662人を日本に帰すため、ソ連兵の性的暴行に耐えた未婚女性15人の苦しみ

プレジデントオンライン / 2020年8月9日 11時15分

満州開拓、休憩中、談笑する開拓団家族=1942年1月1日 - 写真=毎日新聞社/アフロ

これからも語り継ぐべき戦争の記憶がある。作家の五木寛之氏は「戦争はどう始まり、展開したかという『大局』ばかりが話題になる。しかし、一人の兵士や、戦地で生きた個人の体験こそ戦争の真実であり、彼、彼女らの記憶こそ後世に『相続』されるべきだ」という——。

※本稿は、五木寛之『こころの相続』(SB新書)の一部を再編集したものです。

■敗戦の混乱時、日本人女性が味わった性暴力の悲劇

現実社会に「表」と「裏」があるように、過去の時代にも「表」と「裏」があります。私たちが生きた同時代についての記述すらそうだから、100年前、500年前ともなればなおさらでしょう。その当時に生きた人が、歴史の教科書を読めば、仰天するかもしれない。「これは一体どこの国の話だ」と。

「一級史料があるから確実だ」などと言っても、その史料が時代の全体を語るわけではありません。最近になって、少しずつ敗戦時の旧満州や北朝鮮での「性接待」の話が語られるようになってきました。

平成25年4月、昼神温泉などで知られる長野県阿智村に全国で初めての「満蒙開拓平和記念館」ができました。戦前からの国策として満州や内蒙古に送り込まれた満蒙開拓団の史実を、風化させることなく後世に伝える拠点として、作られたものです。

開館以来、かつての開拓団の実像を伝える数々の資料を展示するほか、「語り部講話」として、当時の生き証人の体験談を聞く会が催されています。

とくにその中で、開館直後、2013年7月と11月にお話をされた岐阜県旧黒川村満蒙開拓団の2人の女性の悲痛な体験談が、大きな波紋を呼びました。

■ソ連軍の要求は「若い女性」の接待役だった

この話をきっかけに、いくつかの雑誌や新聞も特集を組み、2017年には「告白~満蒙開拓団の女たち」(NHK・ETV)や、「記憶の澱」(山口放送)などのドキュメンタリー番組も放映されました。体験談と報道の数々から浮かび上がってくるのは、次のような事実です。

旧満州では、敗戦後、自分たちを守ってくれるはずの関東軍は撤退してしまい、多くの開拓団が孤立してしまいました。日ソ中立条約を破って侵攻してきたソ連軍のほか、いままで支配されていた現地人も一気に暴徒化し、敗戦国の弱体化した開拓団に襲いかかります。

そこには略奪・暴行・虐殺・強姦など、あらゆる無法がまかりとおりました。彼女たちの隣の村の開拓団は、この無法に耐えかね、集団自決で全滅しました。黒川開拓団の中でも集団自決の声が高まりましたが、リーダーの一人が、「人の命はそんなに簡単なものじゃない」と主張して、思いとどまります。

そしてリーダーたちは、たまたま団の中にいたロシア語のできる人間を通じて、近くに進駐してきていたソ連軍に、保護を求める交渉をしました。するとソ連軍は、兵の暴行や現地人の襲撃から団を守り食糧や塩を提供する代わりに、若い女性を将校の「接待」役として差し出せという条件を付けてきたのです。

■「このままでは集団自決しかない」

つまり挺身隊のような形で、決まった女性たちを交代で慰安婦として差し出せということです。それはソ連軍側から一方的に強制されての行為ではなかった。開拓団としての取引きでした。

夫や子どものいる女性には頼めないということで、結局、数えで18歳から21歳までの未婚の女性が15人選ばれました。「このままでは集団自決しかない。何とか全員が助かって帰国するために、団に身を預けてくれないか」と、必死の説得が行われます。「あなたたちには団を救う力がある。将来には責任をもつ」とも言われたといいます。

女性たちが「絶対いやです」と拒否するのは当然です。そんなことをするくらいなら、死んだほうがましと、拳銃をもって飛び出した女性もいたそうです。

結局、何百人もの命を守るためには断りきれず、当時21歳だったリーダー格の女性は、「日本に帰ってお嫁に行けなかったら、お人形の店でもやって一緒に暮らそう」そう言って、全員をなだめたと言います。

■べニア板張りの「接待場」で泣き叫ぶ女性たち

連れて行かれたべニア板張りの「接待場」では、女性たちは布団の上に並んで横たえりました。彼女たちの言葉を借りれば、「辱めを受ける」あいだお互いに手をしっかりと握りあい、泣きながら暴行に耐えたそうです。覚悟していたとはいえ、「助けて、お母さーん、お母さーん」と泣き叫ぶ女性もいました。

暴行の事後処理として、彼女たちは医務室に行き、性病や妊娠を防ぐために薬品を管で体内に注いで洗浄を受けます。彼女たちより年下の女性が、泣きながらその冷たい薬液を注ぐ仕事を手伝ったという証言も残っています。

こうして、何カ月もの過酷な試練に耐えた結果、黒川開拓団は暴徒の襲撃から守られたのです。ただ15人の中の4人は、性病や発疹チフスにかかり、帰国できないまま命を落としました。集団自決をする開拓団が相次ぐ中で、総員662人の開拓団のうち451人が生きて帰れたのは、まさに彼女たちの犠牲のおかげだったと言っていいでしょう。

90歳近い高齢になりながら、70年間も封印してきた辛い記憶を、よくぞ語り継ぐ気持ちになってくれたと思います。

■帰国後に向けられた中傷、差別的な言葉

それにしても、彼女たちは、その辛い記憶をなぜ封印してきたのでしょうか。

それは思い出したくもない辛い記憶だったからでしょう。しかし、思い出したくもないその「辛さ」が、じつはあの忌まわしい凌辱の「辛さ」だけではなかったからなのです。

本来なら土下座してでも感謝しなくてはならないはずの彼女たちの行為に対して、心ない中傷や差別的な言葉が仲間内でそこここでささやかれ、それが彼女たちにも感じられたからでした。そうした言葉は、じつは辛い「接待」が行われている当時から、すでに囁かれていたといいます。

国に帰ってからも、ほかの女性の身代わりで「接待」の回数が多くなった女性が、仲間の男たちから「○○さんは好きだなー」とからかわれたり、「(体を提供しても)減るもんじゃなし」などと言われたりしたといいます。これらの言葉は、凌辱の体験以上にどれほど彼女たちの心と体を傷つけたでしょう。

そして、「露助(ソ連兵)のおもちゃになった人」「汚れた女」といった秘かなレッテル貼りが、人びとの間に根強く残っていたのです。この「接待」の事実は、女性たちの将来のためにも良くない、団の恥でもあるとして、開拓団もひた隠しにしてきました。

昭和58年には、「接待」のことが実名を伏せて雑誌「宝石」に書かれましたが、地元の書店では人目に触れないよう、開拓団関係者によって買い占められたといいます。

■ようやく語られ始めた忌まわしい戦争の記憶

このように、彼女たちが「辛い記憶」を封印してきたのは、あの忌まわしい体験を忘れたかっただけでなく、それ以上に、いわれなき中傷や差別という「辛い体験」を思い出したくなかったからでしょう。

そこに開拓団としての意向も働き、事実は封印されてきたのでした。しかし、そこで声を上げた女性がいます。女性たちも高齢になって次々と世を去り、このままでは自分たちの身を挺した体験が埋もれてしまうと、考えたのでしょうか。

リーダー的な存在だった女性が、「このままあの事実をなかったことにはできない」と立ち上がり、昭和56年に、現地で亡くなった4人の女性を慰霊する「乙女の碑」が建てられました。

碑は高さ1.3メートルの観音石像で、左手に願いをかなえる宝珠、右手に音を出して道の害を払う錫杖をもち、優しい眼差しで前方を見ています。そして2018年11月、4000字を超える詳細な碑文がパネルに記され、「乙女の碑」の脇に建てられました。

■無名の「乙女の碑」、記憶を未来に語り継げるのか

「乙女の碑」を建てたリーダー格の女性は、碑文の完成を見ないまま、91歳で亡くなりました。しかし、彼女の願いの一部はやっとかなえられたと言ってもいいでしょう。

五木寛之『こころの相続』(SB新書)
五木寛之『こころの相続』(SB新書)

彼女たちの語り継ぎの決意は、ようやく実りはじめているようですが、遺族たちにとっては依然として、釈然としない思いが残ります。経緯を示す碑文は立派なものができましたが、そこには15人の乙女の名は1人も記されていません。「ひめゆりの塔」や「原爆の碑」には犠牲者の名が記されて、一人ひとりその尊い犠牲に敬意が払われています。

遺族の中には、開拓団の命を救うために尊い犠牲を払った彼女たちの名は、もっと誇りをもって語られていい、という人もいるようです。しかし、「誇り」というにはあまりに悲惨な体験です。私の願う語り継ぎによる「こころの相続」は、どのように語り伝えられるのでしょうか。

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五木 寛之(いつき・ひろゆき)
作家
1932年、福岡県生まれ。戦後、朝鮮半島から引き揚げる。早稲田大学文学部ロシア文学科中退。67年『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞を受賞。81年から龍谷大学で仏教史を学ぶ。主な著書に『青春の門』『百寺巡礼』『孤独のすすめ』など。

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(作家 五木 寛之)

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