなあ」

入行して1年後、加藤は銀行を辞めた。野球をするために入行したから、退部した以上、そこで勤めることに意味を見出せなかったからだ。

社会人になってもマスコミは容赦なく落球についての取材で加藤を追いかけてきた。高校野球の特集号や本が作られると、決まって取材の依頼が来る。彼は吹っ切れたつもりでいたが、インタビューが記事になるたびに、苦い思い出がよみがえった。

■箕島の監督が叫んだ「加藤捕れ!」

箕島と星稜の“再試合”が行われたのは、平成6年11月26日、和歌山県紀三井寺球場だった。あの試合から15年後、選手たちは30代前半になっていた。当時のメンバーが集まり、もう一度戦う。実は星稜ナインは個人的な付き合いは別として、卒業後に皆で集まるのは初めてだった。このときから箕島の選手も含めての交流が始まった。

試合は軟式野球で7回制で行われた。7回裏の箕島の攻撃で、マウンドには急遽星稜の監督の山下が上がった。箕島の打席には代打尾藤が入った。二死一、三塁で、星稜が2対1で勝っていた。逆転サヨナラのチャンスで両監督の対決。もっとも盛り上がる場面である。

尾藤の打球は、一塁を守る加藤の真上に上がった。マウンドの山下は叫んだ。尾藤も同時に言った。

「加藤捕れ!」

加藤は両手で拝むように捕ると、ゲームセットになった。今度は星稜が勝った。

尾藤監督(写真右)と加藤さん
画像提供=加藤直樹氏
尾藤監督(写真右)と加藤さん - 画像提供=加藤直樹氏

試合後の懇親会で、尾藤は教え子たちや星稜ナインの前で言った。

「今日は加藤のために乾杯しようや。よく来てくれた」

尾藤に勧められて加藤が立ち上がる。一言話して乾杯の音頭を取った。

■再試合から10年後の再々試合では本塁打2本

今まで星稜ナインも加藤の心情を慮り、遠慮していた部分があったが、そのとき初めて心が一つになった。

このとき尾藤は加藤に色紙を書いてくれた。その色紙は額に入れられ、今もリビングの壁に飾られている。

加藤さん江
岩もあり木の根もあり
ファーストフライもあれど
さらさらと
たゞさらさらと
水は流れる
箕島高 尾藤公
6.11.26 箕島敗戦の日
尾藤が加藤に書いた色紙
画像提供=加藤直樹氏

再試合から10年後の平成16年11月13日、今度は箕島ナインを招いて、石川県立野球場で“再々試合”が行われた。

この試合は壮絶な打撃戦となり、18対11で星稜が勝った。加藤は2本の二塁打を打ち、健在ぶりを見せつけた。だがその雄姿を尾藤に見せることはできなかった。尾藤はがんを患い、闘病していたのである。星稜の選手に会うことを楽しみにしており、試合当日まで金沢まで行くと言っていたが、医者の許可が下りなかった。

■「一期一会一球」の重さを感じた

加藤は試合後、尾藤に会いたい一心で、小学生の息子峻平をつれて和歌山の尾藤のもとへ向かった。尾藤は病院から一時退院を許され、自宅にいた。

驚いたのは、尾藤の家には甲子園などでの活躍を示すトロフィーや盾の類が一切なかったことである。飾ってあるのは、高校野球関係のカレンダーだけだった。尾藤はユニフォームやストッキング、帽子などもファンにすぐあげてしまうのだと奥さんが説明してくれた。

尾藤は加藤に、試合に行けなかったことを詫びた。その顔にはいつもの微笑が浮かんでいた。加藤は一枚の色紙を差し出した。

そこには出場した選手全員がサインをしており、尾藤の書く欄だけが空いていた。彼はペンを執ると、ゆっくりと「一期一会一球」と書いた。

尾藤の字を見て“一球の重さ”を改めて感じた。加藤は言う。

「この一球を通しての出会いという意味ですね。大切にしたい言葉だと思いました。改めて、野球を通して人と人との繋がりを大事にしたいとも思いました」

あの一球で運命が変わったが、尾藤や箕島ナインとのかけがえのない出会いを得られた。加藤の人生も「一期一会一球」の体現だった。

加藤は学童野球で十数年監督を務めた。卒業する部員にいつも「一期一会一球」と色紙に書いて渡した。

■初めて自分のプレーを誇ることができた

再々試合から3年後、箕島高校の創立100年記念式典が開催され、式典後グラウンドで、星稜高校OBを招いて親善試合が行われた。そこには報道陣も集まっていた。

その席で、尾藤は皆を前に大きな声で言った。

「今日は星稜のチームが来てくれました。加藤君もいます。私はこの場で加藤君の名誉のために言っておきます。あのときのファーストフライはエラーじゃなく、転倒です」

病気とは思えない、どこまでも響く声だった。そうだ、自分は落球じゃなく、必死にボールを追いかけた末の転倒だったのだと加藤は自分のプレーを誇ることができた。

加藤が最後に尾藤を見たのは、平成22年9月23日の星稜対箕島の再々々試合だった。舞台はあの熱戦を行った甲子園球場で、球審も、プラカード嬢も放送員もあのときと同じメンバーだった。これが最後の記念試合となる。尾藤のがんの症状は悪化して骨盤などに転移し、分刻みで投薬を受けていた。だが当日は車いすに乗って、明るい表情で球場に姿を現した。

■「尾藤さんのノックを受けてみたかった」

このとき尾藤は報道陣に「甲子園で一番会いたい人は誰か」と聞かれ「加藤君です」と答えている。尾藤は1回の表裏の指揮を執って帰った。

観客席から拍手が起きると、尾藤は照れ臭そうにそっと帽子の鍔に手を添えて、軽く頭を下げた。

「勝敗を超えた仲間ができた。あの時代に生きることができて本当に幸せだった。そんな試合でした」

加藤はこの日、中学生になった峻平を尾藤に会わせている。彼は翌年から星稜高校で野球をすることになっていた。そんな話をすると、尾藤は微笑んで「こんなに大きくなったのか」としみじみと呟いた。尾藤は翌年3月6日、68歳で天国へ旅立った。

「尾藤さんのノックを受けてみたかったですね。2、3回も会えば、自分の監督のような気持ちになるんですよ。そんな人間の広さのある方でした」

平成25年の夏、峻平は星稜高校の一塁手として甲子園大会に出場、一回戦の鳴門高校戦ではセンター前ヒットも放った。試合には敗れたが、このとき加藤はアルプス席から息子を見守った。

■両監督の思いを伝えていくのが使命

硬式野球クラブ石川ボーイズ/ウイングスの監督を務めるかつてのチームメイト山下靖からの誘いで、今もヘッドコーチを務める加藤。山下にとっても加藤にとっても、自分たちに野球を教えてくれたのは山下と尾藤の両監督であると思っている。あの二人の野球に対する思いを伝えていけるのは、星稜と箕島の教え子である自分たちだという自負もある。だからそれを引き継ぎ、次世代の野球人を育てていくのが、自分たちの使命だと思っている。

■山下監督のノックを受けたい

加藤は、甲子園の写真、記念のボールの一つ一つを取り出して掌に乗せ、見つめながら、今でもたまに思うことがあるんです、と呟いた。

星稜・山下監督から贈られた色紙
星稜・山下監督から贈られた色紙(画像提供=加藤直樹氏)

「野球の神様が本当におるのなら、何であの大事な場面で転倒したのが俺なのだろうかと思うことがあります。でもね、神様が俺を選んだのだろうとも思うんです。あのおかげで今も野球に携わって指導することができています。悪いことばかりではなかったですからね。あの転倒がなければ野球は続けていなかった」

「なぜあの場面で俺が」とは、18歳から今まで彼が自分に問いかけ続けたことだった。それに対する自分なりの答えを加藤はようやく出しつつある。

そして死ぬまでもう一度、山下監督のノックを受けたいと切に願う。もう名将山下も70代半ばで、以前のような体力はないが、ノックを通していろんな会話ができそうな気がする。山下はあの転倒から今日までの加藤の人生にどんな言葉をかけてくれるだろうか。

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澤宮 優(さわみや・ゆう)
ノンフィクション作家
1964年熊本県生まれ。青山学院大学文学部、早稲田大学第二文学部卒。日本文藝家協会会員。『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手吉原正喜の生涯を描き、第14回ミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。主な作品に『イップス――魔病を乗り越えたアスリートたち』『スッポンの河さん――伝説のスカウト河西俊雄』『戦国廃城紀行』など。

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(ノンフィクション作家 澤宮 優)

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