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乗客は8割減「日本最小の航空会社」がそれでも1日4回の機体磨きを続けるワケ

プレジデントオンライン / 2020年8月12日 9時15分

インタビューに応じる小林知史氏(筆者撮影)

新型コロナの影響で「日本で最も小さな航空会社」が危機に直面している。天草エアライン(熊本県)の専務で、元JAL整備士の小林知史氏は、それでも1日4回の「機体磨き」をやめない。小林氏は「どんな状況だろうと、飛行機を安全に飛ばすことが私の役割。機体磨きは、35年前の日航機墜落事故から学んだ教訓だ」と話す——。

■元JAL整備士が心に刻む「日航機墜落事故」の教訓

新型コロナウイルスで航空業界が大打撃を受けている。それは大手だけではない。「日本で最も小さい定期航空会社」と呼ばれる天草エアラインも、かつてない危機に直面している。

2020年3月期は11年ぶりに1億6627万円の赤字に転落した。4月の乗客数は前年同月に比べて8割減だった。48席ある機内は、乗客が1桁ということも多い。コストを絞るため1日10便の定期便は、いっとき2便に減らした。

そんな状況でも、専務の小林知史(64)は1日4回の機体磨きを欠かさない。天草の人たちの生活の足である定期便を安全に飛ばすためだ。小林にとって、機体磨きは35年前、520人が犠牲になった日航機墜落事故から学んだ教訓でもある。

小林は元JAL整備士。墜落事故の原因が、ボーイング社の後部圧力隔壁の修理ミスだったとはいえ、機体にできた亀裂を整備士が点検で発見できていれば、墜落事故は防げたかもしれない、という後悔がある。

機体磨きはボティをきれいにするためだけではない。汚れや小さな傷が機体の異変につながることがある。特に、ボディのつなぎ目は金属疲労を起こしやすい。磨くことで異変の兆しを素早く把握し、安全性を高める効果がある。小林の安全思想の表れなのだ。

■国際線の主力機を担当、企業戦士を支える喜び

小林が京都の工業高校を卒業し、JALに入社したのは1975年春。中学に進む頃、大学紛争を目の当たりにして、「紛争に時間を費やすよりも手に職をつけたい」との思いが強くなり、大学への進学の気持ちは薄れ、高校を卒業したら就職すると決めていた。

とはいえ、机に向かう仕事は自分には合わない。機械に興味があったので、おぼろげながら自動車整備士になろうと考えていたが、たまたま学校で航空整備士の求人を見つけた。全く想定していなかった仕事だった。学校の先生に相談すると「先輩もいる、これからの仕事だ」と背中を押してくれた。すぐに履歴書を送った。

機体磨く小林
筆者撮影
機体を磨く小林氏 - 筆者撮影

入社以来、一貫して整備畑を歩み続けた。担当した機体は、「ボーイング747クラシック」「DC-10」「ボーイング747-400」「ボーイング777」。いずれもJALの国際線を担った主力機だ。乗客は日本の経済成長を支える企業戦士たち。小林は「そんな時代の担い手を、整備した飛行機で送り迎えしてきたんです。整備士冥利に尽きますね」と回想する。

■35年前の日航機墜落事故の記憶

入社から10年。メキシコでの整備研修から帰国し、成田空港で整備を担当した。仕事は何でもそつなくこなせるようになった。一人前と言われる一等航空整備士の受検を控え、目標に向かって突き進んでいた時期だった。

そこに、衝撃のニュースが飛び込んできた。1985年8月12日。ボーイング747SR-100型機が群馬県上野村の山中に墜落し、520人が死亡した日航機墜落事故だ。

「うちの機体が落ちた。うそだろ……」。夏休みの休暇で、京都の実家に帰省中だった。テレビの画面に事故を知らせる速報が流れた。その場に立っていることができなかった。

航空機事故は離陸後3分、着陸前8分の間に起きやすい。クリティカルイレブンミニッツという言葉があるくらいだ。二重三重のフェイルセーフ(常に安全への制御が行える設計)の構造を持つ機体が、飛行中に墜落するなど絶対にありえない。それが整備士としての常識だ。

重い気持ちを引きずりながら休暇明けの職場に向かった。同僚たちの表情は一様に暗い。会社からは、今後のプライベートの行動を自粛せよという話があったが、それ以上の訓示のようなものは無かった。

まだ事故の原因はわかっていない。それでも飛行機を毎日飛ばさなければならず、手を休めるわけにはいかなかった。厳しくも楽しかった仕事に、怖さが加わった。「目の前の仕事をこなそう」と小林は自分に言い聞かせるしかできなかった。

■「一生胸に刻み付けている」事故報告書の一節

事故から2年後、運輸省(現・国土交通省)が航空機事故報告書をまとめ、公表した。

報告書によると、墜落事故の原因は「機体の亀裂」だった。圧力隔壁にあるリベット付近の亀裂が致命傷だった。墜落事故の約1年前に行われた「C整備」(1週間ほどかけて重点的に整備・点検すること)で、その亀裂を見つけられなかった。

報告書では「14~60%の確率で亀裂を発見できた可能性がある」と書かれていた。小林は「自分が、事故機の整備の場にいたとしたら、亀裂を見つけられただろうか」と自問した。

機体磨く小林
筆者撮影
機体を磨く小林氏 - 筆者撮影

その報告書に、小林が「一生胸に刻み付けている」と話す一節がある。

「航空機の整備技術の向上に資するため、目視点検による亀裂の発見に関し、検討すること。航空機の構造に生じた亀裂の発見は、目視点検によって行われる場合が多いが、目視点検によってどの程度の亀裂が発見できるかについては、現在十分な資料がない状況である。我が国において運航されている輸送機について目視点検による亀裂の発見に関する資料の収集、分析を行い、航空機の整備技術の向上に資する必要がある」

■「整備士としてできることは何でもする」

アルミニウム合金製の機体に亀裂なんて起きるはずがない。無意識に、頭の中でそんな思いがあったのではと自戒した。小林はそれまでの思い込みを捨てることから始めた。

JALは整備士を機体ごとに担当を割り当てる「機付整備士制度」を取ったこともあり、担当する機体の機材故障を丹念に調べる毎日だった。同僚と競うように機体を磨いた。一等航空整備士として、JALのフラッグシップ機、ボーイング747を担当するまでになった。海外旅行が当たり前となり、扱う機種はどんどん増え、技術革新が進んでいった。それでも、機体の異常の兆しを見逃さない、という思いが変わることはなかった。

「整備士としてできることは何でもする、当時はそんなふうに思っていました」と小林。ホノルル駐在時は1日19便もの飛行機を受け入れ、早朝から機体に張り付いた。2000年代に入ると、JASと統合するため、全国各地の空港を飛び回った。

■定年後はゆっくり過ごすはずだった

小林はJALの整備部門のグループ会社で60歳の定年を迎え、2016年5月に退職した。仕事を優先するあまり家族には迷惑をかけた。そんな思いから、定年後は妻・知子さんと千葉の自宅でゆっくり過ごす予定だった。

しかし1年も続かなかった。当時天草エアラインは自社での整備体制を強化するため、同じ機体を持つ鹿児島の地域航空会社・JAC日本エアコミューターに整備業務を委託する方向で動いていた。整備のエキスパートが必要となり、小林に白羽の矢が立った。他にも関連企業数社から誘いがあったが、1機の飛行機を全社員の力で飛ばす天草エアラインに惹かれた。

天草エアラインのATR42-600
筆者撮影
天草エアラインのATR42-600 - 筆者撮影

「もう一度、自分は社会の役に立ちたい」。妻に話すと「お父さんがそう思うなら」と承諾してくれた。ちょうど娘が就職して独り立ちする時期だったこともあり、引き受けた。妻と天草に引っ越し、第2の人生をスタートさせた。

■飛行機の大きさは変わっても、やることは同じ

小林の就任から約1年で天草エアラインの整備士はJACへの出向という形に変わった。天草エアラインの唯一の機体が整備に入っても代わりの機体を借りられることになり、正真正銘の「定期航空会社」になった。とはいえ、整備士の所属が形式的に変わっただけで、整備士の顔ぶれも、整備士としての仕事も変わらない。

それは小林も同じだ。飛行機への思いは、天草でも変わらない。入社以来、水をくんだバケツを横に置き、機首から尾部まで雑巾で磨き続けている。変わったのは、JALで担当したボーイング747ジャンボジェットの3分の1にも満たない飛行機の大きさだけだ。

今も「自分が事故機の整備の場にいたら、亀裂は発見できただろうか」と自問自答しながら、飛行機が訴える声に耳を傾ける。毎日機体を見ていると小石が跳ねてできた小さなへこみも気がつく。ちょっとした変化も見逃さない。それが整備士の使命だと確信している。

■「自分の背中を見せることが最後の務めです」

小林が大切に保管している毎日新聞夕刊。
小林氏が大切に保管している毎日新聞夕刊。

小林は、筆者に新聞の1面記事の切り抜きを見せてくれた。日航機が御巣鷹山に墜落する直前、乗客が機内の様子を撮影した写真だ(※)。JALを離れたあともこの記事をデスクの引き出しに入れ、事故を知らない後輩たちの研修資料に必ず盛り込んでいる。

※筆者註:毎日新聞夕刊1990年10月13日付

「いくら『安全』と言っても伝わらないことがあると思います。どんなマニュアルよりも、この写真が当時の状況を雄弁に物語っています。整備士として忘れてはいけない場面です」

整備士として人生の大半を過ごしてきた小林にとって、航空事故報告書は「教科書」であり、この新聞記事は「バイブル」だという。

小林は「後進の育成が自分の最後の仕事」と話す。墜落事故の教訓を伝える一番の近道は、毎日欠かさず1日4回機体を磨き上げることだと考えている。天草エアラインの整備士は7名。彼らに飛行機の声に耳を傾けることの意味を伝えなければいけない。

「天草エアラインで残された時間はそう長くはありません。事故の教訓を伝えながら、引退するその時まで自分の背中を後輩に見せていきたいです」

■整備士の振る手は安心のしるし

天草空港では、職員が「いってらっしゃい」「楽しい空の旅を」「ご搭乗ありがとうございます」と書いた手作りの看板を掲げ、乗客を見送る。滑走路に向かって飛行機が動き出すと、大きく手を振って乗客を送り出す。それも小林の仕事だ。

「ご搭乗ありがとうございます」と書かれた手作り看板を掲げ、乗客を見送る
筆者撮影
「ご搭乗ありがとうございます」と書かれた手作りの看板を掲げ、乗客を見送る小林氏(左) - 筆者撮影

筆者は小林への取材を終え、天草エアライン機に乗り込んだ。当初、小林たちの見送りは乗客を喜ばせようとする単なるサービスだと思っていた。しかし、それだけではないようだ。「この飛行機は俺が自信をもって見た。安心を約束する。飛行機の旅を心から楽しんで」。そんな小林の声が聞こえたような気がした。

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北島 幸司(きたじま・こうじ)
航空ジャーナリスト
大阪府出身。幼いころからの航空機ファンで、乗り鉄ならぬ「乗りヒコ」として、空旅の楽しさを発信している。海外旅行情報サイト「Risvel」で連載コラム「空旅のススメ」や機内誌の執筆、月刊航空雑誌を手がけるほか、「あびあんうぃんぐ」の名前でブログも更新中。航空ジャーナリスト協会所属。

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(航空ジャーナリスト 北島 幸司)

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