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「戦艦大和の建造は、時代遅れの間違いだった」という人が間違えていること

プレジデントオンライン / 2020年8月11日 11時15分

大和の建造は「時代遅れ」の判断だったのか――大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)にある、全長26.3メートルに及ぶ戦艦「大和」の模型(10分の1スケール)。(撮影=2013年1月3日) - 写真=PIXTA/komten

旧帝国海軍の超弩級戦艦「大和」の建造は、時代遅れの間違いとしてよく例に挙げられる。だが大和ミュージアム館長の戸高一成氏は「米国も英国も同じ時期に戦艦を建造していた。日本の問題は時代に合わせた使いこなしの不在にある」と指摘する。戦後75年の今夏、現代史家の大木毅氏との対談をお届けする――。

※本稿は、戸高一成・大木毅『帝国軍人 公文書、私文書、オーラルヒストリーからみる』(角川新書)の一部を再編集したものです。

■広く人材を集めて育てる「予科練」制度の光と影

【戸髙】第一線で戦った者の大多数は下士官兵です。特にもっとも危ないと思われたのが、飛行機乗りです。

昭和初期、飛行機がだんだん重要性を増すと、問題が起きました。パイロットの絶対数が足りなくなったのです。ヨーロッパでは習慣的にパイロットは士官です。なぜかというと、飛行機は一度空に上がると、パイロットが一国一城の主で、一人ひとりが戦闘の判断をしなければいけません。原則的に士官でないと、戦闘判断は行わないからです。

【大木】しかも、貴族出身者が多いですね。

【戸髙】そうです。日本では階級による制限はありませんでした。日本の場合は、適性のある若者を鍛えたらよかろう、将来は士官的な扱いをしようと、昭和四(一九二九)年から予科練という制度を始めます。

最初は高等小学校卒程度、現代の中学生ぐらいの練習生を募ります。ところが、まだ足りない。そこで「マル3計画」(正式名称は第三次海軍軍備補充計画。大日本帝国海軍の海軍軍備計画のこと)によって増員をします。それでも、まだ足りない。今度は、一般教養を教える時間を省いて、すぐにパイロット教育をしたいという理由から、昭和一二(一九三七)年に募る練習生の年齢を引き上げます。現代でいうと高卒ぐらい、少し年上の練習生です。

その練習生に付けられた名前が、後々まで問題を引きずります。海軍は本当にネーミングのセンスがありません。中学校卒の練習生には「甲」、高等小学校卒には「乙」、水兵出身者には「丙」、つまり甲乙丙という、まるで成績順のような名前を付けたのです。例えば、乙飛(乙種飛行予科練習生)は、自分たちのほうが兵士としてははるかに先輩なのに、甲飛(甲種飛行予科練習生)の名が上に書かれます。それが不愉快で、年中摩擦が起きました。

■「士官になれる」と思って入ったのに……

【大木】それは大きな問題でした。われわれ戦後生まれの者まで、甲乙丙のことで悩まされました。雑誌『歴史と人物』(中央公論社)で予科練特集をしたときに、昭和末ぐらいでもなお、予科練出身者の甲乙丙に対するわだかまりに注意しないといけなかったのです。横山編集長もずいぶんと気を遣い、予科練出身者の座談会をしたときには、人数的に甲乙丙がぴったり一緒になるようにしたものです。特乙、一名。乙、一名、丙飛、一名……などと数を揃え、学校での期もばらけるようにしました。

【戸髙】そんなところで気を遣わなければいけないのも、おかしな話です。海軍がもっときれいに一本化した制度をつくっていたら、全員がもっと力を発揮できたことでしょう。軍というものは、戦闘能力や人数だけで力を発揮するのではないということを、海軍は特に見落としていたと思います。もっと気持ち良く教育を受けられる環境を与えなければいけませんでした。

【大木】甲飛は海軍兵学校に相当する、と思われていましたね。

【戸髙】甲飛の生徒は、自分は将校生徒だと思っていました。

【大木】ところが、いざ学校に行ってみると、士官になれるわけではないため、「騙された」と感じた、という話をよく聞きました。原稿をもらった方や話を聞いた方から、「これが本当の海軍ダマシ(「海軍魂」と掛けた言葉)だ」と言われたものです。

【戸髙】戦争末期になると、飛行機にも乗れず、防空壕ばかり掘っていたので「ドカレン(「土方」と掛けた言葉)」とも言われました。制度の中に、日本が崩壊していく様子が現れていた。

■「戦艦1隻で飛行機が3000機つくれる」論

【大木】余談になりますが、私の大学に「ドカレン」出身の先生がおられて、必ず一五分講義に遅れてくる人でした。ところが何となく、他の先生も事務の人も彼を許しているところがありました。それは「あの人は予科練で分刻み、秒刻みの生活をしていたことへの反発でこうなったのだ」と言われていたからです。

【戸髙】それはどうでしょうか(笑)。確かに厳しい管理はされていたでしょうが。私など、周りがみな元海軍の人だったので、時間にはうるさく躾けられました。

【大木】このような話もよく聞きました。予科練も最初のころ、空への憧れがみなさん大きかったようです。昭和四(一九二九)年に土浦へ来たドイツの飛行船「ツェッペリン」を見て、空に憧れたということを、多くの方がいいます。

【戸髙】そのころに中島飛行機が仕事を始め、航空が全国的に注目を集めたのです。本題から少し外れますが、中島知久平(*1)が戦艦1隻で、飛行機が3000機つくれる、というアピールをしました。盛んに飛行機のほうが安いと営業しましたが、あれは大変な間違いです。飛行機自体は安いけれども、飛行機を飛ばすには飛行場をつくらなければいけません。パイロットの養成に莫大なお金がかかります。戦艦どころではありません。その意味では、よりお金のかかるほうにだんだんシフトしていった。これが日本の財政、国防を危うくした面が無きにしもあらず、です。世界の流れがあるから仕方がありませんが。

■「ハードウェア志向」に過ぎた日本の陸海軍

【大木】これも余談になりますが、戦艦「大和」「武蔵」をつくったのは間違いだったとよく言われます。しかし、どうでしょうか。「大和」の起工が昭和一二(一九三七)年です。あのころはまだ、飛行機と戦艦のいずれが主兵であるかはっきりしていません。「他国もつくっている」ことも建造理由になりました。

つくることは問題なかったものの、スペイン内戦や日中戦争を経て、やがて飛行機のほうが重要であることがあきらかになってきました。そうしてみると、つくったこと自体はあながち間違いではないにしても、航空機の時代に適応させて使いこなせなかったことに間違いがあったと思うのです。

【戸髙】まことにその通りです。日本は「武蔵」でやめましたが、アメリカは戦争中に八隻も戦艦をつくっています。イギリスに至っては、第二次大戦終結後にも戦艦をつくっています。戦艦が時代遅れだったということではない。その点、日本は真っ先に航空のほうにシフトした国です。

ただ、大木さんが言ったように、世界有数の能力を持った船を使いこなす能力が日本にはなかった。物には、物そのものの能力と、それを使う能力の両方が必要です。私はよく、最高性能の自動車をペーパードライバーが運転しても、その車の能力は発揮できない、と言っています。高度な機械ほど、高度なオペレーション能力が必要です。その点で、日本の海軍と陸軍は、ハードウェア志向に過ぎたところがあります。

■ベテランを前線で消耗し「教官役がいない」

【大木】パイロットも、予科練的な養成法では不十分なところがありましたね。

【戸髙】予科練教育がなぜ後手に回ったかといえば、日本の海軍は、基本的に戦争開始時の兵力のまま終戦までがんばる、という短期決戦計画だったからです。だから戦争が始まると、教育はしない。日露戦争のときも、戦争が始まった途端に海軍大学校を閉め、秋山真之(*2)さんなどの教官連中を全員艦隊に突っ込み、終戦まで最初の兵力で戦いました。

当時はそれで良かったわけですが、第一次大戦後は、まさに国家総力戦となりました。ところが生産しつつ戦う、教育しつつ戦うスタイルが、日本ではなかなか馴染まなかった。

大井篤(*3)さんが人事で文句を言っていたのは、「真珠湾攻撃から帰ったパイロットのベテランは、教官・教員に回してくれないと、次の生徒を教育できない」ということでした。ところが、機動部隊は教育どころではないと言い、どんどんベテランは消耗し、教育する人間を残しませんでした。

■戦後に民間航空で教官になった人も

【大木】ミッドウェイ海戦への批判としてよく言われるのは、MI作戦(ミッドウェイ島の攻略、アメリカ空母部隊撃滅を目的とした作戦)の前に人事異動を行い、かなりのベテランパイロットを教官に回したことです。「前線航空隊の術力を低下させるとはなんたることか」と。しかし、あれをしないと後続のパイロットが教育できませんでした。

戸高一成、大木毅『帝国軍人 公文書、私文書、オーラルヒストリーからみる』(KADOKAWA)
戸高一成、大木毅『帝国軍人 公文書、私文書、オーラルヒストリーからみる』(KADOKAWA)

【戸髙】そうなんです。教官・教員にするベテランパイロットの絶対数を必ず差し引かないといけなかったのに、もう万事やむを得ないと使いきってしまった。そして教育が疎かになった。予科練で人は取るけれど教育ができない、という悪循環に陥っていたのです。

【大木】私が直接あった予科練出身者で印象が強い人に、大多和達也(*4)さんがいます。戦後は航空会社に勤務していました。覚えているのは、「羽田に来てくれ」というので伺うと、ちょうどフライトシミュレーターで教官をしていたことです。「今、学生さんをフライトシミュレーターに乗せて千歳に降ろすところだ」と言っていたのが印象的でした。

【戸髙】教育では、日航にいた藤田怡与蔵(*5)さんを思い出します。藤田さんは士官搭乗員で、彼のように最後まで現場で飛ばされた人は珍しい。真珠湾にも行き、戦争が終わる頃も第一線で使われていました。もしかすると上官受けが悪かったのかもしれません。

(*1)中島知久平 1884~1949年。海軍軍人・実業家。海軍機関大尉。海軍機関学校15期。横須賀工厰造兵部委員など。1917年に予備役に編入されたのち、中島飛行機株式会社を創立。1930年の初当選以降、1945年まで衆議院議員。鉄道大臣、軍需大臣、商工大臣等を歴任。戦後、A級戦犯容疑者となるも、1947年に戦犯指定から解除される。
(*2)秋山真之 1868~1918年。海軍中将。海兵17期。海軍大学校教官、連合艦隊参謀、軍令部参謀、海軍省軍務局長などを務める。日露戦争の海軍作戦を立案した人物として知られる。著書に『海軍基本戦術』、『海軍応用戦術/海軍戦務』(いずれも中公文庫、2019年)がある。
(*3)大井 篤 1902年~1994年。海軍大佐。海兵五一期。軍令部第一部勤務。海上護衛参謀など。戦後、GHQ歴史課勤務。『海上護衛戦』(角川文庫、2014年)など著書多数。
(*4)大多和達也 1919年生まれ、没年未確認。海軍中尉。1934年、第五期予科練習生として、海軍横須賀航空隊に入隊。空母「蒼龍」、「隼鷹」乗組、海軍横須賀航空隊勤務など。戦後、海上自衛隊に入隊。退官後、全日空に入社。著書に『予科練一代』(光人社、1978年)。
(*5)藤田怡与蔵 1917~2006年。海軍少佐。海兵六六期。空母「蒼龍」、「飛鷹」乗組、第三〇一航空隊飛行隊長、戦闘第四〇二飛行隊長など。戦後、日本航空に入り、機長を務める。

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戸高 一成(とだか・かずしげ)
呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)館長
日本海軍史研究家。1948年、宮崎県出身。多摩美術大学美術学部卒業。財団法人史料調査会の司書として、海軍反省会にも関わり、特に海軍の将校・下士官兵の証言を数多く聞いてきた。92年同財団法人理事に就任。99年「昭和館」図書情報部長就任。2005年、呉市海事歴史科学館(大和ミュ-ジアム)館長就任。2019年 『【証言録】海軍反省会』(PHP研究所)全11巻の業績から第67回菊池寛賞を受賞。著書に『戦艦大和復元プロジェクト』『海戦からみた日露戦争』『海戦からみた太平洋戦争』など。

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大木 毅(おおき・たけし)
現代史家
1961年、東京生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学。DAAD(ドイツ学術交流会)奨学生としてボン大学に留学。千葉大学その他の非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、国立昭和館運営専門委員等を経て、著述業。『独ソ戦』(岩波新書)で新書大賞2020大賞を受賞。主な著書に『「砂漠の狐」ロンメル』(角川新書)、『ドイツ軍事史』(作品社)、訳書に『「砂漠の狐」回想録』『マンシュタイン元帥自伝』(以上、作品社)など多数。

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(呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)館長 戸高 一成、現代史家 大木 毅)

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