五木寛之「日本人なら財産の相続より"こころの相続"を忘れてはいけない」
プレジデントオンライン / 2020年8月13日 11時15分
※本稿は、五木寛之『こころの相続』(SB新書)の一部を再編集したものです。
■「親の背中を見て育つ」目に見えない相続のかたち
旅行先などで、同行した人の歯の磨き方や顔の洗い方など、習慣的にやっていることが、まったくちがっていて、びっくりすることがあります。
たとえば、朝起きたらすぐに歯を磨く人がいます。睡眠中にたまったプラークをとらずに食事などできない、というのです。その一方で、歯磨きは、食べかすをとるためにやるのだから食後に磨く、という人もいます。あれこれと理由をつけるのは、「後出しじゃんけん」のようなものです。習慣になっているのは、おそらく、親の背中を見て育っているからでしょう。
日常的な些細なことではなくても、「親の背中を見て育つ」と言われるように、親が一生懸命にやっている、その背中を見て、その一生懸命さを相続することは多々あるのではないか。
たとえば、ご飯を食べるときに、ご飯は左側、汁物は右側におき、必ずお腕を一口飲んでから、ご飯に箸をつけるという若いテレビ・ディレクターがいました。家族はみなそうやっていたから、それ以外の食べ方は考えられないという。これは、たしかに作法にかなっていることです。彼は、きちんとしたしつけを受けて大人になったのでしょう。
■サンマの食べ方、おふくろの味も立派な相続
また、料亭に行ったとき、靴をぬぐのに時間のかかる人がいました。私などは、足をもぞもぞとさせて無造作にぬいでしまうのですが、彼はちがう。「父親にうるさく言われたので」と言いつつ、靴ひもをきちんとほどいて、ぬぐのです。
履くときも同様で、私は、靴べらを使ってむりやり押し込むのですが、彼は、ひもをキュッキュッと締めて結んでいます。スリップオンの靴でないかぎり、これは当たり前のことのようでした。
秋刀魚の食べ方を、教科書で学ぶというわけにはいきません。図解で示されても、ディテールはわかりませんから、やはり、親の食べ方から学ぶしかなさそうです。
とはいえ、綺麗な食べ方を相続していればいいのですが、そうもいかないところが難しい。出された料理に片端からドバドバ醤油をかけてしまう人がいます。これは料理人が顔をしかめることなのですが、おそらく、親が同じことをしていたのを見て育ったのでしょう。
そういう意味で、おふくろの味も、最近はパン食が多くなって、相続が難しくなっています。居酒屋でおふくろの味がもてはやされるのは、「こころの相続」が次第に失われてきたからかもしれません。
朝、とんとんと野菜を刻む音がして味噌汁の香りがただよう。私も、そんな体験を相続できなかったことを残念に思うこともしばしばです。
■福岡人の父母から受け継いだ九州弁
私の喋り方は、形のうえでは共通語ですが、アクセントやイントネーションはまったくの九州弁です。正確にいうと、福岡の筑後弁で、柿と牡蠣の区別がつきません。
橋も箸も一緒になってしまいます。若いころには、青森県出身の寺山修司さんと、栃木県出身の立松和平さんを合わせて「三バカ方言作家」などと、からかわれたものでした。
この喋り方は、まぎれもなく私が父母から受け継いだものです。両親ともに福岡人ですから、家庭内の会話は、100パーセント九州弁でした。この年になってもまだ、両親から相続した喋り方が消えていません。
食べ物に関する嗜好も、味つけの好みも九州由来で、両親からの相続です。私の家では正月の雑煮に入れる餅は、丸い餅でした。餅とはすべて円いものだ、と思い込んでいました。東京へ来てから四角い餅の存在を知ったのです。
また正月の雑煮に鶏肉を入れ、味噌仕立てにするのも、郷里の流儀でした。また、私は中年期に達するまで、家の宗旨に無関心でした。しかし、ときたま、子どものころに両親が仏壇の前で、何か唱えているのを思い出すことがありました。
■相続は両親からだけ、とは限らない
記憶の底をたどってみると、「キーミョームーリョージューニョーラーイ」という呪文のような文句が浮かびあがってきます。これが『正信偈』という、真宗門徒の唱えるお勤めの言葉であることを知ったのも、かなりあとになってからのことです。親鸞がまとめ、蓮如が定めた真宗の作法の相続が忘れられていたのです。
人との挨拶の仕方、お礼のいい方、そのほか数えきれないほどのものを私は両親から相続しているのですが、残念ながら綺麗な魚の食べ方は相続していませんでした。
以前、韓国の地方の駅のキオスクで買物をして、売り子の娘さんが釣り銭を差し出すときに、右手の肘の下にそっと左手をそえて渡してくれたのが、すごく優雅に感じられたことがありました。
韓国で昔、長袖の服を着ていたころの名残りでしょうか。家というより、社会から相続した身振りだったのかもしれません。親や先輩からだけとは限りません。私たちは、社会からも、見えないさまざまなものを相続しているのです。
■後世に引き継ぐべき災害の記憶
相続には、個人から個人に相続されるものだけでなく、文化や風習のように集団から集団への相続などいろいろあります。いずれも、絶やしてはならない「こころの相続」と言えます。
先日、巨大台風が日本を襲い、浸水や河川の氾濫があちこちで起きました。私は、もう半世紀以上前の昭和36年に、長野県の南部、伊那谷を襲った大災害のことを、月刊誌のルポルタージュに書いたことがあります。俗に「三六災害」と呼ばれるものです。
天竜川の氾濫により、当時、日本三大桑園の一つと言われた桑畑もほぼ壊滅して砂漠になり、集落はゴーストタウン化して、上流では土砂崩れや鉄砲水で、多くの死者も出た大災害でした。
この「暴れ天竜」と言われる川の異名そのままの災害の1年後、雑誌にルポを書くために、国鉄(現JR)飯田線の川路という小さな駅に降り立ったのです。この取材のとき、被災者がお年寄りから、「谷筋に家を建てるな」と言われていたのに、と、悔やんでいたことを思い出しました。
■災害の時にこそ「こころの相続」の価値がわかる
水害の危険性があるにもかかわらず、人は川の近くに住みたがります。それは仕方がないことなのでしょう。人の生活に、水を欠かすことはできません。人びとは、農業だけではなく、炊事や洗濯に水を使い、野菜を洗うにも川の水を利用してきました。ですから、どうしても川の近くに家を建てたくなります。
しかし、「谷筋に家を建てるな」という先祖の忠告は、「こころの相続」として受け止めるべきだったのでしょう。
東日本大震災のときにしても、津波がきたらどうするのか、「津波てんでんこ」などという言い伝えも話題になりました。つまり、他を顧みずとにかく自分が助かることを考えろ、という教訓です。こうした教訓がしっかり相続されていたら、被害は減らせたのかもしれません。
家にいるはずの肉親を案じて、戻ったばかりに命を落とした、という話も聞きました。
「家族は普段からの申し合わせ通り、きっと逃げている」
心を鬼にして、そう信じるしかない局面もあったにちがいないのです。
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作家
1932年、福岡県生まれ。戦後、朝鮮半島から引き揚げる。早稲田大学文学部ロシア文学科中退。67年『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞を受賞。81年から龍谷大学で仏教史を学ぶ。主な著書に『青春の門』『百寺巡礼』『孤独のすすめ』など。
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(作家 五木 寛之)
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