元プロ投手の監督が「甲子園中止」でも野球部員に練習を続けさせたワケ
プレジデントオンライン / 2020年7月31日 9時15分
■「夏の甲子園」消滅で57歳の監督は部員にどんな声をかけたか
「夏の全国大会(甲子園)はない」
5月20日、日本高校野球連盟は「夏の甲子園」を開かないことを決めた。茨城県の東洋大学付属牛久高校の硬式野球部監督・矢野和哉さん(58歳)は半ば覚悟していたこととはいえ、強い衝撃を受け、部員にどう声をかければいいかすぐに言葉が浮かばなかった。
「ウチは(同じ茨城でも)常総学院や土浦日大など甲子園の常連校とは違うし、積極的な選手勧誘もしていません。ほんまに(甲子園に)出られるようなレベルにも達していないけれど、それでも……悲しかったですね」
だが、一方で心の中ではこのように思ったそうだ。
「こんな大変な年に高校野球の監督ができているなんて、運命かもしれない」
高野連の公式アナウンスがあった日の野球部のリモートミーティング。制服をちゃんと着た丸刈りの部員たちは、監督からの「正式発表」をモニターの向こう側で何も言わずに聞いていた。約15分間、微動だにせず。
「子供たちも覚悟していたのか、泣く子はいませんでした。必死に平常心を保とうとしているように見えました」
矢野さんはミーティングの最後にこう言った。
「引き続き、みんなでシビれることをしていこう」
シビれること。これは、矢野さんが部員にいつも伝えている言葉だった。2年前の監督就任以降、練習後のミーティングのたびに「甲子園」の意味を問いかけてきた。
「あの球場でプレーすることだけが尊いのか。それだけを目標としていいのか」
志を共にする仲間とともに「それぞれが『いい野球』を追求」し、「何かを得よう」とすること、それ自体が尊いのではないか。そうした積み重ねこそが、矢野さん流の表現でいう「シビれる」なのだ。
■「仲間とシビれることをする」それも甲子園だ
だから、コロナ禍に見舞われた春先から考えていた。もし、今夏の県大会がなくなっても例年の高3の引退時期である7月まではできる限りの練習をさせよう、公式戦はできなくても野球部内でチームを作り、リーグ戦をやらせよう、と。
加えて、高2が主体の新チームになっても希望する高3には練習参加させようとも考えた。例えば、バッティングピッチャーをやって後輩が成長すれば、自分の存在意義にもつながる。それも立派な「シビれる」ということだ。そうした縁の下の力持ち的な経験も長い人生の中ではきっと生きてくる。そう矢野さんは信じていた。
野球というスポーツをする以上、目標は公式戦で「勝つ」ことだが、それ以上に、日々の練習を通じてチーム全体で勝利を手にしようとするプロセスからはもっと大事なものをつかむことができる。それがもうひとつの「甲子園」なのではないか。
■ヤクルトの元プロ投手である監督が43歳で迎えた人生の転換期
高校野球の監督としては少数派の「非勝利至上主義」の矢野さんだが、昔からこうした考えの持ち主ではなかった。現役時代は常にガチンコ勝負の世界の中で生き、価値があるのは「勝利」であるという思いが強かった。勝利は選手の評価になって、稼ぎにも直結する。現在とは、違った価値観の人生だったわけだ。
矢野監督は、ちょっと変わったプロフィールの持ち主だ。
1962年大阪生まれ。甲子園で優勝したこともある兵庫県の名門・報徳学園ではエース投手だった。惜しくも甲子園出場はかなわなかったが、社会人野球チームの神戸製鋼を経て、1986年にドラフト4位でプロ野球のヤクルトに入団した。
実働5年間でプロ通算成績は14勝27敗。ひじの故障に悩まされ、長期のリハビリを繰り返した。ヤクルトでの最後の年には、「選手として、人としての生き方・哲学を叩き込まれた」という故・野村克也監督から指導を受けた。その際のミーティングのノートは今も宝物だ。1993年には、台湾のプロ野球でプレーし、選手として引退した後は、ヤクルトに戻って1994年からスカウトを11年間務めた。気づけば、43歳になっていた。
![東洋大牛久高校野球部の練習場](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/9/3/670/img_93fba06a3754266e8533ed5e70cca95a590665.jpg)
■年俸は最高1700万円だったが、退団後はそれがゼロに……
2005年、ヤクルトに入って以降の約20年間「プロ野球」で飯を食ってきた矢野さんに人生の大転機がやってくる。
同じヤクルト球団内とはいえ販売促進部という野球とは直接関係のない部に配属され、主に球団のCSR活動の仕事を担当した。本拠地のある東京・神宮球場周辺の地域社会・住民に貢献するという業務。地元の大人や子供と選手が交流する時間を設けるなどして、集客につなげられたらという狙いもあった。
その後、ヤクルトからも退団し、NPO「FIELD OF DREAMS」の理事長として青山での地域事業を継続。遊びやスポーツなどの体験活動を通じて、子供たちに生きる力を伝える新規事業を始めた。そこでは個人活動として野球塾も開いた。
![42歳で人生の転機を迎えた矢野監督](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/0/e/670/img_0e40668fd6208d795349c0b8c438402a364548.jpg)
長年「野球の表舞台」を歩んできた矢野さんにとって43歳からの慣れない裏方仕事は多くの苦労を伴ったが、大きな収穫もあったという。「人を育てること」の醍醐味に目覚めたのだ。
「選手時代の年俸は最高で約1700万円でした。ヤクルトを退団した後は、収入はゼロに等しい時期もありました。それでも、この頃のNPO活動や野球塾などで出会った子供たちを指導し、彼らが成長していく過程を見守ることにやりがいを感じましたし、その経験が今の自分の土台になっています」
■野球を通して生徒たちの「生きる力」を育みたい
スポーツやイベントを通して、子供たちの感性を磨き、「向上心」「自覚」「思いやり」から形成されるスポーツマンシップの大切さを伝え、強い身体・精神、挫折感を持って社会で生き抜いていける力を養う。いわば「ライフスキル」という力を子供たちに授けたい。これが矢野さんの「セカンドキャリア」のメインテーマとなったのだ。
「野球版の『ノブリス・オブリージュ』とでも言えばいいんでしょうか。野球の頂点に立ったプロ野球関係者は、その経験などを社会に還元する義務があるんです」
![練習メニューを組み立てる矢野監督](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/0/8/670/img_0806f4af6bd1041f59d97390bd9f061b301517.jpg)
そうした使命感は、NPO理事長の傍ら2016年に東洋大牛久高校野球部のコーチになり、2018年1月に監督に就任してからも全く変わることはない。
「甲子園常連校は、野球選手として早熟で完成された生徒たちで構成されたチームが多いです。でも、個々の人間としては未熟なところもあります。過去には甲子園優勝チームのキャプテンが強盗をしたということもあった。私たち指導者が大事にしなければならないのは、野球を通して生徒たちの『生きる力』を育むことなんです」
■高校野球を終えた後の長い人生を歩む部員たちに送る「ナッジ」
6月、矢野さんを取材していた中で、部員への対処に関して「ナッジが大事だ」ということを何度か口にした。耳慣れない言葉に、「ナッジってなんですか?」と聞くと、こう答えた。
「周りが強制しなくても正しいことができるようにするための方法で、オランダのトイレのマークを使った生活様式が有名ですね」
オランダのスキポール空港では、男性用の便器の中央に小バエの絵を描くことで清掃費の大幅削減に成功した。利用者の男性が自然とハエを狙って用を足すようになり、汚れづらくなったからだ。つまり、「○○をするな」と制限するのではなく、選択の自由を残しつつ、望ましい方向に後押しする考え方。それが「ナッジ」だと、矢野さんは教えてくれた。
だから、練習している時も「ナッジ」だ。
「選手たちに外野フェンス沿いのランニングを真面目にさせる狙いで、私たち指導者は遠くで見守るのではなく、フェンスのポール横に立つんです。そうすると選手はポールからポールの間を丁寧に最後まで走るようになります」
朝もナッジだ。
「私が校門に立っていて、こちらから『おはよう』って声をかけていくと、だんだん生徒のほうから先に挨拶するようになるんです。返報性の法則ともいうんですかね」
矢野さんは元プロ野球選手で技術を教えるエキスパートだが、そうした枠には収まらない「ライフスキル」=生きる力も部員たちに教えてきたのだ。だから、コロナ禍で「夏の甲子園」という目標を失ったことも、視点を変えて、部員たちの心の教育につなげようとした。
「どんな時も東洋牛久野球部の目的は野球を通して、自発性と仲間との連帯感を養うことです。どうやったらうまくなれるか、子供たちが考えて、自発的に探究していく環境をつくる。自分の好奇心で獲得した知識は大人になっても忘れないはずです」
そしてもうひとつ矢野さんが常に考えているのが地域の活性化だ。
「高校生が近隣の小学生に野球を教えるシーンを夢見てます。TU(東洋大牛久)のマークがついた帽子を小学生がかぶっている姿です」
牛久を青山のように……。子供からお年寄りまでつながる街になっていってくれれば、と願っているという。
7月半ばに開かれた茨城県高野連主催の独自大会1回戦、東洋大牛久は1-5の劣勢から終盤に一気に5点を取って逆転勝ちした。2回戦は強豪の土浦日大に2-12で5回コールド負けだった。
それでも、泣いた選手はいなかったという。
「まだまだ実力はないという自己認識ができていて、でも、やり切った充実感があったんでしょうね。監督として1年生から教えて来た子。ライフスキルが浸透してきたのかな」
グラウンドのレフト後方にマテバシイの高木がある。矢野さんは野球部のシンボルの木だと思っている。それになぞらえて3年生に言葉を贈ったそうだ。
「小さなどんぐりもいつか大きな木になる。君たちもあの常緑広葉樹のようにどっしり悠々と大きくなるんやぞ」
妻は埼玉に残し、還暦目前の単身赴任生活は3年目になった。元プロ野球投手の監督、矢野さんは「シビれる野球」を探し続ける。そしてこの〝常陸の国〟から教え子を社会へ送り出す。
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フリーライター
ベースボールマガジン社を経て独立。総合週刊誌、野球専門誌などでスポーツ取材に携わる。
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(フリーライター 清水 岳志)
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