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フェミニストが女性差別だけでなく支援団体にも怒りを抱く構造的理由

プレジデントオンライン / 2020年8月21日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/skynesher

女性差別を解消していくには、なにが必要なのか。性問題の解決に取り組んでいるホワイトハンズ代表理事の坂爪真吾氏は、「ツイッターでは『#私たちは女性差別に怒っていい』というハッシュタグが話題になった。しかし『私たち』という言い方を続けると、『男が許せない』『女性差別が許せない』という怒りをたぎらせるだけで終わってしまう」と指摘する――。

※本稿は、坂爪真吾『「許せない」がやめられない』(徳間書店)の一部を再編集したものです。

■「#私たちは女性差別に怒っていい」というハッシュタグ

2018年8月、東京医科大学が入試で女子や浪人年数の多い受験生の得点を一律に下げていたことが発覚した際に、ツイッター上で「#私たちは女性差別に怒っていい」というハッシュタグが拡散された(※1)

※1:当時河出書房新社の編集者であり、現在はエトセトラブックス(@__etcbooks)代表取締役の松尾亜紀子によってつくられたハッシュタグとされている。

女性差別に関する炎上は、特定の対象や表現に対して、女性たちが「それは女性差別だ」と指摘し、怒りの声を上げることから始まる。

ここで用いられるのは、「主語の全体化」である。それは特定の個人に対する差別ではなく、私たち=女性全体に対する差別である、という言い回しで、主語を個人から女性全体へと変換される。

こうした主語の全体化は、個人の怒りに対して一定の社会性を付与することができる。

■「個人的なことは政治的なことである」

自分の怒りが個人的なものではなく、あくまで社会的なものであること、そして自分のためだけではなく、女性全体のための怒りである、と主張することができる。

女性の社会活動家の中には、自分たちの団体や活動が批判された場合、「自分が傷ついた」とは決して言わず、「当事者の女性たちが傷ついた」「被害者の少女たちが傷ついた」と主語を変換する人もいる。

こうした主語の全体化は、客観的に見ればご都合主義で恣意的な振る舞いに思えるかもしれない。しかし、社会問題の解決を目指す運動や事業の過程では、主語を意識して全体化していくことが欠かせない。

フェミニズムには、「個人的なことは政治的なことである」という命題(※2)がある。一見私的な悩み、プライベートな領域の問題だと思われている事柄の中に、実は社会的な差別や暴力、搾取の問題が隠れている、という考え方だ。

※2:男女の政治的平等を求めた第一波フェミニズムに続いて、男女の社会的平等を求めた第二波フェミニズムにおいて用いられた命題である。この命題に対して、マスキュリストは「個人的なことは、あくまで個人的なことにすぎない」と批判する。

■被害者が全体化されれば、加害者もまた全体化される

差別や暴力の被害者が「これは自分だけの問題だから」と考えて一人で苦しまないためにも、「あなたの苦しみは、私の苦しみである」「あなたに対する差別は、私たち全員に対する差別である」といった言い回しで仲間を増やし、連帯していく必要がある。

その一方で、主語の全体化は、個人や問題の複雑性や多様性を捨象してしまう。被害者が全体化されれば、加害者もまた全体化される。結果として、事件とは無関係な相手や集団を「加害者」呼ばわりしてしまう事故が多発する。本来であれば闘う必要のない相手や集団を「加害者」「性差別者」として認定・攻撃してしまうことで、問題の解決をより困難にしてしまう場合もある。

主語の全体化は、あくまで被害者の痛みを和らげるため、そして社会問題を解決するための便宜上の手段にすぎない。それ自体が目的や習慣になってしまうと、ただ「男が許せない」「女性差別が許せない」という怒りを都合よくたぎらせるために主語を全体化する、という本末転倒な状態になってしまう。

■何が女性差別に当たるかどうかは自分たちが決める

女性差別をめぐる問題で最も議論の的になるのは、特定の発言や表現を、「誰が・どのような基準で・差別だと決めるのか」という問いである。

フェミニズムとは、社会的弱者の自己定義権(=私は何者かを自分で決める権利)の獲得運動である。ツイフェミたちは、「何が女性差別に当たるかどうかは、当事者であり被害者である私たちが決める」「私たち以外に、女性差別に当たるかどうかを判定する権利はない」と主張する。

そうした主張の裏付けや権威付けとして、海外のデータや研究者・思想家の理論、国際条約を持ち出してくる場合もあるが、基本的には「何が差別に当たるかは、当事者であり被害者である私たちが決める」という姿勢を貫いている。しかし、「何が差別に当たるか」に関する社会的同意は、マイノリティの一方的な宣言によって形成されるものでもなければ、マジョリティの一方的な反省によって形成されるものでもない。

「差別/被差別」「加害者/被害者」「搾取/被搾取」の線引きは、当事者間の関係性や社会状況といった文脈によって決まる、極めて流動的なものである。

■目に触れる全ての情報が怒りの「燃料」

文脈依存性の高い概念を、文脈を無視して濫用した場合、任意の相手を「セクシスト(性差別者)」「差別の加害者」と認定・糾弾することができる。

そして主語の全体化によって、女性に対する「差別」「暴力」「搾取」が社会のそこかしこに溢れているという認識になり、目に触れる全ての情報が「燃料」になる。そのために、「男が許せない」という怒りを無限に燃やし続けることができるようになる。こうした状況下では、客観的な事実よりも、主観的かつ体感的な感情に基づいた「真実」を信じることが優先される。そして、その「真実」に反する相手を攻撃することに疑問を抱かなくなる。

仮に「真実」に反する統計的事実を突きつけられても、「#私がエビデンス」というハッシュタグを印籠のように振りかざして、「セクシスト」と認定した相手を攻撃することがやめられなくなる。

■自らを「被害者化」して後ろめたさをなくそうとする

主語の全体化と、主観的な差別認定によって生み出した怒りを、後ろめたさや自己嫌悪に囚われずに存分に燃焼させるためには、自らを「被害者化」する必要がある。

ツイフェミは、「女叩きや女性の性的消費は、日本人の一大娯楽である」「エンタメとしての女叩き、女性の性的消費・搾取が空気のように当たり前になっているため、皆その異常さに気づかない」と主張する。

そして、「私もまた、女叩きや女性の性的消費の被害者である」と自己定義する。その上で、女性を黙らせようとする男性中心社会の圧力に晒されている被害者としての立場から、「#私は黙らない」というハッシュタグを掲げる。

こうした認識が事実であるかどうか、定義に妥当性があるかどうかは、さして重要ではない。重要なのは、自らを「被害者化」することによって本人が得られるメリットだ。

■目に入るあらゆる情報に女性差別を見出す

「女叩きは日本人の一大娯楽」「女性の性的消費・搾取が日常的に行われている」という認識がいったんインストールされると、SNS上でそうした認識を強化する情報だけを取捨選択するようになる。

さらに、同じ認識を持った「被害者」同士で集まることで、「男が許せない」「女性差別が許せない」という怒りを集団で燃やし続けることができるようになる。

こうした情報環境と人間関係に身を置き続けることで、目に入るあらゆる現象や言動に対して、「女性差別」を見出して、「私は傷ついた!」「差別された!」といって怒りを燃やすことができるようになる。いうなれば、「差別萌え」の状態だ。

一方、男性から自己の言動を批判されると「女性差別だ!」「女叩きだ!」と主語を全体化して反論する。男性から説明や提案を受けると「被害者を黙らせようとするな」「マンスプレイニングだ!」と怒りをあらわにする。

マンスプレイニング(Mansplaining)とは、「man」(男)と「explain」(説明する)を合わせて作られた言葉であり、男性が偉そうに女性を見下しながら何かを解説・助言することを指す。マンスプレイニングは、男性から女性に対して行われるハラスメントの一種と位置づけられている。

■ツイフェミはあらゆる批判を「女叩き」とみなす

ツイフェミが批判されるのは、「差別」という言葉を濫用して、根拠もなく他者の言動や表現を制約しようとするからであって、「女性だから」「フェミニストだから」という理由だけではない。

しかし彼女たちは、自分たちに寄せられたあらゆる批判を、「女性差別」「女叩き」と読み替えることで、ダメージを無効化してしまう。

こうした被害者ポジションを取れば、加害者である男性だけでなく、社会全体のあらゆる言動に対して怒りを抱くことが可能になる。他者や社会に対して、常に「配慮」「理解」「想像力」を要求する側に立つことができる。

一部のツイフェミは、「私は被害に遭った」という告白をすれば、それだけであらゆる論争に勝利でき、周囲と社会から無限の配慮と慰安を受けることができ、自己肯定感や承認欲求を心ゆくまで満たすことができる、という信仰に近い信念を持っている。これを「被害者原理主義」と呼ぶことにしよう。

自分たちはいつ・いかなる場面においても守られるべき「絶対被害者」であり、男性中心社会における「聖なる犠牲者」である。ゆえに、自分たちの主張は際限なく認められるべきであり、異論・反論を唱えることは一切許されない。

■無関心な人でさえ「加害者」となる

こうした被害者原理主義に陥ってしまうと、「被害者/加害者」の二項対立でしか物事を考えられなくなり、自分を直接攻撃してくる相手だけでなく、この問題にコミットしない人、沈黙している人、無関心な人もまた「加害者」である、という認識に染まっていく。

坂爪真吾『「許せない」がやめられない』(徳間書店)
坂爪真吾『「許せない」がやめられない』(徳間書店)

さらに、実際に性暴力や虐待の被害者に対して支援活動を行っている専門職や団体に対しても、「女性をかわいそうな存在、傷ついている存在とみなすこと自体が差別」「救済や擁護の対象として設定すること自体がパターナリズムであり、差別だ」と攻撃するようになる。

被害者ポジションを無自覚なまま取り続けている人は、いつのまにか加害者と同じ言動をするようになっていく。加害者の頭の中は、被害者意識で充満しているのだ。

「禍福はあざなえる縄の如し」という格言があるが、被害者と加害者もまた、あざなえる縄の如く絡み合った存在だと言える。

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坂爪 真吾(さかつめ・しんご)
ホワイトハンズ代表理事
1981年新潟市生まれ。東京大学文学部卒。新しい「性の公共」をつくる、という理念の下、重度身体障害者に対する射精介助サービス、風俗産業の社会化を目指す「セックスワーク・サミット」の開催など、社会的な切り口で、現代の性問題の解決に取り組んでいる。2014年社会貢献者表彰、2015年新潟人間力大賞グランプリ受賞。著書に、『セックス・ヘルパーの尋常ならざる情熱』(小学館新書)、『男子の貞操』(ちくま新書)など。

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(ホワイトハンズ代表理事 坂爪 真吾)

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